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早春群馬県南ドライブ―晴れやか上毛三山&浅間山、小幡城下町

旅行日:平成30年3月6日
 クルマで出掛ける機会がしばらくなかったので、この日は久しぶりにドライブへ。積雪や凍結の心配の少ない群馬県南部に行ってきました。

 5時半出発で、入間ICから圏央道を北上し、関越道花園ICを流出したのが8時頃。通勤ラッシュのピーク時間帯を朝食に充てることでかわし、関東平野の西縁を辿るように国道254号をさらに北へ向かいます。
 埼玉県と群馬県との境界をなす藤武橋からの眺めが良かったので、袂にクルマを止めました。

神流川ごしに赤城山を望む
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雲の上に山頂を見せる浅間山
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子持山と小野子山の間に覗くのは谷川岳?
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 今回最初の目的地は甘楽町の小幡。上州新屋駅の近くで国道を外れ、県道を辿りました。

甘楽町の高台から望む榛名山
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 道の駅甘楽に駐車し、パンフレットなどを入手。この道の駅は幹線交通から外れた立地ですが、産品の販売コーナーも広く、レストランも充実しており、けっこう賑わっていました。

 川沿いの低地にある道の駅からやや急な坂を登ると、段丘上に街が広がります。
 段丘上は水利が悪いのが常ですが、雄川堰という用水路が潤しています。水路に沿ってサクラが植えられ、その両側には道路が通っています。西側の道路が県道になった現在では東西の主従がはっきりしていますが、かつては対称的な配置だったようです。

2つの道の中央を流れる雄川堰と桜並木
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鄙びた東側の道沿いには養蚕農家が残る
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煙出しのある古そうな建物
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明治後期の商家建築を生かしたカフェ
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 交差点名に名残をとどめる大手門跡よりも上流側がかつての武家地のようです。
 雄川堰に沿って歩いていくと、家々の間に畑が点在します。小幡の街は雄川本流よりも約20メートル高い位置にあるため、取水堰は実に2キロ上流に位置するそうです。さすがにそこまで歩くのは大変なので、分流の取水口を眺めるだけにしました。

大手門の礎石が残る交差点
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サクラの代わりにウメの花
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雄川堰から分水を得るところ
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用水が現役であることを伝える「―(告)―」
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 中世の甘楽郡(※)は小幡氏の勢力地で、戦国時代には山城の国嶺城を本拠としていました。小幡氏は上野国守護で関東管領の(山内)上杉氏、長尾氏、さらには甲斐国から侵出してきた武田氏に従属し、武田信玄の上野国侵攻の先鋒となりました。
 武田家滅亡後は北条氏につくも、小田原城落城とともに小幡氏も滅亡しました。甘楽郡には徳川家康の娘婿である奥平信昌が3万石で入部しました。
※現在の甘楽郡は明治時代に分割された南北甘楽郡のうち、旧北甘楽郡のみからなる。よって当時とは範囲が異なる

 かつての武家屋敷街には石垣や生垣が残っていました。大手門から小幡城までジグザグに延びていた中小路は、幅が約14メートルもあり、自動車交通の発達した現代でも持て余し気味です。車道部分を除いては未舗装のまま一段高くしてありますが、かえって往時の雰囲気が伝わりづらくなっているように思えます。

石垣と生垣が続く武家屋敷街
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幅が広かった中小路
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武家屋敷の一軒に残る喰い違い廓
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 中小路の突き当りにあるのが楽山園。江戸時代には陣屋があり、楽山園はその大名庭園でした。
 当時はむろん陣屋が主、庭園が従だったはずですが、今や陣屋の跡地が庭園に併呑されてしまっています。

楽山園
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 甘楽郡の領主は水野氏、永井氏と替わり、元和元年(1615)に織田信雄が上野国甘楽・多胡・碓氷郡のうち2万石を与えられました。信雄は信長の次男で、本能寺の変の後で当主を継ぐ立場にありました(長男信忠は変で死去)が、清洲会議で甥の三法師が擁立されたためにかなわず。それでも信長の遺領のうち100万石を継ぎましたが、改易によって4万石にまで凋落していました。

 信雄は大和国宇陀郡を本領としていたため、分領である上野国の2万石は四男信良に与えられました。
 当初の陣屋は福島でしたが、陣屋や武家地、雄川堰の普請を進め、寛永19年(1642)には小幡の地に移りました。織田家は家格が高く、国持ち・城持ち大名クラスであったため、藩財政はかなり厳しく、それは領民にも重くのしかかりました。

復元された濠と土塁
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遺構に乏しい陣屋の跡
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 楽山園は織田氏が入封した江戸時代初期に造られたもので、宏大な池泉回遊式庭園です。

 織田家はその後、家老が幕府に対する謀反を企てている疑いをかけられ、出羽国高畠に移封されました(明和事件)。代わって、松平(奥平)忠恒が上里見(高崎市、旧榛名町)から入封しました。幕末に松平忠恵が若年寄を務めたことにより、城主格となり、小幡陣屋は小幡城と呼ばれるようになりました。
 廃藩置県後の明治6年(1873)に陣屋の土地、建物、立ち木などは競売にかけられ、敷地は畑地化されます。現在のように復元が進んだのは平成に入ってからのことだそうです。

武家屋敷の拾九間長屋
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大きな池を配した池泉式回遊庭園
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築山の上に東屋が建つ
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花をつけたウメの老木
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 庭園をぐるりと見て回った後は、西側を流れる雄川沿いに道の駅を目指しました。陣屋は雄川の急崖を守りに利用していることがよく判ります。

谷を刻んだ雄川の流れ
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 クルマで小幡八幡宮に移動し、その裏手の八幡山夕陽ケ丘公園に登ります。街との比高は70メートルほどですが、階段の登りは脚にきます。
 山上は平坦で、展望台も整備されており、上州の山々を見渡す眺望はなかなかのものでした。

小幡八幡宮
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展望台から小幡の街を見下ろす
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榛名山と三国山系
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荒船山方面。平坦な稜線は艫(とも)岩
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猛々しい妙義山とたおやかな浅間山の好対照
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 小幡から県道を経由して下仁田へ。国道とは違って交通量が少なく、沿道には養蚕農家を思わせる建物が点在していました。富岡市と下仁田町の境界は、見通しの悪いカーブが連続するちょっとした峠越え。
 国道254号に合流し、鏑川を遡行。支流の上流にある道平川ダムでダムカードを入手し、引き返して妙義山へ。

峩々たる妙義山を見上げる
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金鶏山の岩峰を取り巻くように道が続く
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道中、高台から平野部をみはるかす爽快な眺め
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 松井田に下り、横川を経て霧積ダムでもダムカード。
 国道18号から外れた県道沿いには廃線になった信越線が並行しており、レールはもとより架線柱や架線までが残っていました。

県道沿いに延びる信越線の廃線
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灌木の絡みついた架線柱を、『鉄道廃線跡を歩く』のグラビア風に
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 やや早い時間ですが、国道18号・17号を下って、熊谷市内の温浴施設で入浴。20時半くらいまで長居してしまいました。
 熊谷から東松山市、入間市を経由し、23時過ぎに帰着。走行距離は390.7キロでした。
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