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和歌山城から和歌浦へ

旅行日:平成25年2月(27~)28~3月2日②

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 ①学問と僧兵の根来寺

 根来寺を見た後,バスと電車を乗り継ぎ,14時前に和歌山駅に着きました。何か食べてからバスで市の中心部に向かおうと考えていたのですが,適当な店が見つからないまま駅を離れてしまいました。和歌山市の中心部は和歌山城の北や西側に広がっています。街の東側にJRの和歌山駅が,西側に南海の和歌山市駅があって,街を挟む形になっています。両駅の間には路面電車が通じていた時代もありましたが,昭和46年に廃止になり,現在はバスが10分間隔で結んでいます。
 結局,和歌山城の辺りまで歩いてきてしまい,イートインスペースのあるコンビニでの昼食となりました。名物の和歌山ラーメンの店は夕方から営業のところが多いようです。

 食後は和歌山城へ。江戸時代は宏大な縄張りを有していましたが,現在は内濠の内側が和歌山公園として整備され,外側はビジネス街になっています。
 まずは大手門と一の橋。明治時代に自然倒壊し,昭和58年に復元されました。
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 内濠に沿って西に歩くと,復元天守が見えてきます。内濠に架かるのは御橋廊下。二ノ丸(左)と西の丸(右)を結びます。
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 西の丸には西の丸御殿がありましたが,建物はなくなり,駐車場と広場になっています。御殿に隣接して紅葉渓庭園があり,こちらは残っています。この庭園は徳川頼宣が内濠の一部を利用して造らせたものです。
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 池に沿って歩くと,何かが落ちる水音がしました。小石でも蹴ったのかと見てみると,カメが甲羅干しをしているのでした。中には近づいても動じないヤツもいて,威嚇なのか首を思い切り突き出していました。
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 御橋廊下を渡って二ノ丸へ移動します。往時は藩主と付き人だけしか通行できませんでしたが,平成18年に復元されたあとは,靴を脱げば誰でも通行できるようになりました。廊下橋が斜めになっているのは珍しいのだそうです。
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 内部は床板が斜めに敷かれていて,滑って登れないのではないかと危惧しましたが,入ってみると床板は細長い板が波状に敷かれていて,滑らないようになっていました。足のツボが刺激されます。
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 二ノ丸には二ノ丸御殿があり,公務の場である「表」,藩主の公邸である「中奥」,そして「大奥」からなりました。大奥は江戸と徳川御三家のうち名古屋・和歌山にしかないものでした。
 建物はなく,花が植えられていました。
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 二ノ丸を睥睨するのは伏虎像。和歌山城のある山を海上から見ると伏虎のようであることから,伏虎城の異名があり,それにちなんで造られた像です。先代は戦時中に供出され,二代目になっています。
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 和歌山城は豊臣秀吉による紀州征伐のあと,弟の秀長によって築城されました。それまでは「若山」という名の小山でしたが,築城に際して和歌浦にちなんで「和歌山」に改められています。
 その後秀長は大坂城に移り,家臣の桑山重晴が城代となります。このような立場でありながら,重晴を継いで城代になっていた一晴は関ケ原の戦いで西軍から東軍に寝返っています。戦後は桑山氏,浅野氏が藩主となりましたが,いずれも短期間で移封し,元和5年(1619)に徳川家康の十男である頼宣が55.5万石で入り,紀伊徳川家となりました。
 桑山氏が小規模な改修を行い,浅野氏が現在の城郭を整えました。さらに,続く頼宣は城と城下町を大幅に拡大しようとして謀反の疑いを掛けられるほどでした。
 石垣の積み方にも年代による差異が見られ,大手門から二ノ丸に通じる下写真の部分は「切り込み接(は)ぎ」という技法が使われた熊野産の花崗岩が用いられています。
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 本丸を廻りこむように登っていきます。南の丸は市立動物園になっており,動物が鳴いているのが聞こえてきます。
 本丸には二つのコブがあり,片方が天守閣,もう片方が本丸御殿になっていました。本丸御殿の方は,浅野氏の時代には二ノ丸として藩主の公邸でしたが,徳川時代には前述の(新)二ノ丸の方に機能が移ったため,空御殿になり,廃藩後に解体されています。
