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【積雪深151cm】雪晴れの新庄城下町を歩く (豪雪の東北地方を列車とバスでめぐる旅6・終)

旅行日:平成29年2月(20~)21・22日⑥

最初の記事 【積雪深3㎝】仙台から北上線経由横手へ
前の記事 【積雪深375cm】カルデラの底に湧く肘折温泉へ
 豪雪の東北地方を列車とバスでめぐる旅、第二日目。
 肘折温泉からのバスを新庄市街に近い沖の町で降りた。時刻は15時少し前。肘折を出たときは曇っていたが、新庄は青空が広がっている。それでも雪が舞っており、日差しを受けてキラキラ光る。
 15時の時点で観測点・新庄の気温は0.4度。昨日の朝以来、初めて気温が0度を超えた。積雪深は151センチで、肘折の半分以下だ。
 新庄は城下町なので、まずは城址に行ってみる。

青空の新庄城址
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 中世の最上郡に勢力を張っていた清水氏は慶長19年(1614)に最上氏に滅ぼされ、最上氏の蔵入地に組み込まれた。当時「新城」と記されていた当地には家臣の日野将監が置かれ,城下の開発が進められた。
 元和8年(1622)に最上氏が改易になると、最上郡には常陸国松岡(茨城県高萩市)から戸沢政盛が6.8万石で入封した。当初は鮭延城(真室川町)を本拠としたが、日野氏の城を拡大して寛永2年(1625)に新城に移った。城塞としての造りは簡素なもので、築かれた天守も4年後には焼失して再建されることはなかった。表記が「新庄」に変わるのは、寛文年間(1661~73)頃とされる。
 政盛は城下の整備や鉱山の開発、泉田川扇状地の新田開発を行った。この頃は積極策によって藩政にも勢いがあったが、宝暦、天明、天保と続いた飢饉によって人口が減少し、年貢収入も激減したことによって疲弊した。
 10代藩主の戸沢正令と家老の吉高勘解由の政策によって持ち直す。藩の財政緊縮やウルシ・クワの強制植樹,新田開発や上野国桐生の職人を招いての絹織物の生産が行われた。

雪に覆われた内濠の噴水
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土塁ならぬ雪塁
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樹木が埋まってしまうほどの堆い雪
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 幕末の藩主は戸沢正実で、その父正令は国学を重視し、また母が島津家の出身であった。そのことから戊辰戦争の折には微妙な立場に立たされた。
 戊辰戦争が勃発すると、新政府の奥州鎮撫副総督沢為量は慶長4年4月に新庄に入り、新庄藩兵とともに清川口で庄内藩と交戦した。その後、周辺諸藩の圧力を受けて新庄藩も奥羽州列藩同盟に加盟することになり、新政府軍は久保田藩に逃れた。
 7月には新政府軍が久保田藩領から雄勝峠を越えて新庄藩領に侵攻してきた。主寝坂峠付近で同盟軍との交戦になったが、新庄藩が新政府軍に寝返った。これによって新庄城は新政府軍の拠点となるが、庄内藩の報復攻撃を受けて城下もろとも炎上した。

城址は社地に変わっている
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旧藩主を祀る戸沢神社
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 戦火で焼失した新庄の街は、充分な復興が行われなかったとされる。
 戊辰戦争で新政府軍有利の状況を作ったとして、新庄藩は1.5万石を加増されたが、戦時の曖昧な態度が災いし、新庄藩には岩代国への国替えの噂が立った。そのため、藩主は城下の復興を真剣に考えなかったといわれている。明治11年に当地に立ち寄ったイギリス人女性旅行家のイザベラ・バードは、「新庄はみすぼらしい町である。」と随分辛辣に記している。

 当時の新庄城下の人口は5,000、現在の新庄市の人口も3.6万で、大きな街とはいえない。中心市街地は空洞化が進んでおり、商店街に店は少なく、核となりそうな中・大規模の商業施設も見当たらなかった。

古そうな蔵を見つけた
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雁木が続く中心市街地
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駅の近くではレンガ造りの蔵を発見
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駅の自由通路から杢蔵山を望む
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 歩いて駅に戻る途中、急に足が重くなってきた。重量のあるスノーシューズを履いているので、だいぶ負担が掛かっていたらしい。昼食も早目だったので、車内で間食を挟むことにする。

