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弘前城は天守移動中

旅行日:平成29年5月(30~)31日~6月2日②

前の記事 旅立ち津軽へ
 青森県弘前市まで来た。私の采配ミスなどがあったのでもう11時近い。
 土手町のホテルに大荷物を預かってもらい,まずは街のシンボルである弘前城址のある弘前公園に向かって歩く。雲の多い天気ながら,薄日が射していて暑い。

 7,800メートルで外濠に辿り着く。
 4週間前のゴールデンウィークは花見客で賑わったのだろうが,今はすっかり緑色だ。

弘前城外濠の桜並木
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 弘前城には,内濠―中濠―外濠という三重の濠があり,しかもそれらは埋め立てられずに残っている。

 外濠を渡ったところが東門。築城された江戸時代初期のものである。あまり飾り気のない造りであるが,この門の鯱だけは鋳鉄製であるそうだ。他の門の鯱は木製で,銅板覆っているとのこと。

三ノ丸の東門(重文)
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 東門をくぐると三ノ丸で,現在は植物園や博物館などになっている。
 三ノ丸の先は,中濠を挟んで二ノ丸である。中濠に架かる橋は元々土橋であったが,弘化5年(1848)に石橋に架け替えられ,それが現存している。
 橋を渡ると東内門が待ち構える。これも築城された江戸時代初期のものが現存する。

幅の広い中濠
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中濠に架かる石橋
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二ノ丸の東内門(重文)
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 弘前は江戸時代に津軽地方を領有した弘前藩の城下町であった。弘前城の築城は江戸時代に入ってからなので,城としての歴史はやや新しい。

 津軽地方の支配は,戦国時代初期の文明年間(1469~87)に,糠部郡三戸(現在の青森県三戸町)を拠点とする南部氏によって一応完成した。津軽郡代として派遣された南部高信は石川城(弘前市南部)を拠点とした。当時の津軽地方は3つの郡に分かれており,鼻和郡に大浦盛信,平賀郡に南部政行,田舎郡に北畠具永が配置された。

 大浦氏の信為は元亀2年(1571),南部氏の内紛に乗じてに石川城を攻め,各地の城も攻略して天正16年(1588)には津軽統一を成し遂げた。翌年には豊臣秀吉の元に使者を派遣し,津軽支配を認められている。天正18年には前田利家らが検地に訪れ,本領3万石と太閤の蔵入地1.5万石が確定した。さらに天正19年に津軽氏を名乗り,文禄3年(1594)に居城を大浦(旧岩木町,現弘前市内)から堀越に移した。
 関ケ原の戦いでは信為が2,000の兵を率いて東軍につき,美濃国大垣城攻略に参戦した。が,その留守をついて3家臣が叛旗を翻し,堀越城を占拠する事件が起こっている。論功行賞で本領と蔵入地だった4.5万石の他に上野国勢多郡(群馬県太田市)に2,000石を与えられ,合計4.7万石となった。

二ノ丸の鮮やかなツツジ
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石垣解体修理中の本丸天守台
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 このまま下乗橋を渡れば本丸に攻め進めるけれど,一旦追手門を出る。
 追手門は城郭の南側に位置する。「追手」という語は「大手」に通じ,四代目藩主津軽政信の時に弘前城の正門となった。
 この門も築城期のものだが,他の門とは違って門の左右の土塁の上に塀が連なっている。正門ということで,格式が高いのだろう。
 それにしても,この城は土塁がよく残っている。近世の城は土塁を石垣で覆っていることが多いが,弘前城は本丸を除いてほとんどそのままだ。無骨な感じがして新鮮だ。

三ノ丸の追手門(重文)
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 追手門から二ノ丸へは,三ノ丸を経て中濠を杉の大橋で渡ることになる。これは平成になって架けられた新しい橋だった。そして,杉の大橋の左手には未申櫓,右手には辰巳櫓が残る。

二ノ丸の未申櫓(重文)
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桜木に隠れて見えづらい二ノ丸の辰巳櫓(重文)
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南内門(重文)
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 江戸時代の初め,津軽信為は高岡の地に新城を計画した。これが後の弘前城であるが,信為はその計画があまり進まぬ間に歿し,三男の2代目藩主信枚に引き継がれた。
 高岡新城は慶長15年(1610)に築城を開始し,翌年に完成した。城は西に岩木川,東に土淵川が流れる高台の上にあって,三重の濠を廻らせ,天守と3櫓5城門が配置された。基本的な配置は後世まであまり変わっていない。
 高岡から弘前への改称は寛文5年(1628)のこととされる。

城の西側は岩木川の平野のため,眺望が開ける
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 弘前城の天守は5層のものであったが,寛永4年(1628)に落雷で焼失した。その後再建されることはなく,本丸の辰巳櫓が代用された。その後,蝦夷地警備の功によって10万石に加増されたのを機に,文化7年(1808)に辰巳櫓を改築して3層の天守とした。これが現在の天守であり,国内の現存12天守の一つに数えられる。