 手前の石垣は野面(のづら)積みです。
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 いよいよ天守閣です。
 和歌山城の天守閣は慶長10年(1605)に築かれましたが,弘化3年(1846)に落雷によって焼失しました。当時は天守の再建はできないことになっていましたが,御三家ということで特別に再建が許され,嘉永3年(1850)に完成しました。
 最後の藩主は茂承で,新政府軍に攻め込まれそうになりましたが,恭順する姿勢を示し,藩兵を提供するなどして城下町は戦禍を免れました。明治維新後は多くの建物が移築され,内濠の内側は和歌山公園として整備されました。天守などは昭和10年(1935)に姫路城に次いで城郭としては2番目に(旧)国宝に指定されましたが,昭和20年の和歌山大空襲で焼失しました。
 現在のものは昭和33年に鉄筋コンクリートで復元されたものです。
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 こちらは小天守。大天守とは渡櫓で繋がっています。こうした形態を「連立式」というのだそうです。
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 復元天守の内部は資料館になっていました。和歌山としては,頼宣の孫(つまり家康の曾孫)で5代目藩主から8代将軍になった吉宗が誇りのようでした。吉宗は紀州藩主を10年務めた実績を基に享保の改革を行っています。本家の養子になったこともあり,8代から14代までの将軍は吉宗の血を継ぐ者が将軍になりました(15代の慶喜は水戸徳川家の出)。
 資料館は撮影禁止とそこかしこに掲示がありましたが,流石に眺望は問題ないでしょう[1]。まずは和歌山駅の方向。
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 東側。樹木の間から僅かに見える東濠は実際にはかなりの幅があります。
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 西側。紀ノ川の河口を見ます。対岸の大工場は住友金属の和歌山製鉄所。
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 北側。なだらかな和泉山脈が続いています。
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 岡口門から表に出ます。この門は元和7年(1621)に頼宣が裏門として造ったもので,戦災に遭わず,和歌山城では数少ない江戸時代の建造物です。
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 埋め立てられた南濠に沿って歩き,国道24号(中央通り)に出,県庁前から15:46発のバスに15分ほど揺られ,権現前で下車。停留所名の権現は東照大権現,すなわち徳川家康のことです。東照大権現と紀州藩初代藩主の徳川頼宣(南龍大神)を祀る紀州東照宮があります。
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 参道をゆくとこの石段。かなり急で108段あるそうですが,何とか一息で登り切りました。
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 紀州東照宮は頼宣が元和5年に和歌山に入ってすぐに造営がはじまり,元和7年に完成しました。「関西の日光」の異名があります。時間の都合で表から見ただけでしたが,襖絵や彫刻に凝っていて,職員の方の案内で見学することができるそうです。
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 石段の上からの和歌浦の景色はなかなかのものでした。左側から和歌川が流れてきて,砂嘴を形成して和歌浦に流入しています。
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 石段を駆け下り,和歌浦に出ます。和歌浦は万葉の頃からの景勝地で,山部赤人が「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」と詠んでいます。私にはイマイチ意味が理解できなかったので調べてみると「和歌の浦に潮が満ちて来ると潟が無くなるので,葦のほとりを目ざして鶴が鳴き渡ることよ」ということだそうです[2]。
 このアーチ橋は不老橋。熊本の石工を招いて嘉永4年(1851)に架けられました。
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 ツルの代わりにコウノトリがいました。遥々豊岡からやって来たようです。写真を撮っていたおじさんが教えてくれなければ,サギか何かだと思って疑わなかったでしょうから,多謝。
 ただ,長いレンズを持っていなかったのが残念でした。下写真はトリミングして,色合いも加工しています。左のデカい鳥がコウノトリです。これでも小さいですが,これ以上拡大するとモザイク画みたいになってしまいます。
IMG_4106 - コピー