 新庄駅は3路線が乗り入れるジャンクション駅であるが、なかなか楽しい場面に遭遇した。16:12に陸羽東線鳴子温泉ゆき、16:13に陸羽西線酒田ゆき、16:14に奥羽線上り山形ゆき、さらに16:17には下り真室川ゆきが次々に発車するのだ。
 私の乗る山形ゆきはロングシートの2両連結であった。新庄から福島にかけては山形新幹線が乗り入れてくる関係で、他のJR在来線とは線路の幅が異なっている。そのため、普通列車といえども専用の車輌を必要とする。もっとも、デザインには大差がなく、パッと見では判らない。

雪をびっしりとつけた山形ゆき列車。線路の幅が広い
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 新庄は盆地の南側に位置するため、盆地はすぐに尽きる。猿羽根峠をやや長いトンネルで抜ける。峠といっても大した高さではないが、この区間も複線化されている。蛇行する最上川が近づき、大石田に着く。江戸時代に河港で繁栄した街だ。
 村山盆地が開け、田園地帯が広がる。自由に動けないのが惜しいくらい晴れている。
 
電車は影を長く伸ばして快晴下の雪原をゆく。右手は甑岳?
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 楯岡にある村山では高校生がどっと乗車し、大半の座席が埋まった。彼ら彼女らは少しずつ下車していくが、さくらんぼ東根、天童と主要駅に着く度に乗客は増える一方だった。
 意外なところでは天童南での下車が多かった。巨大なイオンモールの至近に3年前に開設されたばかりの新駅だ。この駅は周辺が住宅地ということもあっての新駅開設となったのだろうが、郊外の大型商業施設前新駅は鉄道利用者減少に歯止めをかける一つの方策だと思う。
 西の山の端に夕陽が近づいた。

 羽前千歳で仙山線と合流。山形が近づいて積雪量が減り、レールとレールの間にバラストが見えた。
 17:23に山形着。12分の接続で米沢ゆきに乗り換え。今度は4両連結だったが、帰宅客で混雑していた。かみのやま温泉でボックス席につけたが、隙間風が冷たい。走るほどに暗くなり、18:25に米沢に着く頃には真っ暗になった。

再び積雪の増した米沢駅
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 米沢からは18:42発の福島ゆき。17分の接続時間中に新幹線「つばさ156号」が到着し、先行。あちらは満席のように見受けられた。
 一方の普通列車は、2両の車内に乗客わずか6人だった。闇の板谷峠を窓明かりがほのかに照らす。峠駅と板谷駅には昨年の夏にクルマで訪れたので、感慨深い。

 福島盆地に下りた庭坂のあたりは雪原だったが、福島市街が近づくと除雪された雪がところどころに残っている程度になった。峠ひとつ越えただけでこれだけ積雪深が異なるとは、奥羽山脈を隔てた気象変化に改めて驚かされる。
 このまま普通列車を乗り継ぐと赤羽までしか帰れないので、福島からは新幹線を利用する。宇都宮まで行かれればことが足りるのだが、那須塩原から小山まで特急料金が2,590円で同額なので、小山まで乗る。乗り換え時間を生かしてビールなどを購入。
 19:51発の各駅停車の「やまびこ220号」は福島出発の時点ではガラガラに空いていた。が、各駅で出張帰りらしいグループが乗り込んできて宴会が始まった。
 福島は晴れていたが、いつしか雪に変わった。那須塩原では横手盆地にいたときよりも強い降り方にも見えたが、雪質が違うんだと思っておくことにする。

新幹線ワープで利用した「やまびこ220号」
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雪の降りしきる那須塩原駅
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 小山20:57着で、連絡通路を急いで21:03発の通勤快速上野ゆきに乗り換え。宇都宮線の通勤快速は大宮までの間に古河と久喜にしか停まらない。速い感じはするが、蓮田にも停車する快速よりも所要時間は長く、その蓮田で普通列車を追い抜くなど、ちょっと意地悪なダイヤだ。
 蓮田で抜いた沼津ゆきに大宮で乗り継ぎ、22:48に横浜に着いた。雪ではなく花粉が舞う地に戻ってきてしまった。
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