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内子―製蝋業の八日市護国・六日市の街並み、内子座 (2018冬の四国瀬戸内・列車の旅4)

旅行日:平成30年1月(15~)16~18日④

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 冬の四国旅第二日目。西国の夜明けは遅く、7時でもまだ薄暗い。小雨が降っているようだ。きょうは松山からスタートして、内子、大洲、長浜を経て松山に戻ってくる。
 大きな荷物をホテルに預かってもらい、身軽な恰好で松山駅へ。ちょうど朝のラッシュ時間帯にあたっており、“列車”を降りて“電車”やバスで街へ向かう人々が押し寄せてくる。駅は間もなく高架化工事が本格化するので、大きく姿を変えそうだ。

朝の松山駅
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古い時代の鉄道駅の面影を残すホーム
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 最初に乗るのは松山8:08発の特急「宇和海5号」宇和島ゆき。内子方面の普通列車は本数が少ないので、この区間だけは特急列車を利用することにした。
 列車は8:00に「宇和海4号」として到着し、5両のうち2両を切り離して慌ただしく折り返す。

「宇和海5号」はアンパンマン列車だった
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 列車が動き出したのを潮に朝食を摂る。自由席は窓側が大体埋まったので、乗車率は50パーセント程度か。
 松山平野を横切って快走し、伊予市を過ぎると山が近づく。伊予市の次の向井原という小駅で予讃線は二手に岐かれる。
 片方は昭和10年に全通した海沿いの旧線で、もう一方は国鉄末期に開通した山越えの新線である。伊予大洲、八幡浜、宇和島へと急ぐ特急列車は新線を辿る。

 内山盆地へと抜ける新線の犬寄トンネルは6,012メートルの長さで、四国最長を誇る。さすがに闇が長く感じる。
 トンネルを抜けたところにある伊予中山を発車すると、風景は一変していた。山々には靄がまとわりつき、谷あいは先週の残雪で白くなっている。
 内子着8:35。普通列車なら1時間以上を要する区間が僅か27分だった。

雪の残る内子駅で下車
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 内子の街は六日市、八日市、廿日市の3つからなる。そのうち、六日町と八日町に古い町並みがよく残っているという。
 時間が読めないので、先に駅から一番遠いところまで一気に進み、のんびり散策しながら戻ってくることにしよう。

 駅があるあたりが廿日市。もとは願成寺の門前町で、市場も立つ繁盛した街であったという。しかし、弘化3年(1846)に水害に遭って衰微し、松山街道も六日市を通るようになって中心から外れてしまった。

内子駅
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 六日市を過ぎて左に折れ、坂にかかると八日市だ。いずれも三斎市にちなんだ地名で、内子が市場町であったことを偲ばせる。
 内山盆地に位置する内子では、盆地に流れ込む小田川に中山川と麓川が合流することから、川沿いに峠に到る交通路が集まっている。交通の要衝であるので、近在の村々の物資が集散する市が立つようになったのだろう。
 なお、「内子(うちこ)」という地名は明治以降のもので、江戸期は「内ノ子(うちのこ)」と呼ばれていた。

軒下に吊るされたトウモロコシと干し柿
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 この地では当初三斎市が7のつく日に開かれ、地名も「七日市(なぬかいち)」であった。が、「なぬかいち」が“菜と糠の市”に通じることを嫌い、7日から8日に変わったという。
 高台に位置する八日市は、昭和57年に「八日市護国」として四国で初めての重要伝統建築物群保存地区に指定された。

八日市の家並み
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 八日市を代表する建築物が、上芳我家だろう。当家では内子の特産品である木蝋の生産が行われていた。

 木蝋資料館を併設した邸宅は修理の上で一般公開されているので、見学させてもらう。
 この邸宅は文久元年(1861)に建てられた出店蔵をはじめ、主屋や離れ座敷、離れ部屋、炊事場、土蔵などからなる。木蝋生産施設も残されていることから、一連の建築物群10棟が重要文化財指定を受けている。
 見学に際しては、ここと六日市の「内子座」、「商いと暮らしの博物館」の3館の共通券を利用した。個別に利用すると1,100円だが、共通券で200円安くなる。

間口の広い上芳我家主屋
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屋根上には巨大な鴟尾を載せている
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 大壁造の主屋の上棟は明治27年(1894)で、木蝋生産最盛期の繁栄を伝えている。

