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飫肥城と城下を散策する

平成29年3月6~9日②

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 志布志からJR日南線を北上し,飫肥で下車。時刻は15:07。
 飫肥は伊東氏5.1万石の城下町で,早い時期から街並みの修景に力を入れていることで知られる。中心部は昭和52年(1977)に国内8番目,九州では初めての重伝建地区に指定された。

城をモチーフにした飫肥駅舎
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 飫肥の街は「ひ」の字型に蛇行する酒谷川の内側に位置し,駅と街は川を隔てている。駅前から国道222号を歩くことになるが,この道路は宮崎県営鉄道の廃線跡のようだ。県営鉄道は飫肥と油津(港)を結んでいたが,日南線に発展的解消を遂げた。県営鉄道の飫肥駅は今よりももっと街に近い場所にあった。

稲荷下橋から酒谷川(写真は城下町と逆方向)
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 橋を渡ると,国道は一直線に延びる。道幅も広く,歩道も完備された道であるが,電線が地中化されており,非常にすっきりした印象を受けた。
 城下町は後回しにして,とりあえず城まで行ってしまおう。城の大手門へと続く道の両側は板塀や石垣が連なり,これを見ただけでも修景への力の入れようを感じられる。途中から登り坂になっているのも佳い。

電線を地中化した国道(本町商人通り)
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(写真は遅い時間に撮影したため,だいぶ陽が傾いている)

大手門通り
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飫肥杉の目立つ飫肥城
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 飫肥の地は平安時代に成立した島津荘の一部であり,島津氏が領有していた。中世には島津氏と伊東氏との争いが繰り返され,江戸時代は伊東氏が治めた。

 伊東氏の初代は工藤祐経といい,本拠は伊豆国田方郡伊東庄(静岡県伊東市)にあった。祐経は鎌倉時代初期に宇佐宮(神宮)領の県荘(延岡市)の地頭職として日向国に入り,子の祐時が伊東姓を名乗った。
 室町時代になり,伊東祐持が元弘の乱での功により日向国都於郡(郡名ではなく,児湯郡のうち)を与えられた。
 伊東氏は徐々に版図を拡大し,永禄4年(1561)には伊東義祐が飫肥城の島津忠親を降した。が,それも束の間で,元亀3年(1572)に日向国西部の加久藤盆地をめぐる木崎原の戦いが勃発し,伊東氏は島津氏に大敗を喫した。これで形成は逆転した。天正4年(1576)には島津氏が西から,翌年には土持氏が北から侵攻し,挟み撃ちに遭う。伊東義祐は都於郡を放棄し,豊後国大友氏の元へと遁走した。

 日向国をも領国に加えた島津氏は,守護代として島津家久が佐土原(宮崎市,旧佐土原町)に入る。天正6年には大友宗麟が日向国に侵攻するも,島津義久に耳川の戦いで敗れた。伊東義祐は伊予国を経て和泉国に渡り,堺で歿した。

 現在の飫肥城では,大手門が復元されている。藩政時代の大手門は明治期に取り壊されていたため,昭和53年の復元にあたっては各地の城郭に現存する大手門を参考に設計したのだという。
 門をくぐって石垣を見上げながら進んでいくと,飫肥城歴史資料館がある。ここで「飫肥城 通行手形」というのを購入する。610円のチケットで,城内・城下の7施設に入場できる。いちいち入場料を払うのは面倒だし,費用が嵩んで「ここはいいかな…」となったりするから,共通券はありがたい。
 資料館には伊東氏に関する品々が展示されていた。こういう施設の目玉は刀剣や甲冑類なのだろうが,私にはその価値や良さがなかなか分からない。その代わり,国絵図には見入ってしまう。

