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網走監獄の博物館 (2017夏の北海道旅行8)

旅行日:平成29年7月3~6日⑧

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 夏の北海道旅行第三日目。
 釧路からの釧網線列車で網走駅に着いたのが12時少し前。これから24時間はレンタカーを借り,網走周辺を周遊する。
 網走のタイムズレンタカーはやけに安く,免責込みで24時間4,000円ほどであった。どんなボロ車が割り当てられるのかドキドキしていたが,三菱の2代目デリカD:2が来た。しかも走行距離がまだ2,000キロに満たない真新しいハイブリッド車であった。

 まずは大空町の女満別の方まで行き,石北線の特急「大雪」を撮影。この先はテツ的な要素が少なくなりそうなので,やつるぎ君が鉄分欠乏に陥る恐れがあると判断したためだ(結局杞憂だったようだが…)。私の方は成果が上がらず,女満別市街のセイコーマートで昼食を摂る。

ジャガイモが花をつけた女満別メルヘンの丘
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 網走は曇っているので,風景的な面はあまり期待ができない。晴れていたら外そうと思っていたが,博物館網走監獄を訪れることにした。網走刑務所の旧い建築物群を天都山の中腹に移築したものだ。
 駐車場には多くのクルマが停まっていた。なお,「バニラエアひがし北海道フリーパス」についたクーポンで入場料が割引になる。

高々とした入り口の門
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 この街は刑務所のイメージが強い。明治中期に100戸に満たない漁村であった網走は,刑務所の存在によって道東の主要都市にまで発展した。

 当時集治監と称されていた大規模な刑務所を北海道に設置することは明治11年(1878)に決められ,いくつかの候補地の中から石狩国樺戸郡の須倍都太(現在の月形町)が選ばれた。
 維新から約10年間,明治新政府が行ってきた急激な変革は国民に多くの負担を強い,反撥する者も多かった。士族の不満が噴出した佐賀の乱,神風連の乱,秋月の乱に続いて西南戦争が起こり,多くの国事犯が捕えられ,獄舎は囚人で溢れた。一方,政策の一つとして推し進められた北海道の開拓は,多額の予算をつぎ込みながらも入植者の定着率は悪かった。
 これらの問題を一挙に解決する方策が,北海道への集治監設置であった。すなわち,北海道に安価な労働力である囚人を送り込んで労役に従事させることで,内地の獄舎の定員問題の解決も図るという,一挙両得を狙ったものであった。

 明治14年に樺戸集治監が開設され,次いで空知郡市来知(三笠市)に空知集治監,さらに明治18年には釧路国川上郡熊牛(標茶町)に釧路集治監が設置された。これらの集治監はそれぞれ,石狩平野における農地の開拓,空知炭田での採炭,アトサヌプリの硫黄採掘を目的としていた。
 明治19年に北海道庁が発足(それまでは函館・札幌・根室の3県)すると,道内を結ぶ道路建設の機運が高まった。当時の道内の交通事情は悪く,内陸部に分け入るには大河川の舟運がメインであった。道路は樺戸監獄署(明治20~23年の間は集治監から監獄署に改称)から当別,増毛,空知監獄署へ,小樽・札幌から鉄道の通じた空知監獄署からは忠別太(旭川)へと開削されていった。明治23年になると,さらなる道路建設を目論み,網走に釧路監獄署の外役所が設置された。これが網走刑務所の始まりである。

いかめしいレンガ造りの堅牢そうな正門 (復元)
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 釧路集治監網走外役所は,明治24年に北海道集治監網走分監として独立した。分立の目的は忠別太と網走を結ぶ北海道東西横断道路(中央道路)の建設にあった。
 建設工事は空知集治監の囚人によって,この前年に忠別太改め旭川から北見峠に向けて開始された。北見峠から網走までは約200キロあるが,道庁はこの間を8月から年末までの4ケ月間で開通せよという厳しい条件を突きつけた。
 工事は全区間を13工区に区切り,グループに分けた囚人がそれぞれを両側から中心点に向かって進めていった。先に中心点に達したグループは食事が増やされ,敗れた方は減食されるという仕組みであった。この方法は囚人たちの競争心を煽り,作業の進度を著しく上げたという。事業は12月27日に完成したが,150人以上の囚人が死亡した。囚人が労役に耐え切れずに死ねばそれだけ監獄費が減り,工事自体も一般の工夫を高い賃金で雇うよりも遥かに安く済むというのが当時の考え方であった。

