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早春の島原半島ドライブ(4) 口之津、小浜温泉、雲仙鉄道の廃線跡(ピーチのセールで長崎県48時間滞在の旅・5)

旅行日:令和4年2月14~16日⑤

最初の記事 ピーチのセールで長崎県48時間滞在の旅(序) 夕暮れ時の千綿駅
前の記事 早春の島原半島ドライブ(3) 雪舞う湯けむりの雲仙温泉

 雲仙温泉から国道389号を南下し、島原半島南端部の口之津に辿り着いた。島原湾の入り口にあたる早崎瀬戸の内側に位置し、三方を山に囲まれた絶好の風待ち港をなしている。港の背後に聳えるのは愛宕山(標高291メートル)だ。
 ちょうど天草の鬼池からのフェリーが入ってきた。国道はこの航路で天草下島に渡り、薩摩長島を経て阿久根市まで続いている。
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 良港である口之津は有馬氏によるポルトガル貿易の拠点であった。永禄6年(1563)にアルメイダ修道士による宣教が始まり、口之津がその中心地となった。同8年頃には口之津の住人約1,200人の大半がキリシタンになっていたという。
 一方、有馬氏の本拠である日野江では宣教活動は行われないなど、貿易のためにキリシタンに寛容だった面もあるそうだ。

 入り江に赤い橋が架かる。道幅が狭いのに、太鼓橋のようにやたらと湾曲していて対向車が確認できなかった。
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 明治期の口之津は石炭の積出港となった。三池炭礦(福岡県・熊本県)の石炭が口之津に運ばれ、長崎を経由して上海や天津に輸出された。長崎を経由していたのは口之津が開港場でなかったためだが、明治11年に長崎税関口之津取締所と三井物産長崎支店口之津出張所が開設された。直接石炭の輸出が行えるようになり、明治39年には石炭輸出量は月間10万トンに達した。
 しかし、明治42年に三池港が完成したため石炭の輸出港としての役割を失い、衰退した。

 役所の建物は現存し、南島原市口之津歴史民俗資料館分館となっている。ただ、新型コロナウイルス感染拡大の影響で休館中であった。

旧長崎税関口之津分署
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海に面した石貼りの別棟
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ドーマー窓を載せた本館部分
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 きのうとルートがかぶってしまうが、国道251号を北上。雲仙市の旧南串山町の国崎半島に足を印す。高台に上がるとたおやかに起伏した丘陵地に畑地が広がっている。地元神奈川県の三浦半島を思い出した。
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 国崎半島は橘湾に突き出した小さな半島だ。クルマで行けるところまで進み、あとは歩いて階段を下ると海辺に出られた。橘湾からはやや強い風が吹いているが、岬に護られた小さな湾は穏やかだ。
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熱帯を思わせる植物が繁茂している
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木蔭のブランコ
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 再び海沿いを走り、小浜温泉へ。公共駐車場の無料と有料の区画が隣接しており、紛らわしい。
 小浜温泉は橘湾から湧く温泉地で、源泉温度は105度に達するという。豊富な高温泉が湧き出しているので、街の到るところから濛々と湯気が上がっている。
 古くは海辺の温泉で、潮が引いたときでないと入浴できなかったそうだが、明治以降は埋め立てが進んで温泉地の開発が行われた。
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海べりからもしきりに湯気が上がる
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 バスターミナルの建物の一角にある「レストラン ニュー小浜」で昼食。昭和レトロなレストランだ。小浜ちゃんぽんにする積もりで入店したのに、メニューのトルコライスに惹かれてしまった。
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トルコライス
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 食後は小浜の散策を続ける。高台に建つ小浜公会堂は昭和9年(1934)の建築。時代を反映してか日本建築の要素が強い擬洋風建築だ。
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 公会堂の裏手の山の手には庄屋の屋敷跡があり、敷地の手前に水が湧いている。「上の川湧水」といい、巨樹の下から湧いているかのように見える。
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庄屋屋敷の石垣と巨樹
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 山の手の住宅地を歩くうち、炭酸泉を見つけた。
 小さな岩風呂のような石積みの中に灰色に濁った水がブクブクと湧いている。その様はグツグツと沸いているようでいかにも熱そうだが、源泉温度は21度とのこと。おそるおそる手をつけてみるとひんやりしていた。高温泉と清らかな湧き水、炭酸泉の鉱泉が近くで湧き出しているのが面白い。
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 小浜温泉の鎮守である小浜神社は平成7年(1995)に高台から温泉街近くに遷座された。
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昭和12年建築の日本旅館春陽館
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 最後に小浜歴史資料館を見学。小浜温泉の有力者であった本多氏の邸宅跡にあたる。門は島原城の城門を本多家が購入・移築したものだ。
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 本多氏は三河国の出身で、島原藩主松平(深溝)忠房に温泉の管理を命じられた。初代の本多親能の長男の家系は小浜村の庄屋を務め、三男の家系は代々「湯太夫」を世襲した。特に9代目の本多西男は私費を投じて埋め立てを行うなど、小浜温泉の近代化に果たした役割が大きい。
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邸内
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 新しく建てられた別棟に入館すると、駅のセットが造られていた。島原鉄道の愛野村(現在の愛野)駅と肥前小浜駅を結んだ雲仙鉄道をモチーフにしたものだ。雲仙鉄道は温泉鉄道(愛野村・千々石間)と小浜地方鉄道(千々石・愛野村間)が合併したもので、このうち小浜地方鉄道は本多家が設立したという点でこの地とゆかりが深いのだ。
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 14時半を過ぎ、そろそろタイムリミット。
 大村市に向けて走り出すが、北野という交差点で国道から県道201号に折れる。この道は全区間で国道の海側を並行しているが、雲仙鉄道の廃線跡を流用している。千々石・肥前小浜(廃止時は雲仙小浜)間は昭和2年の開業であるが、バスに押されて昭和13年に廃止された。鉄道としてはわずか11年しか使用されなかった訳だ。
 単線鉄道を路盤をそのまま転用しているので、掘割、隧道、築堤部分は幅が狭く、対向車の擦れ違いは難しい。特に掘割と隧道は見通しが悪く、対向車が来ないことを祈るしかない。交通量は少なかったが、それは結果論にすぎない。

緩やかにカーブした掘割。ミラーはあまりありがたくない
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築堤
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カーブしたトンネル。北側にだけ「対向車接近」の電光掲示板が設置されていた
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石積みの質感
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短い隧道から掘割に続くストレート
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 千々石で国道に戻り、島原半島の基部を愛野へ。諫早を経て大村へと進んでゆくが、交通量が多くて流れは悪かった。
 空港近くで給油をしてレンタカーを返却。約48時間の走行距離は354.9キロで、平均燃費は約23.08キロ/リットルであった。

 MM354便は乗客が多かった。8、9割くらいの座席が埋まったが、私の列の自分の側だけは空いていた。
 雲を突き抜けると夕暮れの空で、前途には月が輝き始めていた。
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