飫肥城の復元大手門
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大手門前の内濠は,現在は水を抜かれて空堀に
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飫肥城歴史資料館
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 天正14年になると島津義久は日向国からさらに豊後国へと侵攻した。関白豊臣秀吉は惣無事令で九州の知行割を示したが,島津にはこれが不服であった。が,九州征伐を目した秀吉の軍勢に押し返される。翌天正15年には豊臣秀長の軍勢が日向国に入り,義久は降伏した。この時従軍していたのが,伊東義祐の子祐兵であった。祐兵は播磨国の姫路城に赴いて秀吉の家臣となり,九州征伐の道案内を務めた。
 この後の九州仕置により,日向国は島津義弘,島津豊久(義弘の弟家久の子),秋月氏,高橋氏,伊東氏に分知された。伊東祐兵は飫肥城を居城とすることを強く望み,それが容れられて約10年ぶりに飫肥の地に戻った。領地は宮崎郡と那珂郡の一部で,約2.8万石(のちの太閤検地で3.6万石に高直し)であった。入城に際しては島津氏配下の城主上原尚常が城の明け渡しを拒み,伊東氏の使者が殺害されたりしている。

 関ケ原の戦いでは,日向国勢は伊東氏以外が西軍についている。徳川家康の会津征伐に附き従っていた伊東祐兵は大坂に戻ると,病と言って参戦しなかった。祐兵の子祐慶は飫肥に戻り,西軍高橋元種の家臣権藤種盛の守る宮崎城を攻めている。元種は既に東軍に降っていたが,その情報は日向国まで伝わっていなかった。
 戦後は飫肥を安堵された。所領は慶長9年(1604)の検地によってだいぶ水増しされ,5.7万石が打ち出された。

 江戸時代の日向国では災害が多く,寛文2年(1662・寛文日向灘地震),延宝8年(1680),貞享元年(1684)に相次いで震禍に見舞われている。飫肥藩領では海沿いの農地が水没したり,城郭にも被害が出たりしている。
 貞享の地震後に城の修繕が行われ,本丸が一段低い場所に移った。旧本丸は森に姿を変えつつあり,新本丸は小学校に変わっている。

飫肥杉の茂る旧本丸へと続く石段
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新しい時代の本丸は小学校に
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コケとスギの森となった旧本丸
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 本丸の南西に位置する松尾の丸には,武家屋敷が再現されている。場所が場所なので,この場所にあった建物であるかのような錯覚を受けるが,もちろん武家屋敷は城下にあった。

松尾の丸の復元武家屋敷
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邸内では殿様体験(?)ができるようになっていた
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 伊東氏は一度も転封されることなく,幕末を迎えた。知行高は5.7万石から5.1万石に減少しているが,これは減封された訳ではなく,兄弟で分知を行ったためである。
 薩英戦争によって近代的な英国海軍の兵力を間近に見た飫肥藩では,長年の宿敵鹿児島藩に接近し,領地を接する佐土原藩,高鍋藩とも協調関係を深める。
 元治元年(1864)の第一次長州征伐に続き,慶応元年(1865)には第二次長州征伐が幕府から命じられるが,薩長同盟を結んだ鹿児島藩に追随する形で飫肥藩も出兵を拒否した。

 明治維新がなって廃藩置県ののち,県の統廃合が進んで明治6年(1873)に日向国からなる宮崎県が成立する。が,それも束の間で,明治9年には宮崎県が鹿児島県に編入されてしまう。これには未だに力を持っていた鹿児島県の士族を県政から排除する目的があったのだが,その目的は達成されることなく,明治10年2月に西南戦争が勃発する。
 薩摩・大隅・日向国からなる鹿児島県では,旧各藩の士族たちが西郷隆盛軍に加わった。旧飫肥藩からは約1,000人が出兵し,約200人が戦死したといわれている。
 戦後,鹿児島県の県域が広すぎることなどから,明治15年に鹿児島県から現在の宮崎県が分離・再置された。やや余談になるが,もともと日向国であった志布志附近(南諸県郡)はこの時に鹿児島県に残った。

 大手門門前には豫章館という屋敷がある。
 明治2年(1869)に藩主伊東祐帰が城を出て住まわった邸宅である。母屋は本丸奥御殿の書院が移築された。当初は茅葺であったが,昭和初期に瓦葺に改めたという。

豫章館母屋
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豫章館の庭園
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邸内には大きな雛飾りが展示されていた
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 豫章館の向かいは伊東祐正邸。明治期の建築であるという。

