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対馬への旅(3) 宗氏の憂鬱(厳原を散策する -後編-)

旅行日:平成27年10月5~8日・中③
前の記事 対馬への旅(2) 宗氏の憂鬱(厳原を散策する ‐前編-)
 借りたばかりのレンタカーを置き去りにし,厳原散策は続く。
 次に訪れたのは,清水山城下の国道に面した八幡宮神社。こんもりした杜の中に4つの社がある。
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 八幡宮神社は下津八幡宮とも称され,旧峰町の上津八幡宮(海神神社)と対応する。両者とも宗氏から篤く崇敬された。
 祭神は神功皇后など五柱。神功皇后は三韓(辰韓,馬韓,弁韓)に出兵し,これを平定したとされるが,その帰途に清水山に立ち寄り,この山は神霊の留まるところであると宣託したことが由緒であるという。
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 境内の小さな宮は小西マリアを祀る今宮若宮神社。マリアは洗礼名で,本名は妙。小西行長の娘で,天正18年(1890)に宗義智に嫁いだ。
 文禄の役では,義智は行長とともに第一軍を率いて釜山に渡り,漢城(ソウル)を経て平壌に侵攻した。義智は秀吉から兵5,000人を集めるよう命じられたが,当時の人口が2万にも満たなかったとされる対馬では,実際には命令の半分程度しか集められなかった。そうは言っても,兵以外にも水夫や通詞(通訳)の賦役が課され,男は根こそぎ動員されたと考えられている。

 関ケ原の戦いでは,宗氏は行長との関係もあって西軍に与した。義智自身は美濃国での戦闘に参加していないが,家臣の柳川景直が石田三成について出陣している。このことは後に黒田長政から家康に伝えられるのであるが,「人質に取られていただけ」という申し開きが認められ,お咎めなしとなった。
 一方,行長は捕えられて処刑され,その子であるマリアは翌慶長6年(1601)に義智から離縁され,5年後に長崎で歿した。この神社は元和5年(1619)に創建された。霊を慰めると言えば聞こえが良いが,崇りを恐れたためだという。
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 杜の中から,石燈籠を並べた境内を見下ろす。
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 新城の桟原城は厳原の平野の最奥部にあって,その手前は武家屋敷で固めている。駐車場を造るために途切れ途切れになってはいるが,邸宅を覆い隠さんばかりの石垣が立派だ。
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 街中には火切り石垣と呼ばれる防火壁もある。類焼防止を目的としているため,ひときわ高く,路からは窺い知れないが幅も広く造られているという。限られた平地に家々がひしめく厳原らしい遺構だ。
 火切り石垣は幕末に町人の桜井一右衛門が建議し,厳原の要所要所に築かれたが,現在では宮谷地区に僅かに残るに過ぎない。
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 もう少し街をぶらついた後,クルマを停めた商業施設に戻る。既に開いた店が多く,私はここで「しまとく通貨」を二組購入しておく。「しまとく通貨」は長崎県の壱岐・対馬・五島列島・高島で利用できるプレミアつき商品券で,6,000円分を5,000円で購入できる。今夜の宿とガソリン代で10,000円は超えるから,もし余ったら土産を買うのに充てればいい。

 クルマに戻り,厳原市街の西の山間に位置する万松院を訪れる。
 商業施設の駐車場は90分以上が有料ということになっていたが,料金は僅か50円であった。平地に乏しい厳原であるから,入出庫を管理しておかないと自家用駐車場として使用されてしまうのかもしれない。
 万松院は宗家の菩提寺である。義智が歿した元和元年に墓所が造られ,寺が建立された。
 仁王を配した当時の山門が残る。
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 秀吉の死によって慶長の役は終結したものの,最前線の兵站基地となった対馬の疲弊は甚だしかった。何より,朝鮮との交易という財政基盤を失ったのは大きかった。五大老から肥前国田代領(佐賀県鳥栖市附近)約1万石を与えられ,急場を凌いだが,この豊饒の地は江戸時代を通じて対馬藩を大いに支えた。

 前述のように,義智の所領安堵によって江戸幕府下の対馬藩が誕生する。焼畑がメインの対馬では検地がなされず,公式な石高は存在しなかったが,島内の石高はせいぜい2万石程度であった。これに田代領,その後加増された筑前国伊都郡と肥前国松浦郡の各一部,下野国2郡の各一部を加えても計5万石程度であったが,“幕府のオフィシャル大名カタログ”とでもいうべき『武鑑』には「10万石以上格」と記された。

 対馬藩としては朝鮮,徳川幕府としては明国との国交恢復が急務であった。家康が宗氏や島津氏を取り潰さなかったのは,朝鮮や琉球を介して明国との交渉を行わせるためだともいわれている。

 宗義智は秀吉の死後すぐに和平工作を開始した。派遣した使者は朝鮮に駐屯する明軍に捕らわれて殺害され,前の使者が戻らなくても次の使者を送る状況だったという。役で拉致してきた朝鮮人を送還(もちろん,交渉の材料とするために送還したのだが…)した使者も殺害,捕縛された。
 義智の粘り強い努力により,慶長9年に朝鮮王朝の使節として松雲大師が来島する。日本側に謝罪の意志があるのなら,講和成立後に貿易を許可することをチラつかせ,家康の真意を探るためであった。
 義智の斡旋で翌慶長10年に伏見城にて家康と松雲大師の会談が実現し,再侵略の意志がないことが伝えられた。朝鮮側からは捕虜の返還が強く求められ,この際に1,000人以上が送還されたという。

