旅行日:平成28年11月(8~)9~11日⑩
最初の記事 靄立ち昇る紅葉の丹波東部前の記事 小浜城址と城下町の小浜西組をめぐる 小浜の街を後にし,国道27号を東へ走る。
ところで,小浜には古刹が点在していることから,小浜は“海のある奈良”なども呼ばれている。それらは主に郊外にあって,飯盛寺,羽賀寺,神宮寺,妙楽寺,明通寺など数多い。全てを訪れてはキリがないので,2つだけ訪ねてみることにした。
まずは若狭彦神社の近くにある神宮寺へ。
JR東小浜駅附近を折れ,南へ。遠敷川の谷に入り,若狭姫神社,若狭彦神社の脇を抜ける。若狭彦神社は若狭国一宮であり,ここも訪れておけばよかった。
神宮寺は遠敷川左岸の高台にあった。
多田ケ岳の翠巒を背負った神宮寺
神宮寺(固有名詞)は近世までは若狭彦神社・若狭姫神社の神宮寺(名詞)であった。
神宮寺(名)は奈良時代から神社の中に建立が始まった。これは,「神も煩悩に苦しむ身であり,仏による救済を望んでいる」という考えに基づいたもので,いわば神様のための寺である。そのため,神仏習合的な要素が強い。
縁起によると,当寺の創建は和銅7年(714)と天長6年(829)とする説がある。創建当初は神願寺という寺名であったが,宝治2年(1248)に若狭彦神社の別当寺になったのを機に神宮寺に改称した。
本堂は天文14年(1545)に落雷で焼失し,天文22年に朝倉義景が再建した。檜皮葺の入母屋造りで,唐様を取り入れた和風建築である。こけら葺きの八脚門形式をとる仁王門はさらに古く,鎌倉時代末期に建てられたそうだが,少し離れたところにあり,見逃してしまった。
本堂ごしの黄葉
藁葺屋根の大膳院
境内は紅葉の名所
本堂の裏手はコケに覆われた森になっていた
神宮寺の特別な行事として,お水送りがある。
これは3月2日に遠敷川の鵜瀬淵に行われる送水行事である。奈良の東大寺のお水取り(3月12日)に対応したものであり,鵜瀬淵が東大寺二月堂の下にある若狭井に通ずるという説に基づいている。この行事は延宝3年(1675)から行われているという。
お水送りで送られる香水は神宮寺境内の閼伽井(あかい※)で汲み取られ,遠敷川に流される。
※閼伽:「仏に供える水」の意
閼伽井の覆う建物
水の湧く内部はかなり薄暗かった
折角なので,クルマで鵜瀬淵まで行ってみた。そこは遠敷川が曲流する地点であり,河原に石を敷き詰めてあった。
ここからさらに遠敷川を遡ると,上根来という集落があり,峠を越えて滋賀県の朽木(高島市)に到る。このルートは針畑越と呼ばれて,若狭と京を結ぶ最短経路であった。その道沿いに一宮や大寺が建立されたのは必然であろう。
なお,針畑越は近世以降廃れ,現在は未舗装の狭路が辛うじて通じている。
お水送りが行われる遠敷川の鵜瀬淵
引き返し,広域農道の若狭西街道で東隣の谷に移る。今度の谷は松永川が刻んでいる。
なお,遠敷川と松永川が平野に出て合流する地点の高台には国分寺跡がある。当地が若狭国の中心であったことを窺わせる。
松永川の狭い平地が尽きるところに門前という集落があり,その奥に明通寺がある。
駐車場から石段が続き,その途中に伽藍が配置された高低差のある寺院であった。
明和9年(1772)再建の仁王門
明通寺には坂上田村麻呂に関する伝承があり,創建は平安期とされる。縁起によると,この辺りの大きなユズリハの木の下に老いた居士がおり,坂上田村麻呂がその居士に命ぜられるままに堂宇を創建した。大同元年(806)のことで,そのユズリハの木から三体の仏像を彫って安置したという。
平安時代から鎌倉時代にかけては国衙の祈祷所で,幕府・守護・地頭の帰依を受けた。
本堂は正嘉2年(1258)の棟上げ,文永2年(1265)の落慶。山奥にあるためか750年以上にわたって災禍や兵火に遭うことなく残り,国宝に指定されている。三重塔は文永7年の棟上げで,こちらも国宝指定を受けている。高さは22.26メートル。
入母屋造り,こけら葺きの本堂
本堂の乾いた木の色合い
寺内最奥部に建つ三重塔
灯籠には奉納された小さなダルマが…
本堂はかなりの高みに位置し,山々の紅葉を一望にした
境内の水は驚くほど澄んでいて,池には大きなコイが泳いでいた
国道27号に戻り,若狭町の上中まで東に進んでから国道303号に折れる。いくつもあった鯖街道の中で,現在も幹線道路となっている数少ない道だ。
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