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今治―海の城と城下町 (2018冬の四国瀬戸内・列車の旅3)

旅行日:平成30年1月(15~)16~18日③

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 冬の四国旅、第一日目。今治には14:37に着いた。愛媛県では数少ない近代的な高架駅だ。
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 今治城を目指して10分ほど歩くと、中心市街地に到る。国道317号とかつての196号が交わるのが、「ドンドビ」交差点。カタカナ書きの珍奇な地名であるが、城下町時代に遡ることのできる由緒あるものだという。
 「ドンドビ」は漢字で書くと「呑吐樋」。瀬戸内海へと繋がる水路の先に水門があり、潮の満ち引きによって水を呑んだり吐いたりするように見える様子からこんな地名がついたそうだ。
ドンドビ交差点
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 ドンドビ交差点から北東へ延びるアーケード街が今治銀座。西条でもそうだったが、この商店街も開いている店が少なくて活気に乏しい。
 今治銀座で遅めの昼食にB級グルメの「今治焼豚玉子飯」を食べる。この時間はやっている店も少なく、選択肢も少なかった。

今治銀座
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今治焼豚玉子飯の昼食
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 今治銀座に並行して東南側を流れるのが金星川。かつては幅30メートルあったという今治城外濠だ。つまり、ここより西の今治銀座などは城外にあたる。
 「呑吐樋」もこの濠の先にあったそうだが、濠自体が埋め立てによって幅を細められたため、面影に乏しい。古びた家々が迫り出すように並んでいる。
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 駅から歩くこと通算15分ほどで今治城址の濠端に辿り着いた。ここでは幅の広い内濠がしっかり残っている。この濠こそ今治城独特のもので、瀬戸内海の海水を引き入れているのだ。
 内濠を越えて今治城の本丸に到るルートは二つあり、駅に近いこちら側の山里口は搦手にあたっていた。

今治城の内濠と櫓、そして天守
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山里門と山里櫓
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山里門から見上げる天守
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 市制前の今治町が属していた越智郡は伊予国の国府が置かれた地で、古代伊予国の政治的な中心地であった。郡内の平野部には広く条里制の遺構が残されているという。

 天正13年(1585)の羽柴秀吉の四国攻めの際、伊予攻めを行った毛利勢の小早川隆景が伊予一国35万石を与えられた。隆景は2年後に筑前国名島に移封となり、東予5郡11.3万石は福島正則に与えられ、府中国分城(今治市東部)に入った。正則は文禄4年(1595)に尾張国清洲に移り、国分城には池田氏、小川氏が城主を務めた。
 関ケ原の戦いのあとには、東軍で武功を挙げた伊予国板島(のちの宇和島)8万石の藤堂高虎は東予地方に12万石を加増された。高虎は国分城を今治平野の中心に移すことを計画し、慶長9年(1604)に今治城を完成させた。

高い石垣が連なる
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 築城以前のこの地は今張の浜などと呼ばれていた砂丘で、人家も少なかった。
 城は川と海をうまく利用したもので、前述のように三重の濠をめぐらせていた。砂地だったにも拘わらず、本丸には高さ8間の石垣を築き、その上に五重の天守をそなえた。築城の名手と謳われた高虎の代表作の一つであろう。

長く連なる高石垣と南東隅の御金櫓
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 濠端をぐるりと迂回して回りこみ、大手の鉄御門から本丸へ進む。鉄御門はその名前の通り鉄を張った門で、枡形の石垣には巨石を多く使用している。
 門に連なる武具櫓などを含めて平成19年(2007)に復元されているが、今はちょうど修復工事中であった。

今治城の大手
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鉄御門
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鉄御門周辺はの石垣には巨石が多い
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城址の案内図は江戸時代の絵図風
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 藤堂高虎は慶長13年に伊勢国津に移封となり、養子の高吉が今治城を預かった。しかし、高吉も寛永12年(1635)に伊賀国名張に転じた。
 同年に松平(久松)定行が松山藩主になると、その弟の定房が3万石を与えられて今治城に入った。領地は多少の変遷があったが、久松松平氏の支配が235年続き、3.5万石で明治維新にいたる。

天守と藤堂高虎の騎馬像
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 今治城天守は昭和55年に今治市市制50周年を記念して復元された。
 復元天守の内部は、他の多くの城と同様に資料館になっており、今治城や今治市についての一通り解説している。
 そして、お待ちかねの最上層からの眺望。きょうは晴れの予報だったが、結局一日中すっきりしない天気だった。

北側は今治港。来島の島影としまなみ海道の来島海峡大橋がかすんで見える
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搦手にあたる山里丸。うしろが市街地
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南側は蒼社川の低地が広がる
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 資料館ではちょっとした知識も得られた。石垣は約90パーセントが花崗岩で、採取地は大三島、小大下島、岡村島など。表面に孔のあるものは海岸から採ってきたものなどと言われると、石垣を見る目にも力が入る。
 また、内濠には蒼社川の伏流水が湧くポイントが3か所あるため、海水だけではなく、汽水域になっているという。

石垣の石材の孔は海岸で採取された証
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 廃藩置県後は今治城の城郭の建造物から樹木に到るまでが入札の対象となり、売り払われた。城門の一部は周辺寺院の門などとして残っているそうだ。明治5年には吹揚神社が創建され、大正4年(1915)以降は内濠を除いた濠も埋め立てられていった。

 吹揚神社は神明社・厳島社・蔵敷八幡宮・美保社を合祀し、のちに藤堂高虎と松平定房を祀った。「吹揚」という名は今治城の別称である「吹揚城」からきているそうだ。

本丸に創建された吹揚神社
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 山里門を出て、再び城下へ。港を経て、北側の寺町の方まで歩いてゆく。

古い邸宅のような文学館
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内濠と海をつなぐ水路
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今治港
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 今治市は太平洋戦争中に3度の空襲に遭い、市街地の8割が罹災した。そのため、文化財クラスの古い建物はあまり残っていない。
 ところで、今治はタオルが有名であるが、その歴史は藩政時代の木綿の地場産業に遡ることができる。
 当地では綿替え木綿の生産が享保年間(1716~36)に始まった。明治10年代には洋紡糸に押されて不振に陥るが、綿ネルやタオルの製造に転換した。タオルの生産は戦前期に全国2位となり、昭和35年に大阪市を抜いて全国1位になった。

この辺りが寺町
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登録有形文化財の今治ラヂウム温泉
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悪そうな顔つきのネコに不法占拠された軽自動車
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 思いの外時間ギリギリになってしまい、最後は走って16:48発の松山ゆき普通列車に間に合った。30分ほど後にも列車はあるのだが、車窓が見える明るいうちに松山に極力近づきたかった。
 列車は高縄半島を横切り、斎灘沿いを進む。瓦の産地として知られる菊間の辺りでは高台に上がり、なかなかの眺めであった。
 きょうは曇りがちということもあり、17:26発の伊予北条であらかた暗くなった。車内の客も松山に近づくにつれて増え、ロングシートで身体をひねって窓の外を眺めるのも難しくなってくる。なにより眠い。

 終点松山着17:52。駅近くのホテルで旅装を解く。

三角屋根の松山駅
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 きょうは昼食が遅かったので、夕食は古町にある大型商業施設でお手軽に。四国に来たからにはと私の好きなスダチ酒も購入する。
 風呂は駅前の温浴施設を利用するという手もあったのだが、もう出歩くのは億劫だ。部屋のシャワーを浴びて早目の就寝。

次の記事 内子―製蝋業の八日市護国・六日市の街並み、内子座
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