伊東祐正邸
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屋敷の鬼瓦には家紋の「月に星九曜」が
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柔らかな夕陽を受けた祐正邸の早咲きサクラと菜の花
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 祐正邸の一劃は,国際交流センター「小村記念館」となっている。小村とは不平等条約改正や日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)締結に奔走した小村寿太郎のことである。
 小村寿太郎は飫肥藩の武士の家に生まれ,明治34年に外務大臣に就任した。
 日露戦争では旅順要塞の攻略や日本海海戦の勝利が華々しく報じられ,国民は湧いていたが,日本の国力は尽きかけ,戦争継続は不可能な状況にあった。結ばれた講和条約は賠償金放棄,領地は南樺太のみなど得るものは少なく,東京をはじめ各地で憤怒した市民による騒擾事件が起きた。
 そのような背景があり,地元飫肥ですら小村寿太郎の話は長らくタブーになっていたという。日露戦争の講和条約締結を題材にした「ポーツマスの旗」(昭和54年)を執筆した吉村昭氏が,その取材で飫肥を訪れた際,小村寿太郎の名前を出すとお茶すら出してもらえなかったと何かで述懐していたと思うのだが,出典を忘れてしまった。

邸内に整備された小村記念館
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城下町にある小村寿太郎生誕の地碑
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小村邸跡に隣接する明治40年築の旧山本猪平邸
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 坂を下り,大手門通りと直交する後町通りに折れる。石垣の上に庇のついた塀がのび,落ち着いた街並みが続いている。もっとも,塀の奥の建物には駐車場をそなえた新しいものがあるし,昔のままとはいかない。この辺りが修景と街の人々の暮らしの妥協点なのだろう。
 道の両側には堀があって,錦鯉ばかりが泳いでいる。

後町通り
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私を見て錦鯉が集まってきた
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 見学施設が閉館となる17時が近づき,最後に本町商人通りに面した旧高橋源次郎家を見学する。本当は最終入場が16時半のようだが,快く入れてくれた。
 高橋源次郎は飫肥の実業家で,貴族院議員も務めた。主屋は明治16~27年頃の建築とされ,この頃増え始めた瓦葺き屋根の先駆けであったという。

旧高橋源次郎家住宅
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明かりがないと昼間でも薄暗そうな邸内
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夕陽を受けた屋外の台所
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 これで「通行手形」で入場できる7施設のうち6施設を回れた。
 飫肥ではこの「通行手形」の他に,食べ歩き引換券5枚のついた「あゆみ(歩味)ちゃんマップ」というのも販売されている。飫肥の名物は厚焼き玉子と天ぷら(さつまあげ)である。
 こうした,いわば“街じゅうミュージアム”の取り組みは街歩きの幅を広げるし,回遊性が上がる。店に入る機会が増えれば,ついでにお土産も売れるだろうし,もっと広がってほしい。

 列車の時間まではもう少し間があるので,少し遠回りして駅に戻った。

古びた洋館然とした旧飯田医院
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公民館になった鹿児島銀行旧飫肥支店
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 飫肥17:54発の宮崎ゆきに乗る。日南線で唯一の快速列車で,「日南マリーン号」の愛称がついている。2両連結の前方は一般色であったが,後方は黄色のオリジナルカラー車であった。

飫肥駅に宮崎ゆき列車が入線
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 列車は広渡川に沿ってのんびり走り,北郷を過ぎて長い谷之城トンネルを抜ける。伊比井からは再び海沿いを走るが,夜の気配が色濃くなってきた。
 青島を過ぎると,いよいよ車窓が見えなくなってきた。初乗りの線区は明るいうちに乗りたいと思っているが,青島まではまた翌朝に来る予定である。

宮崎平野に出た運動公園駅にて
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 南宮崎で日豊線に合流し,大淀川を渡り,19:02に宮崎に着いた。
 行程変更もあり,きょうは列車にあまり乗れなかった。志布志・飫肥間の運賃が1,110円,飫肥・宮崎間が940円なので,合計2,050円で18きっぷ1回分(2,370円)を下回った。

近代的な高架の宮崎駅
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 駅に近いホテルにチェックインし,夕食は中心市街地の橘通にあるきっちょううどんに食べに行った。この店は5年前に卒業旅行で宮崎に来たときに入ったことがある。店舗は別だが。
 青唐辛子を入れるという特徴があって,その辛みが気に入っている。
 まだ20時だというのに,店も街も人が少なく,活気に乏しいように感じた。

きっちょううどんにて夕食
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