 見学は擬洋風建築の旧庁舎から始まる。明治42年の火災による焼失後,明治45年に建てられたもので,内部は展示室になっている。

半円形のドーマー窓の意匠が特徴的な旧庁舎 (明治45年築/重文)
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 中央道路の建設工事は網走から離れた地で行われたため,獄舎の代わりに木造の小屋を築いて拠点とした。再現したものがあったが,いかにも居心地が悪そうであった。木を半分に割って作られていた枕は,終いにはただの丸太に簡略化され,看守がその端を叩いて囚人を起こしたという。
 工事は通行すら困難な山間部で行われ,樹を引き倒し,巨石をどかしながら進められた。ヒグマのような野生動物も恐ろしいが,マムシ,アブ,蚊などに襲われて昏倒するケースも多かったという。

外役時の仮小屋
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小屋内の様子を再現
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 明治30年に英照皇太后(孝明天皇の御女)が崩御し,大赦が発せられた。これにより網走分監の囚人は激減し,一旦閉鎖された。その後,廃止された釧路分監の囚人を移管して復活し,明治36年には網走監獄となった。刑務所という名称に変わったのは大正11年のことである。
 網走刑務所の特異は農場を持つことにあった。外役所設置当時に所管していた道庁は,囚人の農耕によって自給自足可能な刑務所を構想し,既に周辺の沃野を官有地として確保していた。
 網走に限ったことではないが,道内の獄舎の多くは囚人の手で建てられた。自らを閉じ込めるための建物を造るのだから,妙な話ではある。
 開設当初期の建築物は明治42年の火災でほとんど焼失し,同45年にかけて再建された。この時に造られた施設はどれも最新鋭のものであり,網走で初めに電灯が点ったのも監獄であった。

 その中で特に際立った存在だったのが舎房(獄舎)である。中央に看守の見張所が置かれ,そこから放射状に広がる5棟の舎房に廊下が続く。ベルギーのルーヴェン監獄を範にしたという。
 連なる舎房棟は長さ58メートルのものが3棟,72メートルのものが2棟で,独居房と雑居房が配置されている。壁の一部は板を斜めに連続させており,房同士が見通せないようにしつつも換気に配慮している。
 この舎房は長らく破獄者を出さないことを誇りとしていたが,昭和19年に白鳥由栄が破獄し,逃走した。白鳥は昭和11年に青森刑務所,同17年に秋田刑務所を破獄しており,これが3度目であった。彼はナットを用いた特製手錠を味噌汁で腐蝕させて破壊し,天窓を割って舎房の外に出て,煙突を支えていた丸太を引き抜いて壁に立てかけて所外に脱出していた。のちに空知郡砂川町(砂川市)で事件を起こして逮捕されるが,進駐軍占領下の札幌刑務所を破り,都合4度の破獄を行った。

舎房の中央に位置する中央見張所 (重文)
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見張所から5棟の舎房が放射状に延びる
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高い天井と天窓が特徴の舎房の一列
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 中央道路の開通後は,もっぱら刑務所周辺の官有地の開墾が進められた。
 明治29年に開設された屈斜路外役所は,のちに二見ケ岡刑務支所と改称され,現在に至るまで刑務所の食糧自給と収容者の処遇施設の役割を担っている。「二見ケ岡」という名は網走湖と能取湖の二つの湖を望むことに由来するという。
 網走刑務所といえば,北の涯ての過酷な環境の刑務所のイメージを持ちがちだが,戦時下においては非常に恵まれていたという。宏大な農場を有し,野菜や穀物を産する網走刑務所は食糧不足とは無縁で,内地の刑務所のように副食物の粗悪化によって多数の栄養失調者を出すようなことはなかった。
 移築された庁舎や舎房は明治29年築のもので,本所のものよりもさらに古い。