欄間の細工が見事な室内
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 主屋の2階は座敷とする計画で建築が進められたが、完成していない。当時の当主である上芳我家三代目の伝衛が肺結核に侵されたため、工事が中断したと考えられている。
 そのため、間仕切りや天井が作られず、小屋組が露出した状態になっている。

梁から吊るされただけの柱(吊束)や柱の穴が目立つ2階部分
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太い木材が組み合わさった小屋組がよく判る
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屋根裏部屋から2階を見下ろす
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中庭
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約30坪の広い炊事場
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 主屋裏手にある木蝋資料展示棟では、木蝋生産のあらましを知ることができる。
 ―ハゼノキ(櫨の木)の実を原料に作られる木蝋は、和蝋燭はもちろんのこと鬢付け油や口紅、医薬品やクレヨンに利用された。
 中世の蝋燭はウルシの蝋から作られていたが、安土桃山時代に中国からハゼノキが伝わると、西日本を中心にハゼノキの実からの生産が盛んになった。
 内山盆地での生産の始まりは元文3年(1738)のことで、古田村(→五十崎町→内子町)の綿屋長左衛門という人物が安芸国から職人を雇い入れて製蝋を始めた。農村では換金作物としてハゼノキが植えられ、生産は街場で行われた。

製蝋場と蝋を納めていた土蔵、出店蔵
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 内子が木蝋の産地として名を馳せたのは、「伊予式蝋花箱晒法」の発明にあった。この製法は熱した蝋を水に入れると結晶化するという蝋の特性を生かしたもので、簡単に蝋の小片を得られるようになった。それ以前の蝋燭生産は固形の生蝋を鉋で削って干していたため、非常に手間がかかっていた。
 さらに、小片を箱に入れて天日に晒すことで、質の高い蝋が作れるようになったそうだ。

木蝋の原料となるハゼノキの実
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 内子産の木蝋は小田川・肱川を舟で下り、河口の長浜から各地に運ばれた。
 開国後は輸出品としての需要が高まり、製蝋は最盛期を迎える。しかし、石油からパラフィンを取り出す技術が確立されると、パラフィン蝋燭が主流となり、木蝋の生産は急速に下火になっていった。内子の木蝋生産は大正9年(1920)に終焉を迎える。

明治33年のパリ万国博覧会で銅賞を取った際の表彰状
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 高台の道を進む。この道はかつての松山街道で、八日市はその両側に形成された街並みである。
 道すがら水準点を見つけた。水準点は陸地測量部によって全国の水準網が整備された明治期に設置された。見晴らしの良い場所に設置される三角点と異なり、国道などの主要道路筋に設けられたため、往時の主要道路を知る手掛かりになることもある。

旧街道筋であることを伝える水準点
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 上芳我家から数十メートルのところには本家にあたる(本)芳我家が建つ。本芳我家は宝暦7年(1757)に製蝋を始め、内子での木蝋生産の基礎を築いた。先ほどの上芳我家を始め、いくつもの分家があるようだ。
 こちらの邸宅も非常に豪華な造りとなっている。
 邸宅内は非公開であるが、壁や軒に取り付けられた華麗な装飾から往時の繁栄が伝わってくる。建物の壮麗さでは上芳我家を上回るだろう。主屋と土蔵は明治17年(1884)の建築とされる。

非常に豪壮な造りの本芳我家主屋
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豪華な懸魚と鴟尾
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細工が稠密な柵
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亀甲型のなまこ壁
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なまこ壁が印象的な土蔵
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邸内の庭園部分だけは見学することができた
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 蝋は製法上天日に晒すことになるが、高価であるゆえ盗まれるおそれがある。そのため、製蝋場には柵が設けられていた。これらは「蝋垣」と呼ばれ、現在もわずかに見られる。

蝋垣
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 八日市は本芳我家の南で道が鈎型に折れ曲がり、その先は六日市に向かって下り坂になる。

鈎型街路は古い町並みに似合うが、角の家が工事中
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坂道に商家が軒を連ねる
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 通りから少し裏手に入ったところには、大正15年に建てられた活動写真館(映画館)の「旭館」が残る。「電気館」に名を変えて昭和40年代まで営業していたそうだ。チケット売り場の迫り出しや、所狭しと貼り付けられた古い映画のポスターが往時を伝えている。

