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西条―うちぬきと西条陣屋跡、鉄道歴史パークin SAIJO (2018冬の四国瀬戸内・列車の旅2)

旅行日:平成30年1月(15~)16~18日②

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 冬の四国旅、第一日目。伊予西条には11:42に着いた。駅前には鉄道の博物館もあるが、そちらは後回しにして、まずは街に出る。

 西条は「うちぬき」と呼ばれる自噴泉が点在する水の街である。
 西条市の地形として、市街地は西条平野に位置するが、その北側には四国最高峰の石鎚山をはじめとした四国山地の山並みが迫っている。山地と平野を分かつのは、中央構造線と並行する岡村断層である。
 そのため、山間部から平野に出てくる加茂川は扇状地を作って伏流している。また、北側には古い時代の段丘が埋没しており、山地と古段丘に挟まれた深い砂礫層に豊富な地下水が溜まるようになっている。

湧水「観音水」を湛える新町川の池
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 市街の西側をを北流する新町川沿いにはプロムナードが整備されている。澄んだ流れには水草がそよぎ、小魚が群れている。
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 街中に見られる「うちぬき」というのは、その自噴泉の造り方に由来する。江戸時代には鉄棒を地下へと打ち込んでいた。地下帯水層である砂礫層の上部には薄い火山灰の層があり、行き場を失った地下水は圧力が高まっている。
 被圧地下水に鉄棒が達すると、水は噴き出してくる。その孔に竹を刺して泉(井戸)として利用されてきた。

整備されたうちぬきで水を汲む人々
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ところどころに大きな池があり、親水空間を形成している
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 新町川はやがて西条陣屋の西側に流れ込む。
 この地に藩が置かれたのは、江戸時代前期の寛永13年(1636)のことであった。
 西条に入封したのは一柳直盛で、旧領は伊勢国神戸(鈴鹿市)であった。直盛は伊予国守護であった河野氏の末裔とされるが、転封の途上で客死してしまった。そのため、領地を6.8万石から4万石に削減され、長男直重が西条3万石、三男直頼が小松1万石を継承した。

 話は遡るが、豊臣秀吉のもとで小早川隆景が伊予攻めを行ったあと、現在の西条市を含む新居郡の城はことごとく廃城とされていた。そのため、西条では藩庁に相応しい施設が必要になった。
 一柳直重は濠で囲まれた陣屋を築き、湧水を集める喜多川や新町川の水路を付け替えてその水を濠に導いた。濠の水は御本陣川によって瀬戸内海に排出される。陣屋の東側には陣屋町7町を造り、有力商人を招致して城下町の繁栄を図った。

豊かな湧水を湛える西条陣屋の濠
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濠の水はいたって清らか
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濠端にはユリカモメとハトが群がっていた
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 せっかく河野氏以来の故地に入封できた一柳氏であるが、直重の子直興のときに参覲遅参などの理由で改易されてしまう。西条は一旦幕府領となり、寛文10年(1670)に松平頼純が入った。
 頼純は和歌山藩主徳川頼宣の次男であったが、5万石から3万石に減封されており、2万石は宗家から合力米として受け取っていた。西条藩では自力で財政安定を図るため、前面の燧灘を埋め立てて新田開発を進めた。その干拓地は現在では発電所や化学繊維の工場に変わっている。

 廃藩置県後は西条陣屋の敷地には愛媛県尋常中学校東予分校ができ、現在は後身の西条高校となっている。
 その校門には陣屋時代の大手門がそのまま使われている。

濠を渡った先に“校門”が立つ
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大手門脇には低いながらも土塁も残る
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近年復元された北御門
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 うちぬきを見ながら市街をぶらぶら。
 西条周辺はこの豊富な湧水を生かした紙漉きが盛んであった。特に隣町であった神拝村には観音泉・喜多川泉・梛の木泉・新町泉といった湧水があり、山間部で栽培されるコウゾを原料に製紙業が営まれ、西条藩の特産品となっていた。

