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【「旅のはなし」の水先案内】

 「旅のはなし」をご覧いただきましてありがとうございます。
 当ブログは、各地への旅行記を掲載しています。その数は約350編、トータル1,000本を超えています!記事数が膨大で、行った順番と投稿する順番が前後することもありますので、以下の各「INDEXページ」もご参照ください。

□地域別旅行記INDEX:北海道 | 東北 | 関東 | 東京神奈川 | 北陸 | 甲信 | 東海 | 関西 | 中国四国 | 九州沖縄

□年次別INDEX令和3年 | 令和2年 | 平成31年/令和元年 | 平成30年 | 平成29年 | 平成28年平成27年平成26年平成25年平成24年|平成23年(準備中)|平成22年平成21年平成20年
※「年次別INDEX」では、各年の旅行記のほか、訪問都道府県の統計、JRの新規乗車路線などもまとめています

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山江村から相良村へ、ツツジ咲く丸岡公園と雨宮神社の杜 (天草と石橋をめぐる熊本県ドライブの記・9)

旅行日:令和5年4月18~20日⑨

最初の記事 阿蘇山を望む俵山展望台と長部田海床路
前の記事 苓北町、陸繋島の富岡城址

 熊本県の旅、第三日目で最終日を迎えた。本日は八代市をスタートして、熊本空港から帰路に就くことになっている。未訪問の内陸部方面に行ってみよう。

 ホテル朝食だったので、8時ごろのスタートとなり、まずは給油。

 八代ICから九州道に入り、人吉ICまで南下する。3年前(令和2年)の水害で並行する国道219号とJR肥薩線が大きな被害を受けて不通のため、通行料が無料となっている。この間、38.5キロもあるのに中間にインターチェンジがない。日本一の長さとのこと。
 序盤は球磨川とその支流に沿い、長さ6,340メートルの長大な肥後トンネルを抜けて山江村に入る。

 人吉ICから九州道沿いに戻るように走り、まずは山江村のツツジの名所だという丸岡公園を訪れる。やたらと道が狭かったが、駐車場は広かった。
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 様々な種類・色のツツジが植えられており、満開のものも多い。その数は実に約5万本という。ライトアップもあり、4月の第三日曜日に「つつじ祭り」も行われるそうだ。
 南側が開けた高台なので、人吉盆地を見下ろし、周りの山々を一望にする。
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可憐な色合いの花
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花の後ろに新緑の山襞が連なる
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青空を背景に
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 帰りは別のルートを下った。こちらは走りやすい2車線道路だったので、往きは変なところを来てしまったようだ。

 山江村は球磨川の支流の万江川が貫流している(田+江で山江)。源流部は肥後峠だが、県道が未開通のため、八代市方面に通り抜けられない。
 清らかな流れに少し付き合う。新緑が輝き、藤の花が彩りを添える。
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河畔の樹木を飾り付けたような藤の花
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 人吉市内に戻り、広域農道を通って相良村へ。川辺川を遡ろう。
 相良大橋の袂からの眺めが良かった。人吉盆地が開けつつあり、田園地帯が広がる。まだ田んぼに水が入っていないのは残念だ。氾濫原の中に巨大な樹のように盛り上がっているのは永江雨宮神社の杜だ。寄ってみよう。
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雨宮神社の杜
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 “樹”の下に来ると、こんもりした小山であることが判る。その上に向かって長い石段が延びている。嘉永5年(1853)に上田広助という人物が私財を投げうって築いたという。藩主の相良長福が士分に取り立てようとしたが断ったという話も残っている。
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いびつな長い石段
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 永江雨宮神社の創建は詳らかではないが、戦国時代に相良為続が雨乞いを行った記録が残っている。相良氏は鎌倉御家人以来の球磨地域の領主で、そのまま戦国大名を経て、江戸時代を通じて人吉藩主であった。相良村の村名は相良氏に由来するが、相良氏は旧領地の遠江国榛原郡相良荘(静岡県牧之原市)の地名を名乗ったものなので、静岡県の地名が熊本県に移ったともいえる。
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 境内の裏手には巨岩が積み重なっており、その隙間を通る「三産くぐり」がある。安産のご利益がある由。
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少し離れて撮影。“トトロの森”の愛称もあるそう
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 国道445号を北へ走る。川辺大橋で川の左岸に移り、田園風景を快走していく。鯉のぼりが風にそよいでいる。通りがかりの郵便屋さんが良いアクセントになった。
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 人吉盆地から続いていた平地が尽きると、峡谷に入ってゆく。

