旅行日:平成28年10月(2~)3~6日③
最初の記事 阿哲・帝釈,カルストをめぐるドライブ(前) 満奇洞と井倉峡前の記事 阿哲・帝釈,カルストをめぐるドライブ(後) 帝釈峡の天然橋と鍾乳洞 山陽旅行第二日目。きょうは倉敷から広島まで進むことになっている。
懸案の颱風は山陰地方へと針路を取り,明日あたり最接近しそうな予報となった。中国山地と四国山地に挟まれた瀬戸内地方は颱風の上陸が少ないという。きょうも曇っていて湿度が高い。
倉敷駅のみどりの窓口で乗車券を購入する。宇部線を遠回りして,丸尾まで。明後日の夜に山口宇部空港から飛び立つまで使うことになる。空港の最寄り駅は草江だが,丸尾は3つ先の運賃が同額の駅である。こうしておけば最後に乗車券が手許に残る。
本日最初の目的地は福山市の鞆の浦。福山駅前からバスが出ている。
朝ラッシュ時であるし,山陽線は本数が多いだろうと踏んでいたが,7:50発が出たところで,8:15発まで列車がない。しかもこれが5分遅れた。直前の貨物列車の影響らしい。
6両編成の福山ゆきはやや混雑していたが,次の西阿知とその次の新倉敷で高校生を中心とした下車が多く,空いた。
笠岡で港をチラリと見ると内陸に入り,岡山県と広島県の県境を越えた。低い丘だったので,並行する国道2号の「広島県」という看板を見なければ気が付かなかっただろう。
新幹線の下に潜り込むように高架に上がり,4分ほど遅れて福山駅の薄暗いホームに到着した。福山駅は2階が在来線,3階が新幹線という構造になっている。城跡に駅を造ったため,手狭なのだろう。その代わり,市街地と駅が近い。
城の石垣の下にある福山駅に福塩線の列車が到着する 構内の蕎麦屋で朝食を摂り,9:30発のバスで鞆の浦へ向かう。福山・鞆の浦間(終点は鞆港)はバス便の頻度が高く,日中でも20分おきとなっている。今の時間帯はさらに多く,前の便から10分しか経っていなかったからか乗客は私一人であった。
鞆へは大正2年から昭和29年まで鉄道が通じており,トモテツバスというバス会社名にその名残がある。
トモテツバスで鞆の浦へ バスは福山市街を抜け,芦田川を渡る。山と川に挟まれた水呑(みのみ)というところで時間調整をし,その間に一人乗った。
ぼんやり霞む海沿いをしばらく走り,終点の一つ手前の,その名も鞆の浦という停留所で下車。福山駅前から丁度30分掛かった。防波堤に上ると,弁天島と仙酔島が間近に見える。
弁天島(手前)と仙酔島(奥) 鞆は『万葉集』に詠まれた古い港町である。弁天島や仙酔島をはじめ,手近なところにいくつかの島が点在する天然の良港で,潮待ち港として繁栄した。海上交通の華やかなりし頃の瀬戸内では,そこが山陽道から離れていようと島であろうと,航路に近くて自然的条件を満たしていれば港町が形成された。しかし,明治に入って船が機械的な動力を持ち,山陽鉄道が開通すると,発展から取り残されてしまった。
こういう港町は鞆の他にも室津(たつの市),牛窓(瀬戸内市),上関(柳井市),室積(光市)など数多い。そして,その宿命として古い街並みがよく残っている。
高台に建つ江戸時代末期の商家建築 街並みに調和した昭和13年建築のしまなみ信用金庫鞆支店(旧鞆信用金庫) 港に舫われているのは,漁業用の小舟ばかりだ。
江戸時代なら,商船や参覲交代の大名の舟などが続々と入港し,賑やかだったに違いない。
多数の小舟が舫われた鞆港 クルマの下にネコを見つけた 海に突き出した高台には天暦年間(947~957)創建とされる福禅寺があり,その境内には對(対)潮楼が建つ。
對潮楼は福山藩によって元禄年間(1688~1704)に整備された朝鮮通信使の滞在所,すなわち迎賓館であった。正徳元年(1711),第八回通信使の李邦彦がこの建物の窓枠を額縁に見立てて眺める景色を絶賛し,「日東第一形勝」と評した。日東は日本の別称,形勝は景勝と同義である。
對潮楼の名はその後,延享5年(1748)の第十回通信使正使の洪啓禧に命名された。