二見ケ岡刑務支所の庁舎 (重文)
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刑務支所の舎房 (重文)
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整然と扉が並ぶ舎房内部のようす
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農具などを納めていた耕耘庫 (復元)
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 酷寒の北の地に収容された囚人も大変だったろうが,それを監視する看守の方も大変だっただろう。囚人が寝ているときも不寝番をする者はいるし,戦時中から戦後の混乱期にかけては看守不足で,休暇も月に二度ほどであったという。重労働に従事する囚人と違って,看守は屋外でじっとしていることが多く,凍傷に罹る者が多かった。薄給である上に北海道は物価が高く,気を抜いて不祥事を起こせば減給や最悪の場合は免職が待っていた。囚人に逆襲されて殺害された者もいたという。
 看守長屋と呼ばれる官舎が復元されている。1軒は9坪に過ぎず,間取りは1LDK相当。1棟は3軒続きで,昭和50年代まで網走川沿いに176戸も建っていたそうだ。

看守官舎 (復元)
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  施設内には建築物の他にも,展示施設として「監獄歴史館」というのがあった。こういうプログラムは最初に製作したのを長年使い続けたりするものだが,ここのは新鋭の機器を使っている印象を受けた。内容は若干感傷的だなと感じたが…。
 この他にも,囚人の足につけられた鉄丸の重さを体験するコーナーがあったり,現在の刑務所内のようすを再現したコーナーもあって見学者の関心を惹いていた。

連鎖にされ引き立てられる囚人
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 この他にも,囚人にとって僅かな慰めの場であった浴場や教誨堂も移築されている。
 入浴は明治期は月に1回(夏季は5回)と少なく,脱衣から着衣まで15分で済ませばならなかったという。現在の刑務所では1日おきに入浴できるそうだ。

煙出しが特徴的な浴場 (復元)
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整然とした浴場内の様子も再現
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 教誨堂は囚人の教化を行う施設であった。明治45年に建てられたものが移築されている。
 明治期の囚人教化は僧侶や神職の者が務め,特に明治14年以降は本願寺の僧侶が教誨を行うのが全国的な傾向であった。ところが,アメリカ留学経験のある大井上輝前が北海道集治監本監(樺戸)の典獄に就任すると,本監をはじめ空知・釧路・網走の各分監の教誨師をキリスト教教誨師に交代させた。しかし,これを不敬がされて問題化したので,大井上は典獄を辞し,各監にも大谷派の僧侶教誨師が採用された。

 外観は入母屋で瓦葺の寺院風であるが,内部は洋装が施されている。天井にトラス構造を組み込むことで,柱のない広々とした空間を実現している。

教誨堂 (重文)
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教誨堂の広々とした洋風な内装
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 最後に,囚人に恐れられていたという懲罰房。
 レンガ造りのこの房は建物自体が独立した独居房である。レンガ壁の厚さは40センチあり,窓も設けられていないため,「闇室」とも呼ばれていた。懲罰でここに閉じ込められる際には減食を伴ったため,囚人に大変な苦痛を与えたという。

煉瓦造り独居房 (国有形)
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 博物館の敷地は広く,いくらか端折って見学しても1時間半を要した。

 刑務所の設置により,100戸の漁村網走は活況を呈した。刑務所や勤務者が多額の金銭を落とすため,人口は大幅に増加した。明治35年に町制を敷いた時には人口4,000を超え,戦時中に3万を数えた。昭和22年に網走町から東藻琴村を分割し,市制を施行。道内で11番目の市であった。
 戦前には重罪な受刑者を収容する刑務所のイメージが好ましくないとして,網走刑務所から大曲ないし三眺刑務所への変更を司法省に願い出たこともあったが,却下された。なお,現在は比較的刑期の短い受刑者が収容されているそうだ。

※今回は文章に即して写真を配置しています。そのため見学(撮影)の順番と掲載順が異なります。

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