旅行日:平成30年3月14日②
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駅構内も広いが、ホームの幅も広く駅舎も大きかった。街歩きに出る前に市街地の散策マップを入手しておく。
那珂湊はその名前の通り、那珂川河口の湊町で、江戸時代にはやや内陸に位置する水戸藩の外港として発展した。
瓦葺きの那珂湊駅駅舎

ホームに掲げられていた古びた「名所案内」

昼食に丁度いい時間帯なので、まずは那珂湊おさかな市場を目指して歩く。駅から左に真っ直ぐ進むだけなので、道順はきわめて分りやすい。
駐車場に入れないクルマが列をなしており、平日のこの時間でも混んでいるのかと驚いた。が、工事で駐車場が半ば閉鎖されているためだった。
漁船が舫われた岸壁。市場の駐車場は半分が工事中

おさかな市場は観光色が強く、ドライブやバスツアーの客でほどほどの混雑。こういうところは混み過ぎているとうんざりするし、逆に閑散としていると寒々しい。売り子の威勢の良い声が響き、賑やかだ。
買う気はないけれど、魚などを見て回るのは楽しい。
海産物が並び、賑やかな市場

昼食は市場内の「那珂湊 海鮮丸」という店で、あぶり丼を賞味。メバルやサヨリ、初ガツオ、タイ、サケなどが炙りで登場する。海鮮丼としても味わえるし、旨味の効いた出汁をかけて食べることもできる。ちょっと高かったが、とても美味しかった。
目当ての海鮮昼食はあぶり丼で

食後は海沿いを進み、那珂川河口に架かる海門橋へ。那珂川は那須岳に発する河川で、茨城県中部を貫流している。水戸城下や涸沼(陸運の区間を挟むが、鹿島灘を避けて江戸へ)にも通じており、江戸時代は水戸藩の最重要河川であった。
対岸は大洗町で、段丘の上にアクアワールドの建物が見えている。橋は船を通すために高々としており、眺めが良さそうだ。わざわざ中央部まで上って写真を撮る。
海門橋は過去に4度架け替えられており、3度も落ちているとはなんとも曰く付きだ。木橋時代はともかくとして、昭和5年に完成したコンクリートアーチ橋さえ完成時には歪んでおり、開通から8年で崩れ落ちたという。
橋の脆さは軟弱地盤に起因しているらしく、戦後約20年ぶりに橋を架けた際には、念入りに基礎工事を施したそうだ。
真っ赤な海門橋

橋の上から那珂川河口を見渡す。漁船が上ってきた

中世の当地は常陸江戸氏が支配していたが、小田原征伐に乗じて佐竹氏に滅ぼされた。関ケ原の戦いの戦後処理で佐竹氏が出羽国に移封されると、徳川家康の11男である頼房が水戸城に入り、当地は水戸徳川家の領地に含まれることになった。
水戸藩では早くから当地を軍事や経済の面から重視した。頼房は砲台を設置し、水戸黄門で知られる2代目の光圀は異国船番所や御船蔵を、9代目の斉昭は反射炉を建設している。
海門橋の北詰には孤立した日向山の高まりがある。地質的には礫岩らしく、砂の中に礫が混じっている。ところどころに穴が掘られているのは、舟でも蔵っていたのだろうか。御船蔵はこの辺りにあったという。
礫岩からなる日向山の麓

江戸時代の那珂湊(湊村)は奥州と江戸を結ぶ海上交通の中継港であり、那珂川河港の河岸としても繁栄した。酒・醤油・味噌などの醸造業が営まれ、豪商が多かった。その経済力は水戸城下を凌ぐほどだという。
風向きが変わってきたのは日本鉄道海岸線(常磐線)が開通した明治30年代で、那珂湊はそのルートから外れた。明治42年に勝田駅が開業(旅客扱いは翌年から)し、大正12年に湊鉄道(湊線)が開通する頃には那珂川の舟運も廃れた。
さらには主要な産業だったタバコの製造が専売となり、漁業が主産業になった。
いくつか古い建物も残る

看板建築の煙草屋

日和山は湊公園として整備されているので登ってみた。山上は平らで、光圀が築いた別荘・夤賓閣(※)があった。夤賓閣はお浜御殿とも呼ばれ、建坪は300坪におよび、酒宴や詩歌の会が開かれた。なるほど那珂川や太平洋を望む眺望絶佳の地だ。
幕末に天狗党の乱で焼失したため、今は大きな石碑と庭園にあったものなのか形の良いマツの樹が残る。
※いひんかく。「い」の字は「夕」の下に「寅」(環境依存文字)
晴れた日には筑波山の向こうに富士山も見えるのだと、犬を連れたおばさんが教えてくれた。きょうは霞んでいて富士山どころか筑波山さえ見ることができない。
ウメが彩る夤賓閣の跡

