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【積雪深167cm】横手城下町を散策 (豪雪の東北地方を列車とバスでめぐる旅3)

旅行日:平成29年2月(20~)21・22日③

最初の記事 【積雪深3cm】仙台から北上線経由横手へ
前の記事 【積雪深166cm】内蔵のある古い街並み―羽後増田を歩く

 豪雪の東北地方を列車とバスでめぐる旅、第1日目。
 前の記事と相前後するのだが、今回は11:23に北上線列車で横手駅に着いたところから始める。

 横手駅は真新しい橋上駅舎で、市街地側の東口1階には観光案内所などが入っている。広い空間が確保され、窓際にはカウンターがしつらえられ、夕方と朝に通りかかったときには高校生の勉強場所になっていた。こういう場所は荒れがちだが、そんな様子がないので感心する。
 駅前に出るとさすがに積雪がすさまじい。ロータリーの中央には雪山が築かれている。

現代的な造りの横手駅駅舎
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貨物の扱いのある駅だが、オフレールステーション。屋根からの氷柱が長い
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 この後は増田に行く積りだが、2時間ほどあるので城下町だった横手の街を少し散策しておく。昼食も摂りたい。
 車道は除雪されているが、その分のツケが歩道に回ってきている。山のような雪の中に一条の通路がのび、ひどいところは壁に囲まれた迷路のような状態だ。その通路もタイルが見えるほどではなく、氷がデコボコしている。

豪雪地帯の苦労を偲ばせる歩道上
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 逃げ込むようにして一軒の店に入り、焼きそばの昼食。横手の焼きそばは「ご当地グルメ」や「B級グルメ」という言葉が出現する以前から知られているように思う。
 この「食い道楽」という店は食事処と居酒屋兼用の雰囲気で、地元の人と観光客・ビジネス客が相半ば。地酒の取り揃えも充実していたが、さすがにまだ飲まない。

横手の焼きそばを豚バラ添えで
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店舗はこんな感じ。駅前にも支店があった
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 食後は雪を踏んで横手川の辺りまで足を運んだ。
 横手城下町は横手川が右岸の内町(武家屋敷)と左岸の外町(とまち/町人町)を分かつ。河原だったところが市街化したため、江戸時代は大きな水害に見舞われることもあった。それよりもひどかったのは火災で、城下は何度か大火に見舞われている。

河原を雪が覆った横手川
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音楽教室前のかまくら
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 通りがけにたまたま見つけた古い商家は、平成13年まで営業していた佐々木麹店。創業した明治38年(1905)頃の建築が残る。
 麹の他、味噌の醸造や甘酒を製造し、販売していたという。

降りしきる雪の中、旧佐々木麹店
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 このあと列車で十文字に向かい、さらにバスで増田に行ったのは前回記したとおりだ。
 そして、帰りのバスを平和町角停留所で下車したのが16時半頃であった。あと1時間くらいは明るいだろうから、もう少し街を歩き回る。

 羽州街道沿い、横手川近くに建つ斎太薬局本店店舗は明治30年(1897)頃の建築。当初は蔵造りで、明治35、36年の相次ぐ大火を耐え抜いた。洋館風の部分には調剤室が入っており、ここは昭和初期に建て増された。
 壁面には「斎藤薬局」とあるが、隣接する新店舗が「さいた薬局」であることから、「斎太薬局」で間違いないようだ。

 この辺りが横手の外町の中心地だったようだ。町名は四日町なので、三斎市が開かれたのだろう。

斎太薬局
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向かいも洋風建築の伊藤歯科
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 羽州街道の蛇の崎橋の上に立つと、横手川ごしの山の上に横手城の復元天守が見える。