 本堂は明治13年(1890)の再建。徳川家に格別の恩顧があるということで,歴代将軍の位牌を安置している。
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 山門脇から長い石段が延びる。ここも緑が濃密で,厳粛な雰囲気だ。参拝者はおらず,閑かであった。
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 万松院は日本三大墓所の一つともいわれており,歴代藩主やその夫人,家族など多くの五輪塔が建っていた。
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 松雲大師の帰国後,朝鮮では対日外交方針が議論され,戦中に王陵をあばいた犯人を引き渡すことと日本側から国書を出すことを条件に挙げた。
 慶長11年,朝鮮の全継信は対馬で家康の国書の写しと称するものを見せられ,内容が不遜であるとして改めるよう要求した。
 その後,王領をあばいた犯人も朝鮮側に引き渡され,家康の国書も届けられた。が,犯人と称する青年は若過ぎ,国書も全氏が指摘をしてからやけに早く届いたことから対馬による偽造であることが判明し,いずれもニセモノであることが露呈した。しかし,朝鮮側も日本との交渉を進める意志があったようで,犯人がニセモノであることは民衆に知らされずに処刑された。朝鮮としては明国軍の駐留が負担になっており,朝鮮半島の付け根ではのちに清国を建てる女真(後金)が勢力を拡大させていたため,南方の憂いを取り除いておく必要があった。

 慶長12年早春,朝鮮の使節団が漢城を発った。500人規模のこの大使節団は,通信使とは言わずに「回答兼刷還使」と称する。この時点ではまだ「(よしみ)を(かわ)す」段階まではいっていなかったのである。
 使節団は対馬府中から瀬戸内,大坂,京を経て江戸に入った。江戸城で新将軍の秀忠,帰路の駿府で隠居の身となっていた家康との会談が行われ,講和が成立した。
 回答兼刷還使が携えてきた朝鮮国王の国書は,その道中で対馬府中藩によってすり替えられていた。つまり,家康から朝鮮国王への国書も,その返信も対馬による偽造だったのである。
 秀忠から「今後の交渉は対馬に任せる」という国書が朝鮮国王に届けられ,慶長14年には藩と朝鮮の間で送使約条(己酉約条)が交わされた。こうして対馬府中藩は再び朝鮮との交易を握ることとなった。

 江戸時代の藩主の立派な墓と較べると,義智の墓は小さかった。鬱蒼とした森の中で,薄暗い。
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 対馬での国書偽造・改竄は元和3年(1617),寛永元年(1624)にも繰り返された。
 元和元年に義智が歿すると,家督を継いだ義成と重臣の柳川家の間で御家騒動が生じた。柳川家は2,000石を領し,対朝鮮の外交交渉の実務を執った藩内でもずば抜けた家臣であった。柳川調信は慶長10年に歿し,調興に代変わりしていたが,義智の死によって調興は宗家の実権を侵すほどになった。そして,寛永8年にはついに義成に対して知行の返上を申し上げた。柳川家の領地の一部は徳川家から与えられたものであったので,自家に留め置かれるべきだと主張した。すなわち宗家から独立して旗本(大名は所領1万石以上)になろうとしたのである。

 これに対し,義成は「調興は不忠である」,調興は「義成が幕府に無断で国使節を朝鮮に送った」と幕府に訴え出た。
 家光のもと諸大名臨席の上で双方が対決したのであるが,この過程で藩による国書偽装の件が幕府の知るところとなった。
 宗氏不利と思われる状況になったが,家光の裁断は宗氏不問,柳川氏津軽藩へ流罪であった。もはやどちらが悪いかということよりも,今後も朝鮮との外交を宗氏によって円滑に進めることが重視されたのである。

 万松院には朝鮮国王から贈られた三具足が伝わっている。三具足とは香炉,燭台,花立てからなる仏具である。
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 行程の上では少し話が戻るのだが,厳原の街中では,武家屋敷でも防火壁でもない石塀が続く光景も見られる。
 これらの石垣は江戸時代初期から築かれ,徐々に数を増やしていった。特に文化8年(1811)の朝鮮通信使来島に備え,よく整備されたという。通信使に威厳を誇示するためとも,目隠しにするためともいわれている。
 対馬を目的とした訳官使は江戸期を通じて50回ほど来島したが,文化8年は本来江戸に赴く通信使を対馬で迎えることとなった。天明の飢饉以来,日本国内情勢が好ましくない状態となったため,簡素化を目的に対馬で儀式を執り行ったのである。
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 きょうはクルマで北上するのだが,厳原の少し南の久田浦に一つ見ておきたいものがある。
 厳原から久田へは最近新道が開通したらしく,海上に橋を架けたり,磯を埋め立てたりした立派な道を辿れば,数分で着く。旧道は海岸地形に従順で,見るからに狭そうであった。

 新道は久田浦に2つの橋を架けて越えているが,間には石積みの防波堤が延びてきている。
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 近くにクルマを停め,橋を歩いて行く。防波堤の付け根から水路が続いている。両岸に石垣が築かれ,いかにも人の手が加わっていることを窺わせる。
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 久田は室町時代から造船が行われていたところで,この水路の奥には船着場があった。
 船着場は寛文3年(1663)に完成したとされ,対馬藩の公用船を収容する場であった。御船江と呼ばれている。
 いまは干潮で水路の底が透けているが,潮が満ちれば当時の大型船が入渠できたそうだ。
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 まだまだ見るべきところはあるが,厳原はこの辺で切り上げることにする。石垣だらけの街であった。
 次回は対馬上島を目指す。
次の記事 対馬への旅(4) 島分かつ海―浅茅湾
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