小山と樹齢350年とされるマツの樹

日向山から望む那珂川・涸沼川の合流点。山は見えず、台地のスカイラインが限界

公園を彩るウメの花

紅梅も咲いていた

往来の少ない切り通しを抜けると、華蔵院という寺があった。応永22年(1415)の開基とされ、大日如来を祀る。近世には末寺5に及んだという。
境内は広く、墓石が並んでいる。
切り通しを抜ける

極彩色の山門

「密厳」の扁額が掲げられた本堂

登りなおすのが面倒になったので、日向山の裾に沿ってぐるりと迂回する。那珂川から涸沼川が岐かれてゆく。数キロ奥にある涸沼は汽水湖なので、陸化が進展するまでは入り江が深く入り込んでいたのだろう。
那珂川に沿って歩く

一軒だけぽつんと開いていた古そうな建物の商店

高台の中腹に位置する那珂湊高校の脇には反射炉が復元されている。この反射炉は大砲の鋳造を企てた9代目藩主徳川斉昭が安政4年(1857)に築いたものだ。
水戸藩前面の海域にはしばしば異国船が出現しており、特に文政7年(1824)に常陸国多賀郡(北茨城市)の海岸に捕鯨船の乗員が上陸する事件が起きた。この大津浜事件は幕府の異国船打払令に繋がり、水戸藩では攘夷の思想が広まることになった。
天狗党は水戸藩の攘夷論者の過激派に浪士や農民を加えて元治元年(1864)に筑波山で蜂起したもので、幕府に横浜港の即時封鎖を訴えた。乱闘は北関東に広がり、その鎮圧のため江戸から藩主慶篤の名代として派遣された支藩・宍戸藩主松平頼徳が水戸に向かった。水戸藩は門閥派が掌握していたが、頼徳の付き人に敵対する攘夷派が多く含まれていることから、水戸城への入城を拒否した。
頼徳一行は那珂湊に向かい、それを待ち構える門閥派と戦闘になった。反射炉は攘夷派の攻撃目標となり、いち早く破壊されたという。
復元された那珂湊反射炉
復元反射炉の近くに保存されている門は、昭和12年に移築された山上門。元は江戸・小石川の水戸藩中屋敷の門であった。その場所は現在の文京区弥生町の東大工学部にあたる。
水戸藩小石川邸から移築された山上門

大正初期の建物が残る明石屋安源商店

街を一回りして那珂湊駅付近に戻ってきたのが16時少し前。列車まで少し時間があるので、駅のあたりも一巡してみる。
駅の裏手は鉄道の車庫だけでなく、バスの車庫もある。湊線が第三セクターのひたちなか海浜鉄道に移管されるまで同じ茨城交通だった名残だ。レンガや石造りの倉庫も建ち並んでおり、その裏手は段丘崖。駅の表裏がずいぶんはっきりしている。
那珂湊駅裏のレンガ造り倉庫

大谷石で作られた倉庫は、コミュニティ施設の「百華蔵」に再利用

夕陽を浴びた三毛猫が見ていた

駅構内には新旧様々な車輛が停めてある。中でも目立つのは銀色に輝く車体だ。このケハ601という車は昭和35年に製造された日本初のステンレス製気動車だったという。貴重だから保存されているのだろうが、車体だけにされてしまうと陸に上がった船のようで、どうにも侘しい感じがする。
車庫脇に保存されているステンレス製気動車

踏切から那珂湊駅構内を望む

駅に戻り、帰宅する高校生たちに交じって16:12発の勝田ゆきに乗る。那珂湊駅には駅猫の「おさむ」がいるが、本日は内勤のようであった。ガラスごしに覗いてみると、こちらを一瞥してすぐに反対を向いてしまった。
黒い身体なので分かりづらいが、駅猫のおさむ

三度目の乗車も同じ車輛だった
夕方で列車本数が増えており、中根駅でも交換があった。この時間帯は3台体制で回しているらしい。16:27に勝田に着き、常磐線で水戸へ。時間が余ったら常陸太田市の方にでも行こうかと考えていたのだが、行くにもそのまま帰るにも中途半端な時間になってしまった。
水戸駅の商業施設で時間を潰し、17:32発の水戸始発上野ゆきで帰途に就く。横浜まで3時間掛かるし、980円出してグリーン車にした。もちろん、旅のシメのビールも忘れずに用意した。
ホームに下りると、線路の向こうに太陽が沈まんとしていた。
出発信号機が進行現示に変わり、夕陽に向かって発車間際
列車は暮れゆく中を進み、土浦に着くころには真っ暗になった。空車を増結するあいだに特急「ときわ84号」に追い越されたが、あちらはかなりの混雑であった。こちらはガラガラ。
19:34に上野に着き、国府津ゆきに乗り換え。順方向なので、グリーン車も乗り継げる。東京からはどっと乗車し、隣りの席も埋まった。この人も横浜で降りたが、こういうグリーン車の使い方は私にはできそうもない。
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