次の記事 

笠ケ岳や北アルプスを望む一之宮盆地と水無神社 (新緑の信濃・飛彈ドライブ旅・4)

旅行日:令和5年5月9~11日④

最初の記事 上田平と北アルプスを望む稲倉の棚田
前の記事 善光寺平と北信の山々を望む三峰山と姨捨駅

 信濃・飛驒の旅、第二日目。下呂温泉の朝は晴れ渡った。昼間は暑くなりそうだ。
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 8時過ぎに出発して給油を済ませ、まずは北を目指す。下呂市周辺はまだ巡ったことがない。

飛彈川を渡る
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 飛彈川右岸の県道88号を北上し、旧萩原町で山之口川の谷に分け入る。山之口からは支流のカジヤ谷だ。集落が尽きると道は一気に狭くなった。

カジヤ谷の新緑
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対岸の石垣積みの集落
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位山峠に挑む険路
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 標高約1,080メートルの位山峠を越えると、少し下ったところに久々野防災ダムがある。堤体から北アルプスを望む眺望の良い場所であった。標高が高いので、風が冷たい。ここから高山市となる。
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左に笠ケ岳、中央に槍ケ岳、右に穂高連峰が見える
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 さらに苅安峠を越える。雪のないゲレンデの下の地味な谷中分水界だが、中央分水嶺の峠だ。
 スラローム状の長い下り坂で一之宮盆地に下る。坂の下の集落に大きなお寺があったので、クルマを停めてみた。
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 この寺は往還寺といい、室町時代中期創建と伝わる。
 山門は寛文10年(1670)に水無神社の仁王門として建立された。安永2年(1773)に水無神社を拠点に大規模な百姓一揆(安永騒動)が起きると、同神社の神仏分離が行われたため、門は当寺に移築された。
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大きな本堂と鯉のぼり
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 そばの集落では冠雪した笠ケ岳の上の空を鯉のぼりが泳ぐ。黄色いのはこの地域の特色だろうか。
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 盆地を流れ下るのは宮川だ。高山の街を経て神通川に通じ、富山湾に注ぐ。笠ケ岳には田植えの季節の到来を報らせる白馬の雪形が出ている。
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 一之宮盆地は整然と区画された水田地帯で、北アルプスの他に乗鞍岳を望む。写真を撮ろうとクルマを停めると、遠くから踏切の鳴る音が聴こえてきて、遠くの山際をJR高山線の特急「ひだ」が下りてきた。宮峠を越えたところで、Ω型にカーブする線形で高度を落としてくる。山岳路線らしいダイナミックな風景だ。
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 一之宮の地名は飛驒国の一ノ宮である水無神社に由来する。この社は盆地が収束する地点の山裾に鎮座している。水害が避けられて、かつ交通の要衝が選ばれたのだろう。
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 水無神社は水無神とも呼ばれる御歳大神を祀る。中央分水嶺に近い場所に位置することから、水無は「水をなす」という意味だろう。創建は詳らかではないが、平安時代前期の文書には登場する。
 鎌倉時代には仏教色が濃くなったが、先述の安永騒動を機に唯一神道となった。
 社殿は廻廊に囲まれており、その内側に伸びたイチョウの葉の新緑が逆光に輝いている。
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本殿
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 一之宮からは南下して下呂方面に向かう。国道41号の宮峠には昨日通った真新しいトンネルがあるが、旧道をチョイス。ダイナミックなカーブを連ねて峠越えに挑む過酷なルートで、幹線道路らしく登坂車線の跡も残っている。そんな道なのにほとんど往来がないのが楽しい。一之宮の街を見下ろす地点もあった。
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 峠を越えて国道に合流し、久々野から飛驒川に沿う。新緑の峡谷の間に小盆地や僅かな河岸段丘が現れ、そういうところに集落が営まれている。
 道の駅「飛騨街道なぎさ」にクルマを停めるとすぐに下りの特急「ひだ」が通過し、すぐに上りの普通列車がやって来た。久々野駅で交換したようだ。高山線の普通列車は本数が非常に少ないからラッキーだ。新緑と雪融け水で増水した飛彈川の取り合わせも佳い。
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次の記事 

