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織田・劒神社と今庄宿 (2018年・夏の終わりの飛彈北陸旅行5)

旅行日:平成30年8月30日~9月1日⑤

最初の記事 稲核風穴から安房トンネルを抜けて旧丹生川村へ
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 飛彈北陸旅行第3日目。
 雨音で目を覚ますと6時過ぎだった。かなり激しい降り方で、屋根から勢いよく雨水が流れ落ちている。
 朝風呂を浴びて朝食を摂り、8時半過ぎに出発。雨は止んだようだ。
 きょうは北陸線の旧線を辿るのがメインで、かつての線路に合わせて滋賀県の木之本まで付き合うことになる。

 目指すべくは南越前町の今庄であるが、この旅でちっとも海を見ていないので、越前岬に行ってみることにした。
 一旦北上し、臨海工業地帯と自然海岸の境界のような柳原というところで海沿いに出た。右手にどんよりした空と穏やかな日本海を眺めながら走り、柱状節理の発達した鉾島に寄り道。「島」とはついているが、駐車場から延びる散策路を渡って行けた。石段を登るとなかなか眺めが良い。

柱状節理の鉾島
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北側の海岸を望む。波なく穏やかな夏の日本海
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 先ほどから不穏な掲示が出ている。「国道305号 福井市居倉町~赤坂町 土砂崩れ通行止め」。ここも7月の豪雨の影響らしい。地図で確認すると越前岬の少し手前なので、迂回せねばならないようだ。
 越前岬は諦め、内陸を辿って今庄に向かうことにする。大味町で左折。なんの因果か、越前海岸は4年前と同じ区間しか走れなかった。

関連記事 丸岡城と越前海岸 (平成26年10月の旅行記から)

この先に通行止め区間があることを知らせる看板
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 県道6、184、3号と南下して越前町の織田へ。福井県には越前市、越前町、南越前町があり、しかもそれらが隣接しているので紛らわしい。
 小盆地の中心に位置するこの街は府中(武生)や鯖江、越前海岸に通じる街道が交わり、物資の集積地として栄えた。江戸時代は大野藩領の飛び地に属し、織田陣屋が置かれた。
 まずは街の真ん中にある劔神社に参詣。

鳥居前町
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 劒神社は越前国の二宮。この神社の梵鐘には「釼御子寺鍾 神護景雲四年九月十一日」(神護景雲4年は西暦770年)の銘があることから、奈良時代には当地に既に釼御子寺という神宮寺があったことが知られる。信仰の起こりは座ケ岳に対する山岳信仰と考えられている。
 神宮寺の織田寺は境内の南側を占めていたが、廃仏毀釈で廃寺になった。

劔神社
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 拝殿は弘化4年(1847)の建立。
 また、境内には延宝3年(1675)建立の護摩堂もあり、神仏習合の時代を伝えている。本像は移されたが、建物は小学校、社務所、役所などに転用され、現在は神輿殿として利用されている。

拝殿
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神宮寺の名残である旧神前院護摩堂
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 神社の隣りには「織田文化歴史館」がある。ここの目玉は何といっても、前述の劔神社の梵鐘であろう。この梵鐘は国宝指定を受けている。ケースに入れられていたが、なんとか文字を読み取ることができた。残念ながら撮影は禁止。

 ところで、織田庄は劔神社を中心にした宏大な荘園で、平重盛が土地を神社に寄進したことが始まりとされる。織田は「おた」と濁らないのだが、信長の織田家ゆかりの地を謳っている。
 織田氏は越前国の国人で、越前国守護であった斯波氏に被官した。室町時代には斯波氏は尾張国、遠江国の守護も兼ねるようになり、織田常松が尾張国の守護代に任じられ、尾張国に移った。信長は良信に始まる弾正家の血筋である。

 信長は天正元年(1573)に越前国に侵攻し、朝倉氏を滅ぼした。が、翌年に一向一揆衆が蜂起し、越前国を制圧する。再び侵攻した信長は寺社領をすべて没収したが、織田寺だけは「先祖別而子細有之儀候」として免除された。

織田文化歴史館
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 織田からは国道365号を走り、越前市の中心市街地武生を経て今庄に向かう。北陸3県のメインルートたる国道8号は武生から春日野峠を越えて敦賀湾沿いに抜けているが、これは明治期に開削された新道が基になっている。
 江戸時代の北国街道は日野川に沿って今庄宿に到り、栃ノ木峠を越えて近江国木之本に到っていた。また、敦賀へのルートは峠の手前で分岐し、木ノ芽峠を越えていた。それぞれ現在の国道365号、476号にあたる。
 今庄は2つの峠を控えた峠下の宿場町であった訳だ。

 駅前の無料駐車場にクルマを停め、宿場町歩きに出掛ける。

卯建のある黒壁の家並み
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 近世の北国街道は北ノ庄城(福井城)の柴田勝家や初代福井藩主・結城秀康(徳川家康の次男)によって整備された。
 秀康は今庄宿を重視しており、その街割りは現在に継承されている。街の両方の入り口は鈎型に道を折り曲げて防御を固め、24疋の駅馬を常備することが定められた。
 福井から約8里という距離は一日の行程に程よく、峠越えを控えていることもあって、幕末には旅籠屋が55軒も立地したという。
 その一つ、「若狭屋」は天保年間(1830~44)に建てられた建築が現存している。

旅籠を営んでいた「若狭屋」
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財力を窺わせる防火建築の京藤甚五郎家
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御札場跡の古い民家。現在は食事処
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 街道が駅前通りと直交する附近に建つ洋風建築は「昭和会館」だ。この建物は昭和5年(1930)に街の篤志家・田中和吉氏が創設した財団法人啓潤会により、社会教育施設として建てられた。和吉氏はこの年に病で歿するが、啓潤会によって書院や宿泊施設「修省寮」、公園などが整備されていった。
 昭和30年から50年までは今庄町役場、現在は公民館として利用されている。
 なお、この場所は福井藩の脇本陣(金沢藩の本陣)だった北村新兵衛家の跡である。

「昭和会館」 (国登録有形文化財)
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 今庄は水に恵まれ、江戸時代には15軒もの造り酒屋があったという。現在は江戸時代に創業した4軒が醸造を続けている。

元和7年(1618)創業の堀口酒造。酒銘は「鳴り瓢」
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 他の多くの宿場町がそうであったように、今庄は明治以降の交通の近代化によって凋落する。
 明治15年(1882)に長浜から敦賀までの鉄道が開通し、明治18年に春日野隧道が貫通して敦賀と武生が直接結ばれた。前述した現在の国道8号に近いルートである。
 メインルートから外れた今庄は栃ノ木峠、木ノ芽峠とともに廃れたが、明治29年に北陸線が敦賀から福井まで延伸した際に今庄駅が開設された。今庄駅には峠越えを控えた鉄道施設が設けられ、鉄道の町として活況を呈することなる。

次の記事 北陸線旧線をたどる(前) 今庄駅~旧山中信号場
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