小浜城址と城下町の小浜西組をめぐる
【16.11】山陰と北陸のあいだ―晩秋の丹後若狭
旅行日:平成28年11月(8~)9~11日⑨
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三方湖から国道162号を西へ走り,小浜の街が近づく。三方五湖ではあんなに天気が良かったのに,すっかり曇ってしまった。
街の入り口には幅の狭い橋がいくつも架かっていて,西津橋で北川,城内橋で多田川,大手橋で南川を相次いで渡る。気付かずに通り過ぎてしまったが,城内橋と大手橋の間の下流よりに小浜城址がある。複数の川の河口附近の三角洲に築かれた水城であった。
引き返してもう一度南川を渡り,城址の近くにクルマを停めた。道はかなり狭い。
城の跡は長らく藩主の座にあった酒井氏の初代,忠勝を祀る小浜神社となっている。
若狭国では鎌倉時代に北条時氏(3代執権泰時の子)が守護に任じられて以来,北条氏の得惣領であった。が,幕府が滅亡すると,足利方と旧御家人たちからなる国人たちの争いが生じた。
この争いは応安4年(1371)に野木山の戦い(若狭町)で決着し,丹後国守護一色氏の支配が固まっていく。
しかし,一色氏の支配も長くは続かなかった。永享12年(1440),一色義貫は将軍足利義教から永享の乱に関与した疑いを受け,武田信栄に滅ぼされた。この功によって信栄が若狭国守護に取り立てられた。信栄は安芸国守護武田信繁の子である。
一色氏時代の守護所は西津(現在の小浜市街北部)にあったが,武田氏はこれを小浜に移し,青井山に城を築いた。その後,大永2年(1522),5代元光のときに後瀬山に移した。青井山も後瀬山も市街の南部に位置する山城であった。
永禄11年(1568),越前国の朝倉義景が小浜を攻め,武田元明を一乗谷に拉致した。既に家臣の多くは離反しており,これによって武田氏の支配が終わった。
織田信長と朝倉氏の争いが決定的になると,若狭国は信長の朝倉攻めの拠点となった。信長は若狭国を奪還して丹羽長秀に支配させる一方で,武田旧臣の旧領を安堵して取り立てた。
信長の朝倉氏・浅井氏攻めが済むと,若狭国半国が長秀,もう半国が武田旧臣たちに与えられた。この武田旧臣たちは本能寺の変で明智光秀に加担したため,豊臣秀吉に領地を没収された。
天正15年(1587),丹羽長重(長秀の子)が加賀国松任に移封となると,若狭一国は豊臣五奉行の一人である浅野長政に与えられた。浅野氏は文禄2年(1593)に甲斐国に移封され,代わりに木下勝俊が入ってくる。この時の若狭国の石高は6.2万石で,その後の太閤検地によって8.5万石に改められた。
木下勝俊は関ケ原の戦いで東軍についたが,伏見城の留守を放擲して逃げ出したカドで改易された。代わりに若狭国に入ったのは,近江国大津の京極高次。
京極高次は後瀬山の山城を廃し,河口の水城を築いた。だいぶ前置きが長くなったが,ここでようやくこの城が登場するのだ。
京極氏は室町幕府で四職の一つだった名門である。関ケ原の戦いでははじめ西軍についたものの,直前で寝返り,大津城に籠って毛利氏や立花氏の軍勢と戦った。結果的に城は落ちるのだが,それが関ケ原の戦い当日であったため,ここで足止めを喰らっていた1.5万の軍勢は本戦に加わることができなかった。高次は出家して高野山に入ったが,家康に高く評価され,再び大名となったのだ。
湿地帯に築かれることになった小浜城の普請には多大な労苦があったらしい。発掘調査により,巨大な石を敷き詰めて地盤を整備したことが明らかになっている。そのため,城は高次の子忠高の代になっても完成せず,未完のまま小浜を去ることになる。
寛永11年(1634)に京極忠高は出雲・隠岐二国24万石に加増の上,松江に転封した。それまでに近江国高島郡0.7万石と越前国敦賀郡2.15万石を加増されてはいたが,倍以上への大出世である。出雲国は室町時代に京極氏が守護を務めたゆかりの地であり,大津城での因縁がある毛利氏への押さえとする幕府の思惑もあったとされる。
代わりに入ってきたのは老中酒井忠勝であった。酒井氏は本領11.35万石の他に下野国安蘇・都賀郡の一部(のちに安房国平郡)に1万石を領し,幕末まで若狭国一帯を支配しただけでなく,大坂城代や京都所司代などの重役を務めた。
そろそろ昼食時なので,何か食べるところはないかと小浜漁港に向かった。