 ――横手を含む平鹿郡の近世の領主は小野寺氏であった。もともと下野国都賀郡を領地としていた小野寺道綱は、奥州藤原氏征伐の恩賞として源頼朝から雄勝郡(現在の湯沢市など)の地頭職を与えられた。6代道有の頃には、雄勝郡から平鹿郡に伸張したと推定される。横手城の築城は天文年間(1532-55)頃と伝わる。
 小野寺氏は文禄4年(1595)から慶長5年(1600)にかけて最上氏と戦うが、これに敗れた。さらに関ケ原の戦いの際に西軍上杉氏に加担したカドで改易され、小野寺義道と弟の大森城主康道とともに石見国津和野藩預かりとなった。これにより横手城と周辺支城は最上氏預かりとされた。
 翌慶長7年に久保田(秋田)の地に常陸国から佐竹氏が入ると、横手城はその支城となった。佐竹氏は領地南部の横手の地を重視し、城主に伊達重盛を配置した。この頃に横手川は付け替えられ、城の外濠の役割を兼ねることになった。

高台に建つ横手城の復元天守
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 佐竹領には多くの支城があり、元和の一国一城令によって大半が廃城になった。が、本城の久保田(秋田)城以外に、横手城と大館城が存続を許された。
 しかしながら、幕府に遠慮したのか「城代」の職は「所預」に名称が変わった。寛永元年(1624)からは須田盛秀、寛文12年(1672)以降は戸村義連が城代となり、以降戸村氏が幕末まで世襲した。

 戊辰戦争の際には佐竹氏が新政府側についたため、庄内藩と仙台藩の攻撃に晒されることになった。奥州鎮撫副総督の沢為量(公卿)は退却令を出したが、所預の戸村義得は籠城し、防戦するも城は焼け落ちた。また、雄勝郡方面から庄内藩、小安方面から仙台藩が侵攻したため、平賀郡内で5、500軒の家屋が焼失・損壊するなどの被害を蒙った。

 川沿いを歩いて復元天守のある横手公園の下まで行ってみたものの、積雪が堆くて入れそうにない。これでも先週はかまくら祭りが開かれた場所だ。かまくら作りはもとより、道の開削は大変だったにちがいない。

横手公園はとても立ち入れそうにない積雪
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 病院が建ち並ぶ一劃から坂を登り、近代建築の旧日新館を見に行く。凍てついた坂道を登るのは結構体力を奪われる。その代わり、覚悟を決めた下りは速い。滑っていると靴底がなくなりそうだが…。

 旧日新館は旧制横手中学校の教師として赴任してきたアメリカ人教師チャールス・C・チャップリンの住居として、明治35年に建てられた。個人所有のため、毎週水曜日だけ公開されるというが、冬季はこの限りではないかも知れない。道路を外れると除雪はされておらず、ずぼずぼと深い雪に足を突っ込んだ。

 なお、この奥には本多正純の墓があるそうだ。徳川家康の重臣本多正信の子で、下野国宇都宮藩主になった正純であったが、いわゆる宇都宮釣り天井事件などで失脚し、久保田藩預かりとなった。その際に幽閉されたのが横手の地であった。

旧日新館
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 17時を過ぎ、夜の気配が色濃くなってきた。交通量が増し、家の前を除雪する人が多くなってきた。その前を通り過ぎるのは申し訳なくもある。
 最後に大町へ。羽州街道沿いに向かい合うように近代建築が建つ。
 平源旅館は大正14年(1926)に建てられた洋風建築で、皇太子時代の昭和天皇や総理大臣を務めた犬養毅、石橋湛山も宿泊したという。
 向かいの菓子屋の木村屋商店本店は明治37(1904)頃に建てられた。大火の教訓から土蔵造りを採用しており、雪で分かりづらいが2階部分には重厚な防火扉が設置されている。

洋風な平源旅館
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軒上の積雪が高々とした木村屋商店
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 18時頃に駅前のプラザホテルにチェックイン。外観は普通のホテルだったが、フロアや室内は真新しくてピカピカだった。やや宿泊費が高いのも納得。
 隣接する温浴施設のゆうゆうプラザの入浴券がついていたので、20時頃に浴びに行った。ホテルとは同系列らしく、施設でタオルセットを貸してくれるのはありがたい。
 風呂上がりの火照った身体には夜気が心地よかったが、21時の時点で気温は氷点下6.4度まで低下していたことを後で知った。

 ビールを1本開け、先ほど増田で購入した日本酒で一献。きょうは移動中ずっと起きていたので、早目の就寝。

次の記事 【積雪深128cm】湯沢の武家屋敷街を歩く
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