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黄土色の土蔵街―須坂 (「週末パス」で初夏の信濃をめぐる旅5)

旅行日:平成30年5月12・13日⑤

最初の記事 「スーパーあずさ」は山々を越えて安曇野へ
前の記事 大町散策のち「リゾートビューふるさと」で善光寺平へ
 信濃をめぐる旅、第二日目。
 この日はバスで戸隠に行き、戸隠神社や鏡池を散策するつもりでいた。午前中は晴れ、午後から雨の予報であった。
 が、ブラインドを開けるとどんよりと曇っている。

 ホテルをチェックアウトして善光寺の参道に出ると、善光寺の鐘が街に響いた。そのまま参道を長野駅へ。途中で戸隠ゆきの始発バスと擦れ違った。
 戸隠をあきらめた私は長野地下駅7:27発、長野電鉄長野線の信州中野ゆきに乗り込んだ。長野電鉄は「週末パス」の利用範囲に含まれる私鉄の一つだ。

長電の電車は東急の中古
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 日曜朝の下りとあって、車内は閑散としていた。
 善光寺下を過ぎて地上に上がり、北陸新幹線の下をくぐりながら北しなの線をオーバークロス。次の朝陽までが複線化されており、住宅地も連坦していた。
 次の柳原の先で千曲川を渡る。この村山橋は国道406号との鉄道道路併用橋になっている。この手の橋は呉越同舟の感もあり、架け替えの際に分離されるのが常だが、この橋は併用橋で架け替えられて平成21年に完成した。気になるので、運転席の後ろに立って眺める。

鉄道道路併用の村山橋を渡る
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 橋の袂の村山では対向列車の待ち合わせ。JRの先代・成田エクスプレスを導入した特急「スノーモンキー」の回送がやって来た。「N'EX」を思わせる「NER」(Nagano Electric Railway?)のロゴが入っているなど、遊び心が感じられる。

村山駅からは黒姫山が見えた
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「スノーモンキー」との交換
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 電車は左に大きくカーブし、須坂7:59着。ここで途中下車する。「すさか」だと思っていたが、「すざか」と読むらしい。

須坂駅
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 駅で散策マップを入手し、緩やかな坂を登る。須坂の街はその全体が扇状地の傾斜地に立地している。
 須坂は明治期に製糸業で繁栄した街で、当時の殷賑を偲ばせる大きな土蔵や土蔵造りの建物が残されている。千曲川右岸地域は善光寺平に山地がせまり、扇状地が発達している。水田耕作に向かないため、周辺地域では江戸時代から養蚕が行われていた。
 明治期にこの街の製糸業が発展したのは、水車を動力とした機械製糸のうごきが高まったことによる。明治8年には富岡製糸場を模範とした共同出資の器械製糸工場が創設され、大きな利益を上げた。明治10年に47工場666釜、同20年には103工場約3,000釜を数えたという。須坂は扇状地の坂の街であったため、水路を築いて水を導けば水車を導入するのに適していた。

百々川の扇状地上に広がる須坂の街
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(地理院地図「自分で作る色別標高図」にて筆者作成。彩色は10メートル間隔)

 国道406号と並行した細い道に折れると、古い街並みが現れた。土蔵造りが多く、白壁を持つものが多いが、黄土色の土蔵も目立つ。
 この地域の高級建築物の特徴として、ぼたもち石積みが挙げられる。丸い自然石をぴったりと合わせるのは石工の高度な技術の賜物であり、工期も長いため、現在では継承されていない技術だという。

旧牧家 江戸時代に須坂藩の御用達であった呉服商で、主屋は明治初期に建てられた。養蚕業を営む越家、酒造業の本藤家を経て、平成7年に須坂クラシック美術館として開館したIMG_2008.jpg

ぼたもち石積みと呼ばれる基礎部分
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三善牧家 牧家の分家で、製糸業を営んでいた。明治期の建築。精緻な瓦やケヤキを用いた門など部材一つ一つが上質。土蔵造りの白壁だが、ぼたもち石積の上の塀は黄土色IMG_2014.jpg

切妻造りで、黄土色の住宅と丸ポスト
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 「須坂」の地名は「墨坂」から来ているという。街のなかに旧い地名をとどめる墨坂神社がある。
 神社の創建時期は不詳だが、大和国宇陀郡榛原(奈良県宇陀市)の墨坂神社を勧請したという。貞観2年(860)に男山八幡宮を勧請し、以降は八幡神社と通称されるようになった。

石灯籠が並ぶ墨坂神社の参道
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墨坂神社の社殿
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 角を折れ、扇状地の等高線と直交するような南北の通りを進む。須坂市中心部の大字はすべて須坂のままで、旧来の字が使用されている。この辺りは中町と呼ばれている。

旧越家(国登録有形) 製糸業を営んでいた山丸組の越寿三郎が購入した邸宅。大壁造りで、明治期の建築。須坂でいち早く電話を開設し、電話番号が1番であったため、「山丸壱番館」と称されたというIMG_2020.jpg

宇治乃園 天保年間に分家し、その2代目で茶の商いを始めた老舗。左右対称の造りで、店舗の中央部に望楼をそなえているのが特徴IMG_2022_20180523192656323.jpg