 できれば生活に密着した素朴なうちぬきが見たかったが、見つけることはできなかった。もはや水道に変わってしまったのだろうか。

市街地のうちぬき。飲み口はまろやかだった
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西条郵便局前の水舟のモニュメント
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 アーケードになっている商店街を抜けて駅に戻った。駅と市街地とを結ぶ通りなので、かつては賑わったのかも知れないが、今や営業している店がほとんどない寥々たる状態であった。
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 1時間ほどで駅前に戻り、次は「鉄道歴史パークin SAIJO」へ。名称のとおり鉄道関連の博物館である。線路を挟んで北側の「四国鉄道文化館 北館」と「十河信二記念館」、南側の「四国鉄道文化館 南館」の3つの施設からなるが、まずは「北館」へ。
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 木組みの屋根が高々とした館内には、0系新幹線の先頭部とDF50形ディーゼル機関車が展示されている。機関車は昭和32年に製造された第1号機で、高松機関区に新製配置された。その後敦賀第一、長野、米子各機関区を経て高松機関区に戻り、昭和58年に廃車されたという四国に関わりの深いナンバーだという。黎明期のディーゼル機関車ということで準鉄道記念物の指定を受けている。
 一方、四国に通っていない新幹線は、建設当時の国鉄の十河信二総裁が当地出身であることにちなんで展示されている。
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 北館に隣接した小さな建物が「十河信二記念館」だ。
 十河信二は出身こそ新居郡中村(現新居浜市)であるが、旧制愛媛県尋常中学校東予分校(西条高校)を出ている。その後、上京して東京大学へと進み、鉄道院や南満州鉄道を経て、戦時中には西条市長も務めた。
 昭和30年に国鉄の第4代総裁に就任すると、鉄道の近代化を進め、新幹線建設のために政治力を発揮した。
 特に功績が大きかったとされるのが、建設費の圧縮のパフォーマンスと世界銀行からの借款である。前者は3,000億円の建設費を2,000億円に減らして予算請求することで、国会を通した。後者は世界という後ろ盾を得ることで、政府を後に引けなくするという面で大きな効果があったという。当時は鉄道の将来に懐疑的な見方も多かった。
 しかし、建設費は到底3分2では収まらず、その責任を取って昭和38年に総裁を辞任した。
 館内には新幹線建設に関する資料なども展示されていて興味深かった。

十河総裁の胸像
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昭和36年1月の時点では工事どころか用地買収の途中だったことが判る
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 次は伊予西条駅に架かる跨線橋を渡って「南館」へ。
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駅構内のレンガ造り危険物庫も間近で見られる
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 「南館」のシンボルは、何といっても屋外に展示されている「フリーゲージトレイン」の第二次試験車であろう。
 「フリーゲージトレイン」とは車輪の幅が変えられる車輛で、これが実現すればレール幅の異なる新幹線と在来線の直通運転が可能になる。岡山で新幹線と連絡し、瀬戸大橋を渡って3方向に路線が分岐する四国としては、是非とも実現してほしい技術であろう。
 現在は第三次試験車が走行試験を行っているが、新幹線区間での高速走行や騒音などにまだ課題があり、実現への道のりは険しそうだ。
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 館内の展示は少な目だが、四国の鉄道をモチーフにした鉄道模型のジオラマが目を引いた。
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 半屋外の車輛展示場には蒸気機関車、ディーゼル機関車、ディーゼルカーの各1輌が展示されていた。展示場は駅をイメージした造りとなっており、昭和34年の伊予西条駅の時刻表などは見入ってしまった。
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C57-44は北海道で最後まで稼働した蒸気機関車のうちの1輌
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キハ65はエンジンの出力アップにより、冷房化を実現した急行用のディーゼルカー
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 伊予西条13:57発の松山ゆきに乗車。今度は正真正銘の1両だ。ホームを高校生が埋めていたが、意外にも全員座れたようだ。列車の収容力は侮れない。
 次に降りる今治までは40分なので、私は後部の運転台のところに立っていた。車掌側は眺めも良いし、台の上に荷物を置けるのも楽だ。
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 伊予小松を出ると北へ針路を変え、伏流によりほぼ断流している中山川を渡る。松山に向かうには中山川を遡って峠を越えたほうが圧倒的に近く、国道11号も松山道もこのルートを採っている。が、予讃線は山越えを避けて高縄半島の海沿いを丹念に辿る。
 そのお陰で今治に寄ることができるが、迂回の分距離が増し、所要時間も運賃も嵩んでいる。

 高架に上がって蒼社川を渡り、14:37に今治着。列車は松山ゆきだが、ここで車内のすべての客が下車した。

次の記事 今治―海の城と城下町
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