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松山近郊伊予鉄乗り歩き(2) 湊町三津 (2018冬の四国瀬戸内・列車の旅8)

旅行日:平成30年1月(15~)16~18日⑧

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 冬の四国旅、第3日目。久米駅から乗った伊予鉄電車は松山市駅から高浜線に入った。次の目的地は三津である。

 松山市・三津間は四国最初の鉄道で、明治21年(1888)に開通した。讃岐鉄道(多度津~丸亀・琴平)よりも1年、徳島鉄道(徳島~鴨島)よりも11年、土佐電気鉄道よりも16年早い。
 水運の利がある他の3県都とは違い、松山城下街はやや内陸の高台に位置する。そのため、その外港三津との輸送は松並木の三津道を利用するしかなかった。船便が利用できないため、鉄道の需要があったのだろう。この路線を足掛かりにして、伊予鉄道は明治時代のうちに現在の郊外線のネットワークをほぼ完成させた。

 西衣山と山西の間でJR予讃線の下をくぐる。予讃線(開通当初は讃予線)の松山延伸は昭和2年(1927)のことであるので、伊予鉄の方がだいぶ先輩にあたる。
 12:43、三津着。広い島式ホームの先端に改札口があるというスタイルの駅であった。

三津駅前には旧駅舎を模した建物が建ち、巡回バスと連絡する
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 三津の街は駅から宮前川を渡った対岸に広がる。駅側はマンションなども建ち並び、松山の郊外住宅地然としていたが、川を隔てて雰囲気が変わる。海側には高い建物が少なく、家々が密集している。
 メインストリートの三津浜商店街はかつてはアーケード街だったというが、撤去され空き地も目立つ。
 「三津」と「三津浜」の地名が出てくるが、「三津」は近世以来の街の名前で、「三津浜」は明治22年の町村制で誕生(三津○○町が合併)した自治体名である。三津浜町は昭和15年に松山市に編入され、消滅した。

潮の入る宮前川
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今は寂しい三津浜商店街
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なまこ壁のある土蔵
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辻に面した旧中村商店。縄や筵を商っていた
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 商店街の一本南は旧医者町通りと呼ばれており、開業医が何軒かあったらしい。擬洋風建築の旧濱田医院が残る。
 
瓦を載せた旧濱田医院
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 三津は古くからの港町で、「御津」とも書き記された。万葉集に収められている額田王が詠んだ歌の「熟田津(にきたつ)」は三津に比定される。往時の三津は現在の古三津にあたり、やや内陸に位置するが、これは土砂の堆積などによって当時よりも陸化が進んだためだろう。
 中世以降は河野氏の湯築城や江戸時代初期に築かれた松山城の外港として機能していた。松山藩の参覲交代の船便もここから出た。上京する正岡子規も、松山に赴任する夏目漱石もこの地に足を印した。

船具屋だった河野家は「つし2階」を持つ江戸期の建築
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土蔵造りの旧商家
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卯建のある旧今治商業銀行
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小舟が舫われた湾奥の漁港
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道は狭い
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 三津の内湾は陸化が進んでだいぶ細くなっており、漁港などとして利用されている。
 対岸の小山には河野氏の港山城が築かれ、伊予水軍の拠点となっていた。ただ、湯築城と港山城の距離は本家と水軍の内紛の元にもなった。
 江戸時代に入ると松山藩主の加藤嘉明は三津に船奉行を置き、後代の松平忠知も町奉行を設置して港町を監督している。

 港山城との間の水路には橋がなく、現在も渡船が就航している。この渡船は城兵が三津の街に食料を調達しに行っていたのが起こりともされる。

三津の渡し
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 渡船場のあたりは須崎と呼ばれていたところで、特に古い建物が多い。地名からして砂洲が延びていたのだろう。宮前川は弁天山と砂洲に阻まれて随分と北上してから海に出ている。

看板建築
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装飾部分を見上げる
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土蔵造りの旧商家
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 旧森家は天保5年創業の萬問屋で、建物は昭和4年築。2階部分に貼られた銅版が緑青になり、古色を増している。
 この建物は現在、料理店の「鯛や」になっている。鯛めしといえば愛媛県の名物であるので、ここで昼食にする。

商家建築を利用した「鯛や」
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タイとネコをあしらった暖簾がかわいらしい
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 靴を脱いで座敷に案内される。机などはなく、座敷に腰掛ける。座布団の傍らには火鉢が置かれていた。エアコンが入っているので煖房としての役割は大きくなさそうだが、雰囲気づくりに一役買っている。

クラシカルな店内
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座敷の火鉢
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 この店の食事のメニューは「鯛メシ膳」のみで、1日30食限定とのこと。もう14時近いが、まだ平気だったようだ。

 落ち着かないまま座っていると、やがて脚付き膳で料理が運ばれてきた。正座して丁寧に説明してくれるので、かえって恐縮してしまう。
 膳の上には鯛めしの他、タイの刺身に解禁直後だという生ヒジキの和え物、柔らかくなるまで煮た甘辛い味付けのトラハゼ、吸い物などが並んだ。
 肝腎の鯛めしはご飯の量が1合あるので、結構なボリュームだった。食べきれなければおにぎりにして持ち帰ることができるというが、完食。2,200円也。

鯛メシ膳
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 食後は街歩きを再開する。街の西側にはフェリーターミナルがあり、山口県柳井港ゆきの船便が出る。三津浜港は松山相手の船の便を一手に引き受けていたはずだが、明治39年に高浜港が開かれると多くの定期船がそちらに移行した。
 三津浜町ではこの動きに反撥し、三津から高浜まで延伸した伊予鉄道に対抗して松山電気軌道を開通させた。限られたパイを奪い合っても上手くいくはずはなく、競合する郊外部は15年で廃止になっている。ただ、松山市街の札ノ辻(本町三丁目)~西堀端~一番町(大街道)~道後(道後温泉)は市内電車のメインルートになった。

 すぐ向かいには細長い形の興居島(ごごしま)が横たわり、波は穏やかだ。

向かいはミカンで知られる興居島
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 バンド(海岸通り)には船会社が並ぶ。
 その中でも目を引くのが、洋風建築の石崎汽船旧本社だ。大正13年の建築で、設計は愛媛県庁舎や萬翠荘を手掛けた木子七郎。石崎汽船は江戸時代の廻船問屋をルーツに、現在は松山観光港から呉・広島、小倉へのフェリー・高速船を就航させている。

石崎汽船本社
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右書きの社名とバルコニー
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向かいには山谷運送(部)
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酒屋と飲食店になっている旧酒造
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 街の南にある厳島神社にも参詣した。筑前国の宗像大社や安芸国の厳島神社を勧請して創建されたとされる古くからの神社である。

 前の社殿は三津浜夜襲の折に焼け落ちたという。この戦いは関ケ原の戦いの折、毛利氏の水軍が加藤嘉明の留守をついて伊予国に侵攻したものであった。伊予国でも河野氏の残党が立ち上がった。が、戦果は挙げられず、加藤氏の留守兵に返り討ちにあった。敵兵の上陸地となった三津浜では大きな被害を蒙った。

厳島神社。石鳥居は元禄8年(1695)の建立
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本殿
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 すっかり晴れて、気温も高くなった。厚着では暑いくらいなので、ポンジュースを飲みながら駅に戻った。
 15:14発の高浜ゆき電車に乗る。今度のは井の頭線の中古電車だった。京王と帝都(井の頭線)では線路幅が異なるので、東京では相まみえることはなかったはずだが、松山の地で同じ線を走っているのは面白い。
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