旧小田切家住宅 小田切家は江戸時代に須坂の町年寄をつとめ、藩の御用達でもあった。麹・油・蚕糸・呉服などを扱い、屋号は「西糀屋」。豪壮な屋敷は明治期に小田切辰之助が建てた。辰之助は日本初の製糸結社「東行社」を創設し、銀行の開設、水道の敷設など街の発展にも貢献したというIMG_2024_201805231926577a0.jpg

旧中野家(国登録有形) 中野家は長野の呉服商であったが、弘化4年(1847)の善光寺地震を機に須坂中町に移ってきた。住宅下店は明治初期の建築で、土蔵造り風の切妻造り。「蔵の美術館」を開館しているIMG_2026.jpg

中町の家並み
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道路拡幅の際にセットバックされ、リノベーションが行われた上原家
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 イートインスペースのあるコンビニがあったので、コーヒーを飲みながら休憩。ふと外を見ると、道ゆく人が傘を差している。予報よりも早く雨になったようだ。本降りになる前に須坂だけでも一回りしておきたいので、腰を上げる。

旧丸田医院(国登録有形) 須坂藩の勘定奉行を務めた浦野家が建てた邸宅で、母屋は明治6年(1875)、洋館は明治42、3年頃の建築。現在は「ふれあい館 しらふじ」として開放されている。「しらふじ」の名は庭のフジに由来するが、すでに花は散ってしまっていた
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遠藤酒造場 創業元治元年(1864)で、須坂陣屋の大手に立地していた。店舗として利用されている長屋門は10代藩主堀直興、12代藩主直武の夫人の居間の奥付門であったと推定されている。主力銘柄は「渓流」IMG_2044_20180528015154f80.jpg

須坂陣屋大手門跡
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 須坂藩は江戸時代初期の成立時から小藩で、幕末まで堀家が世襲した。
 江戸時代初期の当地は海津城(松代城)の領地であったが、慶長15年(1610)に須坂をはじめ高井郡10ケ村6,000石が下総国香取郡矢作(千葉県香取市)の堀直重の知行地となった。直重は越後国三条藩の堀直政の四男で、関ケ原の戦い以前から徳川秀忠に仕えた。
 元和2年(1616)には大坂の陣による恩賞として3ケ村4,000石がが堀直重領に加増された。これにより、1万石を超えたことで旗本から大名に昇進し、須坂藩が成立した。
 小藩であった須坂藩には城はなく、陣屋が支配の拠点となった。規模は100メートルほどの方形であったという。

 陣屋の跡地は奥田神社となり、堀直重と直虎を祀っている。直虎は幕末期の13代目藩主で、藩政改革を行って悪政を行っていた重臣を追放し、洋式軍制を導入した。幕府では若年寄と外国惣奉行の職に就いたが、江戸城中で自害した。徳川慶喜に対する諫死といわれている。

藩祖堀直重と直虎を祀る奥田神社
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天明年間に築かれ、大正時代に移築された鐘楼
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小学校にわずかに残る陣屋の石垣の遺構
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 神社の並びには土蔵とは一線を劃する緑色の洋風建築があった。この建物は旧上高井郡役所。旧高井郡は明治12年に分割され、郡役所は須坂に置かれた。この建物は大正6年(1917)に竣工されたが、わずか4年後に行政区画としての郡は廃止され、建物も県の出張所に変わった。

旧上高井郡役所
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 もう少し歩いて田中本家博物館まで行きたかったが、遠そうなので引き返した。田中家は北信濃随一とされる豪商。
 最奥到達地点は穀町。年貢米が集荷されたのだろうか。須坂の産品は大笹街道で鳥居峠を越えて上野国に到り、利根川を下って江戸に運ばれたそうだ。

路地にて。同じ黄土色でもこちらは粗い感じの土壁
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小ぶりながらも端正な酒屋
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躍動感あるタイの鏝画
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旧信陽銀行 信陽銀行は明治30年の創業で、中信銀行、信濃銀行と変遷したが、昭和初期の蚕糸業の不況によって没落した。建物は明治35年の建築で、現在は一般住居として利用されているようだ。妻面には乳鈎が多く取り付けられている
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 国道406号に出て、扇状地の緩やかな坂を下っていくと、踏切の跡が残っている。平成24年(2012)に廃線になった長野電鉄屋代線の遺構だ。

国道406号と旧屋代線の踏切跡
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 長野電鉄の前身は河東鉄道といい、大正11年(1922)に信越線の屋代を起点に須坂までの区間を開通させ、大正15年には木島(現在は飯山市内)まで通じた。この鉄道により、信越線ルートから外れた千曲川東岸(“河東”)地域の松代、須坂、小布施、中野といった主邑が結ばれた。
 しかし、長野に到る長野線や湯田中に到る山の内線が開通すると、そちらがメインルートになった。河東線のうち、長野線・山の内線の列車が乗り入れる須坂・信州中野間は栄え、末端区間になった信州中野・木島間、須坂・屋代間は衰退し、廃線になった。
 旧河東線が廃止になったことで長野電鉄はいびつな一本路にまとまり、新たに長野線の名称を与えられた。長野から来た電車が大きくカーブして須坂駅に入ってくるのは、こちらが元々支線だった名残なのだ。

公園になった線路跡。右端のダートが屋代に向かっていた線路跡
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切断された線路の向こうに須坂駅の広い構内が見える
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 須坂では大した雨に降られずに済み、10時頃には駅に戻ってきた。

次の記事 湯田中→長野→軽井沢→高崎→横浜
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