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伊予灘2つの港町―長浜と郡中 (2018冬の四国瀬戸内・列車の旅6)

旅行日:平成30年1月(15~)16~18日⑥

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 冬の四国旅、第2日目。伊予大洲14:09発の予讃旧線(伊予長浜)経由松山ゆきディーゼルカーに乗る。
 ガラガラだろうという私の予想に反して、乗客は13,4人。空いていることには変わりないが、ロングシートだし車内で昼食という訳にはいかない。
 伊予若宮信号場で新線を分かつと途端に乗り心地が変わった。レールの継ぎ目の間隔が密になり、ごつんごつんと縦に弾むような揺れが伝わってくる。

 肱川に矢落川が合するあたりが大洲盆地の終わりで、そこに五郎駅がある。人の名のような名前の小駅だが、かつての内子線の分岐駅である。
 ここから伊予長浜にかけては肱川の峡谷をゆく。峡谷とはいっても、勾配の緩い河川であるので、岩を噛むような激しさはなく、滔々と流れている。
 伊予長浜(当時の駅名は長浜町)と伊予大洲(同大洲)の間は愛媛鉄道により、大正7年(1918)に開通した。前後の国鉄予讃線の開通は昭和10年以降であるので、それよりも17年ほど早い。舟運に変わる輸送手段として、期待されていたということだろう。

肱川沿いを走る (後方展望)
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 川から離れて短いトンネルをくぐり抜け、14:36に伊予長浜着。私は下車するが、この列車は16分も停車する。まばらな交換可能駅で対向列車と交換できるように、主要駅である伊予長浜で時間調整を行うようだ。乗り通す人たちには退屈な時間だろう。運転士もモップなど持ち出して、窓ガラスの清掃を始めた。それを眺めながらおにぎりを食べる。

なかなか古風な伊予長浜駅ホーム
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駅舎は新し目ながら、無人駅だった
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 駅を離れると、雨が降り出した。初めはぽつぽつ程度だったが、たちまち雨脚が強まり、たまらず廃業した商店の軒下に逃げ込む。
 少し待っても弱まる気配がないので、リュックにカバーを掛け、傘を差して進む。

雨降りしきる長浜の街角
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 長浜が肱川河口の湊として繁栄したのは、大洲藩に加藤氏が入封した江戸時代初期以降される。初代藩主の加藤貞泰は長浜を大洲の外港に位置づけ、この地に御船手奉行などを置いた。これにより、上流の農林産品や特産品に伊予灘の海産物が集積する商港として繁栄した。

一直線の本町通り沿いには古い建物も点在
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 伊予長浜で下車したのは、肱川の河口港として栄えた街を散策したかったということもあるが、その川に架かる長浜大橋を見るという目的も大きい。
 昭和10年に架けられた長浜大橋は、肱川の舟運に対応するため、中央の一径間が開閉する可動橋になっている。川幅が広いため、橋長は当初226メートル、現在は河川改修に併せて232.2メートルに延びている。その塗色から「赤橋」と通称されるそうだ。

 現在はメインルートの地位を河口に架けられた新長浜大橋に譲っているが、地元のクルマを中心に往来は少なくない。重量と幅の制限がかかり、入り口にはブロックを設置して意図的に幅を狭めている。この種の橋には輸送手段の変化によって開閉しなくなったものが多いが、長浜大橋は毎週日曜日に定期点検と観光のために開閉されるという。現役の可動橋なのだ。

真っ赤な長浜大橋
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橋の袂には立派な親柱が建つ
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開閉部分。路面の赤い部分が手前に持ち上がる
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 肱川の水運は明治末期で約200艘の川舟で賄われていたが,県道の整備や愛媛鉄道の開通により昭和初期には衰微した。
 川舟の他に、筏流しによる木材の輸送も行われた。筏流しは木材を6~8尺の舟形に組んで1「棚」とし、それを12~16棚を繋げて下ったという。1.3~1.5万本の木材を二人で運航したというから、効率は良かったのではないだろうか。