「旭館」 (登録有形文化財)
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 伊予銀行のある角を折れて、六日市へ。銀行は新しい建物ながら、旧内子銀行の建物を模した造りになっている。
 六日市は天正(1573~93)の頃に市場町として設けられた。小田川に近い立地を生かして、木材・炭・木蝋などの集積地としてもにぎわった。
 内山盆地では半紙漉きが盛んで、大洲藩では宝暦7年(1757)に紙の専売制を敷いていた。六日市に紙役所を置かれたことからも、その拠点性を知ることができる。

 六日市にある「内子町歴史民俗資料館 商いと暮らし博物館」は旧佐野薬局を生かした施設で、先ほどの共通券で入館できる。
 大正10年ころの店の様子が再現され、裏手にある展示場では内子町の歴史に関する展示をしていた。

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大正期の店先を再現
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2階の部屋には薬瓶が納められていた
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中庭
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 六日市の街並みは本町通りに沿って真っすぐ平らに続く。高台の八日市と対照的だ。

 六日市には芳我家の分家の一つである下芳我家の邸宅もある。明治期の建築物で、1階の格子、2階の白漆喰が対照的な色合いを見せる。間口側が切妻になっている入母屋の大きな屋根には、鶴の懸魚がついている。
 現在は旅行代理店が入居している現役の商家だ。

下芳我邸 (登録有形文化財)
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軒下には干し柿が…。うしろの装飾もすごい
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通りに面した八幡神社
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 現在内子町ビジターセンター「A・runze」となっている擬洋風建築は昭和11年に建てられた旧内子警察署。
 六日市は古い建物ばかりという訳ではないが、こういう洋風建築が色を添えているのも良い。

内子町ビジターセンター
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卯建のある古い建物を近代化した商店
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 駅にだいぶ近づいて、本町通りから少し裏に入った木造劇場の内子座を訪れる。
 内子座は大正5年に落成した。今は裏通りといった感じの立地になっているが、大正9年に愛媛鉄道(現在の内子線)が開通したとき、内子座の先に内子駅が設けられた。そのため、立地はかなり良かったと思われる。

内子座
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入母屋屋根の鬼瓦には判りづらいが、「内」の字を象った意匠
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 内子座は商家の旦那など17人が発起人となって創業した。農閑期を中心に歌舞伎や人形芝居、時には活動写真の上映や政治家の講演も行われたという。
 戦後には桝席を撤去して椅子席に改められ、映画館としての面が強くなった。
 会社としての内子座は昭和43年に解散し、内山商工会に引き継がれた。老朽化が著しくなったため解体が検討されたが、保存運動が高まり、昭和57年に商工会から町に譲渡された。そして復元され、劇場としてよみがえった。

 十分な照明設備がない時代の建物であるので、南向きにして採光性を高められている。当時はすっぽん(せり上がり)も効果音も人の手によった。
 1階部分は椅子席が撤去され、桝席が復元されている。もっとも、公演期間には椅子を並べることになっているらしい。閑散期に来て良かった。

桝席と舞台
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舞台上の床の円形は廻り舞台
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 地下に設けられた奈落の見学もできる。創建当時は地下水位の高さもあって完全なものを造ることができなかったが、復元に際して“完成”に到ったという。

石垣の間に通路が設けられた奈落
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車輪のついた廻り舞台の下部
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警察官が検閲を行っていた検察席も復元
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 図書館などの施設になった旧内子駅跡を通り、駅に戻った。
 約2時間半の滞在時間はやや長めに取った(というか、列車の都合でこうなった)積もりだったのだが、案外あっという間に過ぎて、むしろ足りないくらいだった。
 11:12発の伊予大洲ゆきディーゼルカーに乗る。客は4、5人しかおらず、長いロングシートの車内はガラガラだった。

この辺りが旧内子駅跡?
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伊予大洲ゆきディーゼルカーが到着
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 内子から伊予大洲のうち、新谷までは内子線を走る。予讃新線の建設にあたっては、もともとあった内子線が改良の上で流用された。内子線は予讃線(旧線)の五郎が起点だったが、伊予大洲に直進できるように線路を付け替えた。内子駅も先ほど見た旧駅から、松山方面に延伸しやすい現在の高架駅に移設された。
 時刻表の路線図で見ると、内子から新谷までの区間だけが地方交通線を示す青い線で記されていて、内子線が存在を主張している。
 大洲盆地に入ると新旧2つの線が伊予若宮信号場で合わさり、そこから2キロほど走って伊予大洲着。

新旧予讃線が合流する伊予若宮信号所 (後方展望)
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伊予大洲駅に到着
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次の記事 大洲―木造復元大洲城天守と臥龍山荘
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