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都城散策ののち鹿児島へ

平成29年3月6~9日⑤

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 南九州への旅,第二日目。
 宮崎から普通列車に乗り,13:51に西都城に着いた。前回も書いたが,都城市街には都城駅よりも西都城駅の方が近い。特急列車はどちらの駅にも停まり,普通列車は鹿児島方面からだと都城,宮崎方面からだと一部を除いて西都城で折り返すダイヤになっている。
 駅は高架で,やけに長いホームやコンコースは無機質でがらんとしていた。国鉄時代の設計なのだろう。

やけに大きな西都城駅
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 市役所や裁判所などの公共施設も西都城駅近くに集積しているが,それらの中で目立つのが都城市民会館であろう。
 巨大なシールドマシンを思わせる奇抜な外観で,昭和41年(1966)に建てられた。設計は菊竹清訓。
 現在は市総合文化ホールに役割を譲り,休館している。解体される筈だったが,モダニズム建築として評価され,ひとまず保留状態にあるという。
 戦後のモダニズム建築は耐用年数を過ぎつつあるが,伝統的建築物でも失われてしまいがちな現状では戦後の建築物の保存はなかなか難しいのだろう。

休館中の都城市市民会館
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 市役所附近の街路はクスノキ並木になっている。明治41年(1908)に都城尋常小学校女子部の第一期卒業生が卒業記念に植樹したものだという。

都城市街のクスノキ並木
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 この街での目的地は都城島津邸。市役所から500メートルくらい進んだところにある。
 その途中,武家屋敷のように石積み塀に囲まれたマンションを見つけた。きっと邸宅を維持できなくなって手放したか,建て替えることにしたのだろうが,少しでも遺構を残そうという気概が嬉しい。

武家屋敷マンション
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 この旅の旅行記の冒頭で第一日目と二日目の行程を入れ替えたことを書いたが,それは島津邸が月曜休館だったためである。都城ではここを外せないと思ったのだ。
 都城島津邸は都城島津氏の屋敷である。
 敷地内には都城島津伝承館があり,各種資料が納められているといるそうだが,こちらは展示替えのため休館中であった。

本宅の正面。「丸に十字」は島津家の家紋
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 都城島津氏は,惟宗(島津)忠久を祖とする島津家4代目忠宗の六男・忠資に始まる。
 文和元年(1352)に島津忠資は足利尊氏から北郷300町を与えられ,北郷(ほんごう)姓を名乗った。都城盆地は平安時代に拓かれた島津庄の中心地で,庄内と呼ばれ,北郷・中郷・南郷といった地域区分があった。
 資忠と子の義久は大岩田城を改修し,都島(宮古島)と呼ばれていたこの地を都城と改めた。南北朝時代の当時,島津氏は九州探題の今川了俊と争っており,北郷氏はその矢面に立たされた(都城合戦)。

 北郷氏は15世紀末から16世紀にかけて版図を拡げ,永禄11年(1568)には都城を中心にして盆地を囲うように外城に据え,庄内一円を支配下に置いた。
 天正15年(1587)に島津氏が豊臣秀吉に降ると,北郷氏も少し遅れて帰順し,北郷忠虎には都城が安堵された。ただし,これは島津領の私領という扱いであり,独立した大名にはなれなかった。
 しかし,文禄4年(1595)に都城は伊集院忠棟に与えられ,忠虎は薩摩国伊佐郡の祁答院(さつま町,旧宮之城町)に移封されてしまう。秀吉の九州征伐に際しては伊集院氏が手引きした面があり,島津領約58万石のうち島津義久・義弘の蔵入地(直轄領)が各10万石であったのに対し,伊集院氏にも8万石が宛がわれていた。

 慶長4年(1599),伊集院忠棟は島津家久(義久の子)によって京の伏見で暗殺された。忠棟の子忠真は蜂起して島津氏と戦ったが,形勢は不利となり,徳川家康の仲裁で降伏した(庄内の乱)。
 忠真は薩摩国頴娃郡1万石に移され,慶長5年に北郷氏が都城に復した。そして,後に本家の命によって再び島津氏を名乗ることとなる。

庭園から眺める本宅
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 島津氏領は人口における武士の割合が非常に多く,鹿児島城下に住まわすことができなかった。そのため,領内を地頭所(直轄地)と私領からなる約110の外城という行政区画に分け,各地に武士(外城衆中)を住まわせた。都城島津氏は私領の領主という扱いであったが,江戸時代は日置家,花岡家,宮之城家と並んで四家の扱いを受けていた。
 元和元年(1615)に一国一城令が出されると,北郷氏は都城(城郭)を放棄せざるを得ず,館を築いて移った。

 幕末には家臣が勤王派,佐幕派に分かれたが,鹿児島藩に従う形で慶応3年(1867)に京に軍を派遣し,鳥羽伏見の戦いに加わっている。明治2年(1869)には版籍奉還により領主島津元丸が都城から引き払い,鹿児島に移住する。代わりに地頭として旧藩士の三島通庸が着任した。
 西南戦争では旧都城領から1,558名が西郷軍に加わり,そのうち134名が戦死したという。