港には「御食国若狭おばま 食文化館」という近代的な施設が建っていた。博物館に温浴施設があり,食事も摂れるようだったが,「入浴のついでにどうぞ」という雰囲気だったので避ける。
近くには若狭フィッシャーマンズ・ワーフがあるが,食事店は団体のための貸し切りとかで入れない。市場を覗けば,カニが高値をつけて並んでいる。
結局,小浜駅近くの街中に移動し,「小浜市街の駅」の食事処かねまつに入った。ここは駐車場もあって,街歩きの拠点にもなる。何の魚の海鮮丼だったのかは忘れてしまったが,サバを辛味噌で和えた小鉢などもついていて,美味しかった。
食後は小浜の旧市街地を散策する。
海岸と山に挟まれた細長い街には,「小浜西組」として重伝建に登録された古い街並みが残る。街の後ろの山が,武田,浅野,木下氏の居城であった後瀬山である。
京極高次は異なる身分が混然とした城下町を整理し,貞享元年(1684)には東・中・西組の三組に分けられた。
西組は小浜城から2キロ弱離れており,国道27号の前身ともいえる丹後街道が貫いている。
古くからの街の特徴で,通りは狭い。
海から八幡神社に続く通りは珍しく広いが,ここは「八幡小路」という町名であった。それにしても,こういう通りは路上駐車が多い。
古い街並みに混じる洋風建築が目を引く。
一つは高鳥歯科医院。木造建築ではあるが,石の模様をしたタイルを貼った擬洋風建築である。
もう一つは明治22年に建てられた白鳥会館である。こちらは薬品販売店の蔵として建てられたもので,漆喰にレンガという変わった取り合わせが特徴的だ。
猟師町・柳町・寺町の3つの町を合わせて三丁町と称される一郭は,かつての茶屋街であった。黒壁やベンガラ塗の連子格子の建物が密集している。今は閑散としていて人の気配にも乏しいが,往時は宵ともなればかなりの賑わいを見せたのだろうか。
小浜城下の町の数は寛永8年に46,東・中・西の三組が分かれた貞享元年に52を数えた。
明治7年に町の整理が断行され,24町に整理された。長くなるが羅列すると,清滝町,津島町,多賀町,鈴鹿町,生玉町,今宮町,塩釜町,玉前町,広峰町,白髭町,春日町,竜田町,住吉町,日吉町,神田町,四宮町,男山町,鹿島町,白鳥町,貴船町,浅間町,大原町,香取町,飛鳥町,青井村である。書き並べてみると,新町名は元の町名とは関連せず,多くが神社にちなんだ命名であることが分かる。明治初期という時代を色濃く投影しているように思える。現在は末尾の「町」を外して小浜を冠し,「小浜清滝」のような町名に変更されている。地元では「清滝区」のように「区」をつけて通称されているようだ。
三丁町は併せて飛鳥町となり,現在は小浜飛鳥。
山裾に敷設されたJR小浜線のガートで丹後街道に突き当り,中心部の方に戻る。街道沿いは商家風の建物が並び,花街は裏通りにあったことを感じさせられる。
丹後街道の南側,後瀬山の麓は寺町になっている。一部の寺は境内を小浜線が横切っている。
常高寺もその一つであったが,現在は踏切が撤去され,地下道になっている。この寺は京極高次の妻で,浅井三姉妹の常高院(お初)の墓所となっている。
まちの駅の近くに戻り,商店街を覗いてみた。シャッターを閉めた店が多いが,魚屋が多いのは地域柄だろうか。
最後に小浜藩の幕末。
幕末には藩主酒井忠義が京都所司代につき,安政の大獄を指揮した。大獄では元小浜藩士であった梅田雲浜が真っ先に捕縛され,獄死している。一方で,和宮の降嫁に貢献し,その功で領地を増やしている。
忠義は領地各所に台場を築いたが,文久2年に所司代を罷免され,蟄居を命ぜられた。
忠義を継いだ忠氏は鳥羽・伏見の戦いには幕府軍として参加したが,薩摩・土佐軍に敗れた。酒井忠義が朝廷に謝罪したことで許され,北陸道鎮撫使の先鋒を務めた。
小浜藩は廃藩置県で小浜県に置き換わったのち,若狭国と越前国敦賀郡かならなる敦賀県に代わった。
明治9年に敦賀県は滋賀県に組み込まれる。近畿地方との関わりが深い若狭国らしいブロック分けだ。しかし,他方で石川県が加賀国・能登国・越中国・越前国(敦賀郡を除く)からなる広域になるなどの問題があったため,明治14年に府県の再編が行われ,ようやく越前国と若狭国からなる福井県に落ち着いた。
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