 現在,天守台の石垣の積み直し工事が行われている。石垣の積み直しは大正時代にも行われたが,それから100年を経過し,地震などによって石垣の孕みが大きくなってきていたという。
 工事にあたっては天守を曳家で移動させ,内濠を一旦埋め立てて作業を行っている。それにしても,石垣のない天守というのはどうも間が抜けて見える。岩木山が背後に来る位置に移したのは心憎い。
 この日の夜のニュースでは,天守台から大正修理時の地鎮祭の祭器が見つかったことを報じていた。

解体を前に,石の一つ一つに番号を振られた天守台
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曳家により移動した天守と岩木山
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 天守内部は修理期間中も入場できる。一層目は曳家移設に関する展示が特集されており,各種搬器も並べられていた。
 三層目からは岩木山の眺望が佳い。どっしりとしたその山容は凡百の山とは比べ物にならないくらい重々しいが,かなり霞んでいる。カメラの露出をだいぶ落として,ようやく写った。

天守の正面側
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大正修理時の曳家の道具も展示されていた
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天守から望むぼんやりした岩木山
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 江戸時代初期に4.7万石で立藩した弘前藩であったが,実質的な石高はその倍くらいあり,未開発地も多く抱えていた。
 16~17世紀にかけては新田開発が推し進められ,17世紀後半になると本高4.7万石に対して新田高19.7万石に達した。その後,支藩の黒石藩に多少分知したが,蝦夷地警備の功によって本領は文化2年(1803)に7万石,同5年には10万石まで高直しされた。新田開発が進んだとはいえ,領地自体が広がったわけではなかったので,家格ばかり上がることとなった。

 江戸時代中期以降は飢饉が相次いだ。この時期の飢饉は全国的な傾向であったが,奥羽州では特に深刻であった。明和3年(1766)の大地震,安永4年(1775)の疫病流行に続き,同7~8,天明元年(1781)には岩木川が氾濫し,天明3~7年は冷害によって大凶作となった。凶作の年の冬は餓えた人々が疫病によって抵抗力なく死んでゆくので,天明3~4年だけで領内の死者は8万人以上に達し,人口の3分の1が失われた。村人が逃散する例も多く,農村の疲弊は著しかった。

往時の本丸御殿の模型
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大きな木が生長した現在の本丸の様子
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 幕末の弘前藩は奥羽越列藩同盟に加わりながらも,当初は曖昧な態度を取った。結局は勤皇に決し,秋田藩に加勢して庄内藩を攻めた。さらに領地を接する盛岡藩とも野辺地で交戦し,大きな損害を出した。この戦いは後の青森県に禍根を残したとされる。
 戊辰戦争に際して弘前・盛岡両藩は箱館の警備兵を引き揚げさせていたため,榎本武揚率いる旧幕府軍の箱館占領を容易にした。箱館戦争では弘前藩兵が官軍の兵力の6割を占め,青森湊は兵站基地となった。そして,町人や農民は上納金の醵出に苦しんだ。
 明治4年に廃藩置県で弘前藩は県となり,すぐに弘前・八戸・黒石・七戸・斗南・館(松前)の各県が合わさって(新)弘前県が成立した。が,同年中に県庁が青森に移転し,県名も青森県に変わった。

 本丸の北側は北の郭,四ノ丸が続く。本丸と北の郭には結構な高低差がある。この辺りが南から延びた台地の先端で,元の地形を生かした城の造りが判る。

北の郭から本丸を望む
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大浦城から移築された賀田門は失われている
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 弘前城は廃藩置県の行われた明治4年(1871)に兵部省の管轄になり,東北鎮台の分営が置かれた。明治27年には一部を除いて市に貸与され,公園として市民に開放された。明治30年には郊外部に陸軍第八師団が設置され,それに伴って市街地は東南へと拡大し,中心部は本町から土手町へと遷移していった。
 宏大な軍用地は戦後になって学校用地に転用され,学園都市へと姿を変えた。

 賀田門の北側は四ノ丸で,広場や護国神社になっている。だだっ広い所に道が延びているので,日陰もなく暑い。
 城の北の端に行きつくと,北門(亀甲門)がある。この門は築城当初の大手門であったため,格式が高い。用材には転用されてきたものが多く,大光寺城(平川市)の遺材であると伝わっているそうだ。

四ノ丸の北門(重文)
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 こんな具合で弘前城址を東から南,南から北へと一巡りした。弘前城の天守はこじんまりしたものだが,築城期の城門や櫓が多く残り,しかも石垣ではなく土塁が多用されているのが面白かった。
 西側にも行く積もりだったのだが,暑さが厳しく,徹底的に回るのは厭になってしまった。

次の記事 弘前の古い街並みと建物を見て回る(1) 仲町重伝建地区,青銀記念館など
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