 和歌の浦は昭和初期に大衆観光地として栄え,戦後も乱開発によってかつてのような風光明媚さは失われたといいます。
 それでもこうした鏡のように凪いだ干潟の水面を見ていると,心穏やかになります。
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 和歌の浦に浮かぶ妹尾島。干潮すぎて浮かぶどころではありませんが…。三断橋という慶安年間(1648~52)に架けられた石橋が現存するのですが,修復工事中で,仮設橋を渡りました。
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 妹尾島には海禅院という寺院があります。家康の三十三回忌の際に側室であった養珠院が経石を納めたことに始まり,藩の庇護を受けてきましたが,絶えず民衆にも開放されていました。
 海に張り出して観海閣が建ち,颱風の度に修復を繰り返していましたが,昭和36年の室戸台風で倒壊し,鉄筋コンクリートで再建されました。
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 砂嘴の外側にあたる片男波(かたおなみ)海岸を歩いて,千鳥磯バス停に向かいました。「片男波」とは変わった地名ですが,前述の和歌の「潟を無み」の部分からきているそうです。
 バス停までは意外と距離があり,着いて廃隧道の写真を撮っているとすぐにバスが到着しました。雑賀崎を廻ります。
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 雑賀崎(さいかざき)は和歌浦から西に突き出した岬で,戦国時代は雑賀衆の本拠地となっていました。彼らは根来衆に次いで火縄銃を手に入れ,石山本願寺の戦いなどでしばしば織田信長を苦しめました。
 しかし,天正13年(1585)に秀吉が攻め込んでくると,根来衆と共に抵抗空しく滅ぼされてしまいました。
 道は時折細くなり,かつては陸の孤島であったことを窺わせる浦々をバスは走りました。一時の観光ブームが終わり,廃墟や空き地が目立ちました。

 平地に出ると帰宅客などの乗車があり,17:27に高松バス停で下車。大きなスーパーで買い物をして,ホテルに向かう積りでバスに乗りました。が,気が変わって,県庁前で下車。
 ライトアップされた和歌山城を見ることにします。朱色に塗られたのは先ほど見なかった追廻門。
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 最初に天守と御橋廊下を絡めて撮影したところにも赴きました。白壁と宵闇で露出が難しく,調整しながら十数カット収めました。
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 公園前から10分おきのバスに乗り,和歌山市の繁華街である本町を抜け和歌山市駅に到りました。バスは関東ではあまり見かけない後扉車にあたりました。
 大阪から和歌山への鉄道は南海鉄道が明治36年(1903)に,阪和電気鉄道が昭和5年(1930)に和歌山入りを果たしています。セオリー通りならば明治のうちに南海鉄道が国有化され,そこに新参の阪和電鉄が安い運賃と高速頻発運転で殴り込みをかけてくるのですが,南海鉄道はどういう訳か国有化されませんでした。両者は戦時下に統合し,昭和19年に阪和の方が買収国有化されました。国鉄としては明治40年に関西鉄道を買収して和歌山への路線を所有していますが,大阪の湊町から奈良の王寺を経由するという迂遠なルートでした。紀淡海峡は大阪防衛の要所で,軍としても鉄道の必要は認識していたでしょうから,何とも不可解なことです。
 それはともかくとして,19時だというのに人気のない駅前に降り立ち,歩いて少しのホテルにチェックイン。その後は疲れからラーメンを食べに行く気もなくなってしまいました。
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 この日は和歌山バスの一日乗車券(1,000円)を買い,6回利用しました。運賃は高めなので,1,960円分利用し,十分にモトが取れました。

[1]和歌山城での撮影禁止の意図を職員に訊ねた方のブログを拝見したところ,展示物は寄贈品であるためということだそうです。
[2]引用元は国民宿舎新和歌ロッジHPのこちらのページです。
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