 また、長浜では秋から春先にかけて「肱川あらし」が起こることがある。肱川あらしは上流の大洲盆地で発生した朝霧が峡谷を下って伊予灘まで流れ下る現象で、赤橋を冷風が伴った霧が通過する。少し高台に上がれば、峡谷を霧が流れ下る光景が見られるそうだ。

広い川幅いっぱいに流れる肱川
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河口に架かる長大な新長浜大橋
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 橋の袂には豪商だった末永家が残る。
 代々長浜で廻船問屋を営んできたという末永家は塩や肥料などの商いも行っていた。
 通りに面した旧主屋は明治17年の建築で、1階部分に格子窓、2階部分になまこ壁をそなえる。裏手には和風建築の百帖座敷があり、接客や町内の寄り合いの際に用いられたとされる。
 両建築は国登録有形文化財に指定されている。

末永家の主屋
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庭の側から眺める
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 港に近い国道沿いに建つのは大洲市役所長浜支所。市町村合併前の長浜町庁舎である。正面に2本の円柱を配した擬洋風建築で、昭和11年に建てられた。

役場ではなくなれど、現役の庁舎として使用中
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 港に出るころには雨も小康状態になってきた。水たまりを避けながら進む。
 現代の港は肱川と離れた外海側に位置している。地形からすると、肱川が運んできた土砂が伊予灘の沿岸流によって砂洲となり、その砂洲を元に防波堤を築いたのだろう。
 長浜の河口は江戸時代末期になると、肱川の洪水の度に河口の形が変わり、喫水の深い廻船の入港が難しくなってきた。そこで安政6年(1859)、木蝋商の奥野源左衛門が長浜新湊の計画が立てられた。この工事は完成までに5年を要して完成に到るが、結局大正時代には肱川の土砂に埋められて船舶の入港が困難になった。

長浜新港
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古そうな石積みの岸壁
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 今度は列車時刻よりも早めに駅に戻り、伊予長浜16:04発の松山ゆきに乗り込んだ。
 伊予長浜から北の区間は伊予灘を望む眺めの良い区間と聞いているので、期待が高まる。
 地図で見るとやけに海岸線が直線的に延びているが、これは断層崖だからだ。松山平野南部から佐田岬半島にかけて中央構造線が通っている。

 少し走ると高台に上がり、左手に伊予灘を望むようになった。が、カメラのレンズキャップを外すとたちまちレンズが曇ってしまった。たぶん車内の暖気のせいだろう。

串駅附近にて
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 串の次の下灘は伊予灘を望む高台に位置し、海に近い駅として有名だ。この駅に着くと観光客が10人くらいいたので驚いた。
 ただ、「写真映え」はしそうだが、駅と海の間には国道が通っているし、もっと海に近い駅はいくつもあるだろう。

下灘駅を出発
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 きょうの日没は17時半頃。晴れていれば伊予灘に沈む夕陽を見るために伊予上灘で下車しようと思っていたのだが、この天気では難しいだろう。
 伊予灘の向こうに陸地が見えている。国東半島あたりかと思い地図で確認すると、周防大島であった。
 その伊予上灘では交換列車待ち合わせで10分停車。もう菜の花が咲いている。

伊予上灘・高野川間にて
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 伊予灘から離れて山を一つ越えると松山自動車道の高々とした高架橋が現れ、予讃新線(内山線)と合流。岡山以来の乗車券はここで打ち止めとなる。
 再び列車の乗り心地が良くなり、16:51着の伊予市で下車。「向井原→伊予市」の乗車券は伊予大洲で購入しておいたので、2枚のきっぷが手許に残った。伊予市より北は電化もされているので、もう松山の都市圏に入ったという感じだ。

新線との合流点
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伊予市駅
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 旧国名を名乗る“伊予市”とはいかにも安直なネーミングにも思える。が、市制前は伊予郡に属していたので、伊予の地であるといえるだろう。現在の伊予郡は旧下浮穴郡が大半となっているが,旧伊予郡は伊予市や松前町のエリアからなる小さな郡であった。