往時は石垣の下まで海になっていたようだが,現在は埋め立てられて道路が通っている。脇からは大きなホテルがこちらを見下ろしている。しかし,窓の前に腰を下ろせば余計なものは見えないし,心地よい風が吹き抜けていくのが良い。
福禅寺本堂 對潮楼からの額縁の眺め 「對潮楼」の扁額は洪啓禧の子で書家の洪景海の書 福禅寺前の路地 江戸時代の鞆では産業を奨励した福山藩の施策により,鍛冶業が盛んになった。鞆の鍛冶は中世からのものであるが,江戸時代には武器に替わって,船具や農具が生産された。
鞆は古い港町であるので道が狭く,自動車交通に難がある。特に福山駅前からのバスの大半が折り返す鞆港より先の県道47号が極端に狭い。両側が建て込んでおり,この幅で一方通行ではないのか,と思うほどである。
対策として海辺を埋め立て,架橋してバイパス道路を建設する計画があったが,実利と景観保護の面から賛否が分かれ,結局山側にトンネルを掘ることに決まった。
擦れ違いに難ある狭隘な県道 県道に面したモダンな商業施設らしき建物 狭い県道から逃れるように港に出る。小さな家々が軒を連ねている中,敷地が広く大きな太田家は目立つ。重要文化財に指定されたかつての酒造で,見学できるようになっているのだが,火曜日は休館。やむを得ず外観を眺めるにとどめる。
狭い街で豪壮さ際立つ太田家住宅 住まいの裏手には白壁の蔵があった 港には街を象徴する大きな常夜灯がある。現地では灯籠塔(とうろどう)と呼ばれる石造りの灯籠は,銘によれば安政6年(1859)の建立となっている。
港は荷の積み下ろしのために階段状の雁木が整備されており,灯籠と同じ色の石材が使用されている。
目の前には太田家の蔵の一つを利用した「いろは丸展示館」があり,これはきょうも営業しているが,私は特定の歴史上の人物が好きということがないので入らない。
一応説明しておくと,和歌山藩の明光丸と海援隊が大洲藩から借り受けていたいろは丸が衝突したのは,慶応3年(1867)に備中国笠岡沖でのことであった。損傷したいろは丸は,鞆へ回航される途中で沈没し,その補償交渉がこの地で行われた。
鞆の浦の景観を象徴する石灯籠の常夜灯 港の雁木と太田家の蔵 鞆は室町幕府にゆかりが深い。
建武3年(1936),足利尊氏が京での戦いに敗れて九州に向かう際,鞆で光厳上皇の院宣を受取った。九州で勢力を取り戻したのちはこの鞆の地で軍を終結させ,海陸分かれて上京し,室町幕府を開いた。
一方,最後の将軍となった足利義昭が織田信長に京を追われたときには,毛利氏を頼って鞆に落ちのびた。天正4年(1576)から帰京する同16年までの間に鞆,津之郷,深津(いずれも福山市)に住まった。帰京後は勢力を取り戻すことなく,豊臣秀吉の元で山城国槙島に1万石を与えられた。
海から離れて山の手の方に歩けば,寺社が並んでいる。南禅坊は山門と本堂が重文指定を受けているが,参詣はできなかった。
南禅坊の山門 山門の下から本堂を覗きこむ さらに進むと,広い境内を持つ沼名前(ぬまなくま)神社がある。
沼名前神社は明治8年(1875)に祇園社とその境内にあった渡守社が合併して成立した。しかし,社名は『延喜式』の「神名帳」(延長5年/927年)に記載があり,その名を復古したものである。元の神社があったのは沼隈郡のどこかなのだろうが,位置は明らかになっていない。
境内には伏見城から移設された能舞台が現存する。かなり大きなものだが,移動式となっており,各部材に番号が振られている。
沼名前神社 境内の移動式能舞台 最後に安国寺に立ち寄る。安国寺は文永年間(1264~75)に建立され,もとは金宝寺といった。南北朝期以降は衰微していったが,毛利氏の外交僧であった安国寺恵瓊が寺持を兼ねたことにより,再興した。
寺町の路地の奥が安国寺 鞆は小さな街だが,一巡するのに1時間半近くを要し,鞆の浦バス停から福山駅前ゆきのバスに乗ったときには11:20になっていた。
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