雪の桑名城下町を散策

旅行日:平成29年1月(17~)18~20日①
 今年の旅初めは三重県へ。
三重県


 1月17日。横浜シティエアターミナル(YCAT)を23:30発のバスで発つ。
 今回の旅立ちはJR東海バス「ファンタジアなごや1号」。出発地の西船橋から東京ディズニーリゾート,お台場,横浜を通り,名古屋に向かう。YCATが最後の乗車地であるが,そこを出ても定員28人のバスに客は10人以下であった。

 翌朝は名古屋IC(本郷駅)から客扱いが始まり,早起きとなる。星ケ丘,本山,千種,栄と地下鉄駅に停車し,定刻の6:20よりも10分ほど早く名古屋駅新幹線口に到着した。気温は氷点下1.4度と寒い。

まだ暗い名古屋駅前に到着
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 朝食を摂ったりして時間を潰し,名古屋駅8:37発の快速「みえ1号」に乗り込む。新幹線との接続待ちで出発が2分ほど遅れた。
 名古屋の市街地が切れて田園地帯に出ると,辺り一面が真っ白だ。数日前に強い寒波が到来し,この地方もかなりの雪に見舞われた。平野の向こうに連なる養老山地の山並みも冠雪している。
 木曽川を渡って三重県に入り,さらに長良川と揖斐川をまとめて渡って,桑名で下車。遅れは恢復して定刻であった。

関西線で名古屋から桑名へ
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冠雪の養老山地を見ながら揖斐川橋梁に差し掛かる
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 桑名駅は市街から1キロほど離れている。車道の雪はないが,歩道はロクに除雪されていない。それが今朝の冷え込みで凍結しているので,滑らないように慎重に歩かねばならない。
 桑名城の外濠のところまで来ると,賑やかな商店街があった。
 寺町商店街といい,3と8のつく日には朝市が開かれるという。きょうは18日である。売られているのは野菜や魚が多いが,桑名らしくハマグリやアサリの佃煮なんかもある。こういうのをブラブラ眺めるのは楽しい。

寺町商店街で開かれる三八市
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 外濠を渡り,初詣がてらまずは春日神社を訪れる。この神社は旧東海道から少し入ったところに鎮座し,街道沿いに青銅の鳥居が立っている。時の桑名藩主松平定重が寛文7年(1667)に寄進したという。
 桑名は埼玉県の川口と並び称される鋳物の街でもある。

春日神社の青銅鳥居
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 春日神社は桑名宗社とも呼ばれ,桑名神社と中臣神社からなる。記録によれば,景行天皇40年(110)には桑名の開祖・桑名首を祀る神社があったとされる。これはマユツバとしても,正確な縁起が分からないほどの歴史があるのだろう。
 永仁4年(1296)に奈良の春日大社を勧請し,春日四柱神を合祀した。以来,春日神社とも呼ばれるようになった。

 ここ,桑名の地は東に木曽三川の河口を控え,陸運と海運,河川通運の結節点として栄えた。
 伊勢神宮の式年遷宮のための用材は時代によって三河国,美濃国,信濃国などで調達されたが,それらも桑名が中継点となったし,江戸時代の東海道も桑名宿と宮宿(名古屋市熱田区)の間は航路であった。
 また,桑名神社を中心に南市場,北市場が立ち,定期市が開かれる商業都市でもあった。

 春日神社の社殿は昭和20年の桑名空襲で焼失したため,青銅鳥居以外の建物は新しい。
 参拝を済ませ,おみくじを引くと大吉が出た。これは幸先が良い。

宗社の山門と参道のかまくら
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拝殿は一つの建物が2つに分かれ,右側が桑名神社,左側が中臣神社となっている
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 交通の要衝を背景に商業都市として発展した桑名は,周辺の勢力にも重視され,時には狙われた。
 永正7年(1510)には伊勢国安濃郡の長野藤直が桑名に侵攻し,住民たちは対抗策として街から四散した。この結果,伊勢海運が大いに混乱を来し,神宮も困惑した。

 しかし,永禄10年(1567)から天正2年(1574)にかけて今度は織田信長の攻撃を受け,住民たちは降伏する。信長は一向一揆の拠点であった長島城(旧長島町)に滝川一益を配し,併せて桑名も領した。その後,領主は織田信雄,豊臣秀吉へと目まぐるしく交代した。
 一益は支城の桑名矢田城を桑名支配の拠点としていたが,豊臣秀吉配下の代官一柳直盛が桑名城を築いた。直盛は神戸城(鈴鹿市)の天守を移築したという。後の城主・氏家行広は関ケ原の戦いで西軍に与したため改易され,本多忠勝が城主となった。