 現在公開されている本邸は明治12年(1879)に建てられ,昭和10年(1935)の陸軍大演習に合わせて改築されたものである。
 昭和47年(1972)に小林市で行われた第24回全国植樹祭に出席された昭和天皇の宿所となり,その際に大規模に改装された。

行啓時の御座所として用意されたテーブルとソファー
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当時としてはモダンであっただろう浴室
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明治5年築,同15年に移築されてきた蔵
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防火水槽を兼ねていたプール
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慶応3年築,明治12年移築とされる剣道場
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昭和5年築の石蔵
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 都城島津邸を後にし,都城駅を目指して北に歩く。西都城駅からは1.3キロほどの平坦路であったが,都城駅までには台地を刻んで流れる年見川を挟んで2キロ強の距離がある。
 年見川が近づくと,巨大な鳥居が現われた。これまた巨大な扁額に「神柱宮」と記されており,遠くからでも見えた。

凄まじいまでの威容を誇る神柱宮の鳥居
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 神柱宮は創建万寿3年(1026)と伝えられる。大宰府から下向して島津荘を開拓し,関白藤原頼通に寄進した平季基が神託を奉じ,伊勢神宮を勧請したのが由緒とされる。そのため,祭神は天照大神と豊受姫大神で,島津荘総鎮守という位置づけであった。
 明治4年に都城県が設置され,県社とするために島津氏別邸のあった当地に移された。

台地の際を生かした境内
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拝殿
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 神柱宮の裏手に出ればあと300メートルほどで都城駅に到る。行政の中心と言った感じだった西都城駅周辺と違い,こちらはホテルや飲食店などが多い。
 駅舎は2階建てで,主要駅らしく運転関係の施設が大半を占めているようだった。

都城駅
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 都城16:00発の鹿児島中央ゆき普通列車に乗る。西都城より先に行く列車は本数が少なく,これが13:35発以来となっている。
 2分前に宮崎からの西都城ゆきが先行するが,運転区間が重なる都城でも西都城でもホームが別なので,乗り継ぎの便は良くない。

 西都城を発車すると,左手に分岐していく高架線が見える。昭和62年に廃止された志布志線の遺構である。向こうの方が先に開通したので,正確には日豊線が分岐する線形になっている。

鹿児島中央ゆき列車
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西都城駅の先で分かれていく志布志線の廃線跡
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 西都城の次の五十市を過ぎると,宮崎県から鹿児島県に入る。まだ都城盆地の中なので,妙な境界だ。
 次の財部で西郷どんを思わせる顔の濃い中学生が降りていった。空が曇ってきた。
 財部から先は標高約350メートルの北永野田まで上り勾配が続く。そして,いくつかの河川を股にかけて下ってゆく。ただただ山が深い。スギの木が花粉を蓄えて茶色くなっている。初めて乗車する区間だが,うとうとしてくる。

 山を下り切り,16:46に国分着。ここからは列車本数が増えるので途中下車も可能だが,とうとう雨になった。
 天降川を渡り,次の隼人では12分停車。国分と隼人での乗車が多く,座席が埋まった。

 穏やかな平野も束の間で,重富を過ぎると海沿いに押しやられる。反対側は姶良カルデラの外輪山で,非常に切り立っている。
 険しい区間ではあるが,国道10号に並行しなながらひたすら錦江湾に沿って走るので景色は良い。桜島が近づいてくる。
 国道が片側2車線の時はクルマが追い抜いてゆくが,1車線になるとこちらが追い抜きにかかる。
 信号場のような竜ケ水で対向の特急との交換待ち。通路側の座席が塞がっていなければ,ホームに降りて景色を眺めるところだった。
 鹿児島から鹿児島線に入り,終点鹿児島中央には17:41に着いた。

重富駅の先で濃い調光ガラスごしに眺める桜島
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雨上がりの鹿児島中央駅に到着
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 きょうの宿は中心部に近い金生町であるので,市内電車に乗る。ちょうど帰宅ラッシュ時にあたっており,電停には長い列ができていた。1台目の電車には乗れず,2台目になんとか乗り込んだ。

 旅装を解き,ちょっと休んでから夕食を摂りに行く。
 金生町には百貨店の山形屋があり,ライトアップされていた。山形屋は創業宝暦元年(1751)の呉服商に始まり,明治の中頃にデパートとなった。
 本館は大正5年(1916),新館は昭和7年(1932)の建築で,相当建て増しされているが,古い建物である。平成10年(1998)には大正時代の本館をモチーフにした現在のような外観に整えられた。

ライトアップされた山形屋
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 夕食は天文館の「豚とろ」という店で鹿児島ラーメンにした。かき氷の白くまをハシゴするつもりだったが,思わず替え玉を註文してしまったため,それは止めにした。

夕食は鹿児島ラーメンr-kagoshima.jpg
(スマートフォンで撮影)


 ホテルに戻り,さつま揚げをつまみに焼酎。

こんなん飲んでみた
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