旅行日:平成27年7月8~11日③
最初の記事 夏の北海道2015(1) 支笏湖,恵庭渓谷,さっぽろ湖前の記事 夏の北海道2015(2) 日本海オロロンライン南部 夏の北海道2015,第二日目。札幌から日本海オロロンラインを北上し,苫前町から羽幌町に入りました。
羽幌は留萌と稚内の間で一番大きな街です。炭礦が栄えた頃には人口4万に達しましたが,閉山や過疎化によって約7,500人にまで減少しています。それでも街の中心部には建物が寄り集まり,折りしも行われていた祭りに多くの人が集まっていました。
羽幌ではオロロンラインから少し外れて訪れたい場所があります。それは町の盛衰に大きく関わってきた羽幌炭礦跡です。
羽幌市街から5キロほど進むと,築別という集落に到ります。築別川の河口に位置し,かつてここにあった国鉄築別駅からは川に沿うように延びる羽幌炭礦鉄道が分岐していました。
同じように築別川の奥に入る道道356号を折れると,延々一直線の道。その両側に広がるのは麦畑かと思いきや水田でした。築別平野は留萌管内随一の稲作地帯なのだそうです。
平野が細くなると,築別川に架かる羽幌炭礦鉄道の橋梁を発見。廃線から45年が経過していますが,撤去されずに残っているようです。
こちらは別の橋梁。形状が揃っておらず,ちぐはぐな印象を受けます。
留萠で留萠線(「萠」から「萌」への改称は平成9年)から分岐する羽幌線は昭和2年から順次延伸し,昭和7年に羽幌,16年12月9日に築別に達しました。これより北へ延びるのは戦後のことですが,築別延伸の5日後に羽幌炭礦鉄道が開業しました。
石炭増産という国策に則って開通が急がれたものの,橋梁の金属が足りず,各地から中古品が集められたようです。或いは不急不要線から撤去してきたものもあったかも知れません。
手に入ったガーター橋に合わせて橋脚を建てたため,大きさも間隔も揃わないこんな橋になったのです。
川に並行するように農業用の道路が橋梁をくぐっていました。重たい石炭列車が走っていたにしては華奢な印象を受けます。
築別平野は狭まってきたとはいえ,このあたりでも水田が見られました。
この辺りの炭田は苫前炭田と呼ばれ,明治期に発見されました。しかし,運搬の便の悪さから開発が遅れ,ようやく本格的開発計画が具体化したのは昭和14年のことでした。これとて採算性を鑑みたというよりは戦時と云う特殊な状況下のなせる技だったのでしょう。
苫前炭田のうち,築別川上流を開発したのは太陽産業と云う会社でした。この会社は昭和15年に設立され,翌年には羽幌炭礦鉄道に改名しています。同時期にインフラ整備も急速に行われました。先に取り上げた鉄道もその一つ。
曙という集落を左に折れると,森の中に廃墟が点在するようになります。羽幌炭礦のうち,築別礦と呼ばれる地区です。
左右に岐かれてゆく道もあり,その一本を進んでみます。
この建物は旧太陽小学校。昭和16年の開校で,校名は羽幌炭礦の旧称である太陽産業に由来するのでしょう。鉄筋コンクリート造りのこの校舎に建て替えられたのは昭和42年のことで,それからわずか3年で閉山し,翌年に閉校となりました。
閉校から半世紀近くを経てもそれほど荒れていないのは,平成に入るまで町営の「羽幌緑の森」という宿泊施設として再使用されていたため。
太陽小学校の体育館は円形をしていました。一時期流行した円形校舎の流れを汲み,デザイン的には面白いですが,使い勝手はどうだったのでしょうか。
道道を先へ進み,また別の道へ折れてみます。
広場の奥,森の中には炭住(炭礦住宅)が見えています。
近づいてみると,4階建ての団地型集合住宅が数棟並んでいました。辺りには草木が生い茂り,至る所に水溜まりができてぬかるんでいます。
建物よりも高く育ったシラカバなどの樹木が,白い壁に影を落としていました。
戦時下で始まった羽幌炭礦でしたが,産出する石炭は良質で,産炭量は増していきました。昭和36年に年産100万トンを突破しました。
しかし,栄華は長続きせず,昭和40年代に入って炭層が悪化したことなどから経営不振に陥り,昭和45年に閉山となりました。
道道に戻ります。
道の両側は藪になっています。最盛期の航空写真を見ると,ゆったりとした敷地に規則的に炭住が配置され,山際に諸設備が見えます。
昭和50年頃の航空写真になると,殆どの炭住は消え,「緑の村」や先ほどの団地型の炭住を除いては撤去されて空き地になってます。
それからさらに40年が経過し,ここに街があったことが信じられないほど自然に還りつつあります。
築別川に架かる橋の上から。
奥に見える煙突は発電所のもの。この発電所は昭和19年竣工で,容量は1,000キロワットあったそうです。
こちらの朽ちかけた建物は羽幌炭礦鉄道病院の跡。数年前の写真には三角屋根が写っていますが,いつしかそれが失われ,急速に倒壊が進んでいるようです。
道道を戻って,ホッパー跡。道路に面した目立つ場所にあって,羽幌炭礦を象徴する遺構です。ホッパーは貨車に石炭を積載するための施設で,道路との間には羽幌炭礦鉄道の本線が通っていたようです。
壁に取り付けられたままになっている看板の文字は「羽幌鉱業所」でしょうか。
内部には貨車のような車輌が放置されていましたが,はなとやつるぎ君が車輪の形状から鉄道車輌ではないと判断。
建物の上部に開いた穴が石炭を落とすためのもので,おそらく貨車に達する漏斗状の筒が取り付けられていた筈ですが,失われています。
築別礦から道道612号を辿れば,初山別村への近道となりますが,ゲートが閉じていて通行止め。
仕方なく築別まで引き返し,再びオロロンラインを北上しはじめました。まだ日が高いですが,時刻は18時に近づいています。
稚内まで残り約130キロ。
次の記事 夏の北海道2015(4) 日本海オロロンライン北部―利尻富士と夕景
- 関連記事
-
スポンサーサイト
コメントの投稿