街角の堅牢そうな商家
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 江戸時代のはじめ、伊予郡は松山藩の領地であったが,寛永12年(1635)の松山藩主交代の際に大洲藩領に取り入れられた。
 当時の大洲藩領は大洲周辺の喜多郡・宇和郡と飛び地の風早郡(旧北条市など)・桑村郡(東予市)からなっていた。大洲藩主加藤泰興は領主不在の松山城番を務めたのを機に飛び地の解消をもくろみ、松山藩との領地の交換を幕府に願い出た。幕府は沿岸部の伊予郡と山間部の下浮穴郡を提示し、泰興は伊予郡を選択した。
 大洲藩の新領地は「御替地」と称された。

 「御替地」の名は藩の布達により「郡中」に変わった。この呼び方は元々の領地の「郡内」と対応する。その中心は灘町・湊町・三島町で,あわせて「郡中三町」と呼ばれた。この地は牛飼原という荒蕪地であったが,寛永13年(1636)に上灘村の宮内九右衛門兄弟が開発を行った。
 郡中三町は寛政8年(1796)には藩によって在町から本町(城下町相当)に格上げされて取扱商品の制限も撤廃され,物資の集散地として栄えた。天保6年(1835)には万安港が完成し,瀬戸内海沿岸との船舶の行き来も盛んになった。

郡中の開発を行った宮内小三郎家 (江戸時代後期の建築)
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 表通りから少し入ったところに「栄養寺」という寺がある。この寺は郡中を開発した宮内家の菩提寺なのだが、「栄養」という言葉とも深い関わりを持っている。
 “栄養学の父”といわれる佐伯矩は郡中の育ちで、松山中学校に進み、東京で世界初の栄養研究所を開いた。当時「営養」の表記が一般的であったが、「栄養」の用字を提唱し、現在のようにこちらが一般的になった。

江戸時代建立の栄養寺山門
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境内に建つ佐伯矩博士の顕彰碑
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夕暮れの港町
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 漁港に出ると、間もなく陽が沈むという気配があった。水平線と雲の隙間から太陽が見えるかもしれないので、見通しの利く場所へ急いだが、再び雲に隠れてしまった。

伊予港
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水たまりに夕陽が映える
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 伊予港(旧万安港)に建つ石造りの常夜灯は明治2年に造られ、大正元年に現在地に移された。燃料も菜種油から石油、電灯へと変遷した。

常夜灯
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 さて、松山に戻るが、乗るのはJRではなく伊予鉄道の方だ。伊予鉄道には松山から3方向に延びる郊外線があり、その一つである郡中線が郡中港に通じている。
 郡中港駅はJR伊予市駅前にあるのだが、頑なに古い駅名を守っている。いち早く「南郡中」から「伊予市」に改称した国鉄の後塵を拝するのを良しとしなかったのかなどと邪推する。

 きっぷは昨日のうちに買い求めておいた「ALL IYOTETU 2Day pass」(2,000円)を利用する。「1Day Pass」との差額が500円なので、夕方からの使用でもモトが取れると判断した。
 郡中港から乗り込んだ電車は京王線の中古で、闇の深くなる中をこまめに設けられた駅に停まりながら進んだ。並行する道路は渋滞しているので、モータリゼーションが進んでも活路を見出すことができたのだろう。伊予鉄の踏切も渋滞の一因のように思えるが…。

 終点の松山市で下車。駅は伊予鉄高島屋の1階に入っており、大都市の大手私鉄のようだ。
 昼食が適当だったので、夕食はそれなりのものが食べたい。以前松山に来た時に昼食を摂った地下街の「黒潮亭」を思い出し、そこに入ることにした。愛媛県最南の愛南町の店であるので、今回の旅との関連はあまりないが、もう歩き回るのは大儀だ。
 夜の限定メニューを註文し、おでんでビールを飲んでから、御荘カキ(御荘は愛南町の中心集落)のカキフライ定食を食した。
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 松山市駅から高浜線電車で大手町駅に行き、ホテルで荷物を回収。そして、松山駅前電停から市内電車に乗り、今夜のホテルに入った。連泊にすれば良かったのだが、2泊目を先に取ってから1泊目は松山駅に近い方がいいことに気づき、別の宿にしたのだった。

次の記事 松山近郊伊予鉄乗り歩き(1) 石手寺と浄土寺
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