旅行日:令和3年3月9日③
最初の記事 青春18きっぷでミニトリップ―下野国分寺へサイクリング前の記事 青春18きっぷでミニトリップ―下野薬師寺へサイクリング 宇都宮駅で昼食を済ませた後は、JR日光線に乗ってみる。
この線は小学校の修学旅行の際に団体列車で乗ったきりで、約20年もご無沙汰だ。私は線的な「乗りつぶし」から面的な「旅」に移行する段階で関東近郊のJR線は乗り直し、ほとんど2回以上乗ったので、こういう線区は珍しい。
12:32発の日光ゆきは観光列車の「いろは」であった。電車は東京あたりの通勤用のお下がりながら、車内外を大きく改造し、ドアは2扉、車内はボックス席主体になっている。
宇都宮駅を発車すると、東京方面に向かって宇都宮線と並行し、2キロほどしてようやく分岐して西に針路をとる。このルートは宇都宮から田川に沿って北西に進み、徳次郎(とくじら)、大沢を経て今市に到っていた日光街道とは大きく離れている。宇都宮の街を囲むようなルートだが、最初の駅鶴田までは4.8キロも離れている。
日光線の駅と日光街道の宿場町
鶴田の次は鹿沼だが、ここも駅間距離が長い。実に9.5キロもある。台地上の田園地帯で、人家がめっきり減った。
その鹿沼で下車する。駅前広場にはクスノキ(たぶん…)の巨木が聳えている。
鹿沼は日光例幣使街道の宿場町であるが、日光線の駅は街から約1.5キロ離れた高台に設けられた。
これだけ遠いと、後世に「宿場町が寂れるといって鉄道に反対運動した」などと根も葉もない話が生まれそうな立地だが、これでも精一杯努力したのだろう。第一、地形的制約がある訳ではないのに日光街道沿いに鉄道を敷設しなかったのは、鹿沼に寄るためだだろうし。
新旧地形図にみる鹿沼市街地と鹿沼駅
「
今昔マップ on the web」より。旧版地形図は5万分1図「鹿沼」(昭和6年発行)、「宇都宮」(昭和9年発行)
駅前から延びる長い坂を下り、府中橋で黒川を渡る。
凝灰岩造りの倉庫が栃木県らしい
橋を渡ってもう少し歩くと、例幣使街道に合流する。「遠いぞ」と覚悟していたせいか、案外近く感じられた。
例幣使街道は江戸時代に朝廷から東照宮に幣帛を奉納する例幣使が往来した路で、上野国の中仙道倉賀野宿で分岐し、太田、佐野、栃木、鹿沼を経て今市宿で日光街道に合流していた。
城山(御殿山公園)を背景にした一等地に市役所が建っている。城山には戦国時代に壬生氏の居城である鹿沼城があった。壬生氏は下野宇都宮氏の家臣であったが、小田原北条氏についたため宇都宮氏に城を落とされ、街は兵火を被った。そして、豊臣秀吉の小田原征伐によって所領を失った。
廃城後も長らく縄張りも残っていたそうだが、戦後にグラウンド造成する際に均されてしまった。登ってみたけれど、樹が茂っていて眺望もなし。
城山の麓には今宮神社が鎮座する。
鳥居の脇にはスギの巨木が聳える 今宮神社は天文3年(1534)の創建。壬生綱房が鹿沼城を築城した際に、別の地にあった二荒山神社を遷座し、城の鎮守とした。
四脚門の唐門は嘉永2年(1849)に建立された。
江戸時代建立の拝殿
精緻な彫刻が施された本殿は延宝9年(1681)の建立
高さのある神楽殿
参道に面した下見板張りの小ぶりな建物は、大谷好美館。明治時代の写真館だ。採光のための天窓が、昔の写真館らしい。
そのすぐ近くには駒橋歯科医院診療所のクラシカルな建物も立地する。こちらは大正時代に建てられた。
例幣使街道を北に歩き、街のはずれの方の上材木町へ。江戸時代に建てられた商家建築の福田家が残る。
黒川の近くには旧帝国繊維の石蔵が鹿沼市文化活動交流館として現存する。
明治23年に下野製麻紡績会社として創業し、水力発電を利用するために川べりに立地した。石蔵は大正時代の建築物で、石材は下部に深岩石を、上部に大谷石を使用している。
江戸時代以来、鹿沼市周辺はアサの栽培が盛んで、戦後は厳重な管理の下で栽培されていた。すぐ下には木島用水が流れる。
大谷石の質感に、「麻」のマーク
街の南に歩き、東武の新鹿沼駅へ。「JRの駅は遠い、東武の駅は近い」と思っていたが、新鹿沼駅は街の南に外れに位置しており、それはそれで遠かった。
新鹿沼14:08発の東武日光ゆき電車に乗る。「青春18きっぷの旅」からは少し外れるが、鹿沼駅戻って日光駅を往復するよりも行程に変化が出るだろう。
大きなテーブルをそなえたボックス席が並ぶ長距離用の車輛で、車窓には山間の田園風景が流れてゆく。時々小さな駅に停車する様は、大手私鉄というよりもJRの地方路線に近い。
下今市で鬼怒川線を分かち、日光街道の杉並木を眺めながら登る。短いホームが三角形に配置された終点の東武日光には14:42着。
駅舎は大きなログハウス風
中途半端に時間があるので、大谷川に架かる霧降大橋まで歩いて行った。土砂の供給量が多い河川なので、砂防ダムが段々に築かれている。
男体山をはじめとした日光の諸山は冬の気配を残した重たげな雲に蔽われている。
日光街道の杉並木
JRの日光駅に歩き、日光線の旅に戻る。
日光駅ははクラシカルな駅舎で、大正元年(1912)に建てられた。歴史ある国際観光地だけあって、2階には一等待合室をそなえていた。
シャンデリアを配した館内
ホームから跨線橋に登ると、レールを組んだ古風な橋が見える。貨物や団体列車のための側線を多く持っていた構内は整理され、残ったレールはわずかだ。
日光15:27発の宇都宮ゆきで、再び「いろは」を引き当てた。
車内には観光客と地元客が半々くらい。総数は少なく、ボックス席に座れた。宇都宮に向けて少しずつ客が増える。ぼんやりと50分を過ごし、宇都宮16:08着。
宇都宮16:38発の湘南新宿ライン快速逗子ゆきで帰途に就く。ボックス席から見る暮れゆく空には次第に雲が広がっていった。
そのまま乗り続けても横浜に帰れるが、大宮で先行の上野東京ラインに追いついたので、乗り移った。東京経由の方が近道なので、横浜には6分早く着ける。
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