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三河吉田・豊橋を探訪する

旅行日:平成29年1月(17~)18~20日⑧
最初の記事 雪の桑名城下町を散策
前の記事 大神宮参詣のち,伊勢湾渡海渥美半島経由豊橋へ
 豊橋鉄道の電車で新豊橋駅に着いたのが15:22。浜松に行くためには豊橋17:02発の東海道線に乗ればいいので,それまで街を散策する。豊橋駅ではしばしば電車を乗り換えているが,駅から出るのは初めてだ。

 急いで昼食を済ませ,駅から延びる広小路通りを東へ。広小路通りは戦前のメインストリートであったが,戦災復興時にさらに広い駅前大通が並行して整備され,市内電車もそちらに移設された。
 市内電車の走る国道1号に折れて北上すると,豊川に吉田大橋が架かる。川面はかなり下にあり,豊橋の街が河岸段丘上に位置することを知る。勝手に低地のイメージを抱いていた。
 橋から上流方向を望むと,吉田城の鉄櫓(復元)が見える。段丘崖を利用した城塞というわけだ。

吉田大橋から望む吉田城
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 橋の袂から石段を下り,川沿いに整備された散策路を辿って城の下へ。城郭時代には北面に鉄櫓の他,入道櫓,川手櫓が配置されていた。急な石段を本丸へと登る。

復元鉄櫓を見上げる
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鉄櫓付近から見渡す豊川の蛇行
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 吉田の地名は平安期の伊勢神宮領「吉田御園」に見られる。ただし,鎌倉時代には上納が行われなくなり,守護領となっていった。貞応3年(1224)には豊川に架橋がなされ,この橋を今橋と称したことから附近の地名にも転じた。
 城郭としては,永正2年(1505)に牧野成時が今橋城を築いたのが始まりとされる。成時は駿河・遠江国守護の今川氏に従属する一方,同じ今川配下で渥美郡田原城の戸田氏との勢力争いが生じていた。三河西部には松平氏が伸張し,今川氏との対立を深めていた。
 戸田氏は松平方に接近していたのだが,逆に牧野成時が松平方に内通していると今川氏に伝えたため,今川氏親は今橋城を攻めた。結果,城は落ち,成時は自害した。氏親はのちに成時を討ったことを悔い,成時の子三成・信成に今橋城を奪還させた。

 その後,今川氏の侵攻や「守山崩れ」による松平氏の衰退があるのだが,永禄7年(1564)には松平(徳川)家康が三河国平定を完了し,その支配することとなった。吉田城(大永年間に今橋から吉田に改称)には城攻めで功のあった松平家家老の酒井忠次が配置された。
 豊臣秀吉によって徳川家康が関東に移封されると,吉田城には三河国のうち4郡15.2万石を与えられた池田輝政が入封する。輝政は城郭を拡大し,街割りを整えたほか,豊川の治水事業も行った。
 輝政は秀吉の死後に家康に接近し,関ケ原の戦いの後で播磨国姫路52万石に大幅加増の上で移封する。代わって武蔵国児玉郡(埼玉県本庄市)1万石の松平(竹谷)家清が3万石に加増の上で入封した。慶長6年(1601)には東海道が定められ,吉田はその宿場町ともなった。
 家清の次の忠清が無嗣で歿したため,竹谷松平家は除封され,松平(深溝)忠利が入る。この後も領主はしばしば交替し,しかも松平家ばかりなので非常に紛らわしい。しかし,つまりそれは徳川家が譜代大名ばかりを配置し,東海道の要地である吉田を重視したということである。
 その中で特筆されるのは,牧野成春の存在であろう。宝永2年(1705)に下総国関宿から吉田に入り,正徳2年(1712)にその死去によって日向国延岡に移封になった成春は,今橋城を築城した成時の末裔であった。

がらんとした本丸
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水を抜かれたかつての本丸濠
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石垣だけが残る大手門跡
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 明治維新後の明治2年には吉田藩から豊橋藩に改名する。伊予国の吉田藩と同名を避けたためだとされ,同時期には丹後国田辺藩(→舞鶴藩),丹波国亀山藩(→亀岡藩)なども名を改めている。
 吉田城では明治6年に失火によって多くの建物が焼け,残った建物も明治9年には払い下げられた。
 その後,明治18年には吉田城の跡地には陸軍第15師団が置かれた。第15師団は軍縮により大正14年(1925)に廃止されたが,軍事施設は残ったので,太平洋戦争中には激しい空襲に見舞われた。