かつての濠には漁船が舫われ,貝漁をする人の姿も見られた
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 本多忠勝は徳川四天王の一人に数えられる家康の重臣であり,家康が交通の要衝である桑名を重視していたことを窺わせる。
 忠勝は市街を流れていた町屋川(員弁川の下流)を南に移し,城下の北・東側は揖斐川に沿うようにした。一方,南・西側には内濠を築き,城下に外濠を廻らせた。新たに築いた天守は4重6層の荘厳なものであったと言われている。
 慶長6年(1601)には東海道が制定され,桑名にも宿が置かれた。宮宿と桑名宿の間は海路であったが,陸路で佐屋(愛知県愛西市)を経由する脇往還もあった。
 宿場町としての桑名宿の規模も大きかった。天候によっては舟が出ないこともあり,旅籠の数は宮宿に次いで東海道で二番目に多く,大小120軒(天保14年時点)もあったという。

この細い道がかつての東海道
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 江戸時代の桑名城主は本多家,久松松平家,久松松平家(弟の家系),奥平松平家,久松松平家と目まぐるしく代わったが,いずれも徳川家に近い家柄の者が藩主となった。
 天守は元禄14年(1701)に城下で起きた火災が延焼して焼失し,その後再建されなかった。
 幕末の藩主松平定敬は兄に名古屋藩主徳川慶勝,慶喜将軍就任後の一橋家当主茂徳,会津藩主松平容保を持ついわゆる高須四兄弟の一人であった。京都所司代のポストにあり,禁門の変や鳥羽伏見の戦いでは桑名藩が幕府軍の主要戦力となった。
 定敬の方は会津を経て箱館戦争までを戦い抜いたが,桑名藩では新政府軍が東海道を上って攻め来る前に恭順の意を示した結果,無血開城に成功した。街は戦禍に戦禍に遭うことなく,桑名城の三重櫓が降伏の印しに焼かれただけで済んだ。

 明治8年に城の敷地と建物は払い下げられ,失われた。
 桑名城址の一部は明治29年に桑名紡績(のちに三重紡績)の工場地となったが,戦時中には三菱重工航空機部門に貸し出され,戦災で焼失した。
 現在は九華公園として整備されている。
幅の広い内濠
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 九華公園のうち,桑名城本丸跡には鎮国守国神社が鎮座する。九華明神とも称されるこの神社は,5代目藩主松平定綱(鎮国公),定信(守国公)を祀っている。
 定綱は慶安4年(1651)に歿し,子孫の松平定信が移封先の磐城国白河城(福島県白河市)で鎮国大明神として祀った。定信の子の定永は文政6年(1823)に桑名に再移封となり,桑名城内に鎮国神社を移した。定信は天保5年(1834)に歿し,その後定国公として共に祀られた。
 神社は廃城後に二度移転し,明治40年に現在地に落ち着いた。

鎮国守国神社の拝殿
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社殿の脇の石垣は天守台。戊辰戦争戦没者の鎮魂碑が立つ
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境内にはネコが多く見られた
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 九華公園から揖斐川の方に向かって旧東海道を進む。川に近い川口町はかつて花街だったそうで,現在も小料理屋や料亭が集まっている。
 揖斐川沿いには大きな鳥居が立っている。この鳥居,ここから直線距離でも60キロ以上離れた伊勢神宮の一の鳥居なのである。
 この鳥居は式年遷宮の度に内宮の宇治橋前の鳥居が移築される。

かつての花街の名残
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揖斐川を望む伊勢神宮の一の鳥居
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 鳥居の下が揖斐川が入り込んだ住吉浦で,七里の渡しの船着場であった。水害対策で堤防が設けられ,川から切り離されてしまったのは仕方のないことだろう。
 江戸時代の船着場には旅人を睥睨するように桑名城の蟠龍櫓が聳えていた。桑名のシンボルでもあり,度々絵図にも描かれたという。
 維新後に破却され,石垣も伊勢湾台風で損なわれたというが,水門の管理所という形で復元された。

蟠龍櫓を模した水門統合管理所
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姿を変えたかつての住吉浦
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 揖斐川の堤防上に立つ。上流側には養老山地が連なり,川向こうには名古屋のビル群が望まれる。霞んで見える雪山は御嶽山だろうか。
 揖斐川のすぐ向こうは背割堤を隔てて流れる長良川で,特徴的な構造の長良川河口堰も見える。

川幅いっぱいに水を湛えた揖斐川と,その向こうの長良川
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 この後は六華苑を訪れたのだが,長くなったので次項に続く。

次の記事 雪景色の桑名六華苑を訪れる
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