 現在その跡地には市役所と中学校が建っている。市役所は13階建ての高層建築で,最上階は展望スペースとして開放されている。
 フロアでは市内電車に関するパネル展示が行われており,気になるところだったが,時間がないのでざっと写真に収めてエレベーターを下りた。

市役所の一劃に保存されている第15師団の歩兵第18聯隊西門の門柱
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豊川下流方向を望む。写真中央の橋はかつての吉田大橋に相当する豊橋(とよばし)
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豊橋市街地方面
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東側は豊橋公園
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 周辺を少し散策し,近代建築を見る。
 まずは豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太(マトフェイ)聖堂。大正2年(1913)に建てられた。私には教会建築の特徴はよく判らないが,玄関―啓蒙所―聖所―至聖所が一直線に並ぶ造りがハリストス正教会の聖堂の特徴であるという。
 設計は現在の愛知県南知多町出身で,ハリストス正教会の司祭建築家河村伊蔵。
 夕陽に照らされた様が美しかった。

豊橋ハリストス正教会聖使徒福音者馬太聖堂
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夕陽を受けた鐘塔
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 教会の近くには,電車通りに面して天照大神を祀る安久美神戸神明社がある。
 平将門の乱が鎮圧されたのち,朱雀天皇が伊勢神宮に飽海荘を寄進し,神宮の祭主がこの地に赴いて建立したとされる。歴代吉田城主からも崇敬を集め,陸軍に追い出される形でこの地に遷座したという。
 社殿は昭和5年(1930)の建立。

安久美神戸神明社の社殿
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神楽殿は明治18年の建築と,古い
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 そして,豊橋市を代表する建築物が,市役所前に建つ市公会堂であろう。
 この建物は戦前の電力会社の名古屋電燈と豊橋電気が合併した際に寄付された。合併にあたっては豊橋電気の地元株主から反対意見があり,その懐柔策としての寄付だったらしい。
 両社は大正10年に合併したが,着工は昭和5年まで遅れ,豊橋市市制25周年にあたる翌昭和6年に竣工した。設計は中村與資平。
 当時のメインストリートであった大手通りの突き当りに位置し,その続きのように外階段が延びる。まさに街のシンボルであったのだろう。戦時中には市役所の仮庁舎として使用され,市街の9割を焼失させた戦災からも焼け残った。

豊橋市公会堂
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この建物の象徴ともいえるワシの石像
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西八町から東八町にかけては国道1号で唯一の併用軌道
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 せっかくなの駅までの戻りには市内電車に乗りたかったのだが,直線の通りに電車の姿が見えない。これはしばらく来ないだろうと思って歩き出した。ずっと電車通りを歩いたが,駅へのペデストリアンデッキに昇りかけたところでようやく電車に追いつかれた。
 豊橋17:02発の東海道線で浜松へ。窓際の席に座れたが,途中で陽が暮れてしまった。

 浜松駅からはJR東海バス「東名ライナー202号」を利用する。列車を乗り継ぐよりは楽だし,多少速い。運賃も鉄道の普通運賃と同等ながら,リクライニングシートに座れる。
 バスは浜松市内の渋滞に巻き込まれたものの,浜松ICから東名に入ると順調に進んだ。東名はコマメにバスストップが設けられており,東名静岡までは各停留所に停車する。飛び込み客も結構乗ってきて,運転手が空いている席を案内した。バスは東京駅まで行くが,霞ケ関や東名江田までの客も多いようだ。
 東名静岡から東名伊勢原までの区間は一部停留所を通過し,途中足柄SAで小休止。御殿場附近で乗車率は6割程度だっただろうか。きょうは金曜日だから,普段はもっと空いているのかもしれない。
 私は自宅最寄りの停留所で下車したが,ここでの下車客は一人だけだった。
 最寄とはいえ家までは約25分の距離にあり,寒い中重い荷物を持って歩くのは疲れた。
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