苓北町、陸繋島の富岡城址 (天草と石橋をめぐる熊本県ドライブの記・8)

旅行日:令和5年4月18~20日⑧

最初の記事 阿蘇山を望む俵山展望台と長部田海床路
前の記事 天草の二つの教会堂―﨑津天主堂と大江天主堂

 熊本県の旅、第二日目。牛深から天草の西海岸を北上し、天草市の旧天草町まで来た。海岸線まで山地が迫る峻嶮な地形にして風光明媚なところで、天気が良くないのが悔やまれる。
 景勝地である妙見浦からは砂洲で繋がった穴の口岩や妙見岩が見られる。
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 国道といえども未改良区間が残り、対向車に注意しながら慎重に進む。小田床湾を越えるところでは高架橋のバイパスを建設していた。
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見通しが悪く擦れ違いもできないトンネル
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妙見浦北部の烏帽子瀬
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 前方に巨大な煙突が見えてくると苓北町に入る。
 「苓北」という地名は天草の異名「苓州」に由来する。平成の大合併によって天草郡の町村の大部分は天草市と上天草市に集約されたが、苓北町だけは孤塁を守っている。煙突は苓北発電所のものなので、電源立地地域対策交付金とかで財政が豊かなのだろう。

 久しぶりに平野が開け、前方に突兀とした山が近づく。山には砂洲が延びていて、その上に苓北町の中心地である富岡の街がある。
 富岡は天草で唯一の近世城下町であった。住宅地の中に大手門の石垣が残る。三方を海で囲まれた城なので、砂洲をふさげば陸側からの攻撃はシャットダウンできた訳だ。
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 戦国時代末期の天草は宇土城の小西行長領に含まれた。行長は関ケ原の戦いで改易となり、天草郡は加藤清正領となる。しかし、清正は東九州に通じる豊後3郡との替地を望んだため、肥前国唐津城の寺沢広高の飛び地となった。
 そして広高は慶長9年(1604)にこの地に新城を築いた。
 富岡城の威容は富岡港から見上げると際立つ。
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 富岡城はいくつもの山からなり、南側の孤立丘の上に城郭が築かれた。その丘の麓には長い築堤が築かれて石垣と塀で防禦を固め、袋池が澱んだ水を湛えている。
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袋池と山上の城郭群
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富岡城址の地形
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 袋池の築堤を通って城山の裏手に回ると登り道があり、石垣の下までクルマで行ける。道順がやや判りづらかった。

 平地の乏しい天草郡において、江戸時代初期の石高は2万石程度と推定されるが、寺沢広高は約4.2万石と定めた。
 一方、徳川幕府の禁教令により、キリシタン弾圧が強化され、宣教師の追放と信徒の転宗が強化された。寛永11年(1634)頃から天候不順による飢饉が続き、過大な石高に基づく年貢の収奪が人々を苦しめ、最後の審判を予言する書が流布された。同14年に島原半島で農民が蜂起すると、天草でもこれに呼応して立ち上がった。蜂起したのは農民に限らず、旧領主小西行長の牢人も多かったという。
 天草の一揆勢は富岡城を包囲したが、落城させるには至らず、渡海して島原の原城に立て籠もった。原城にいた3.7万の農民のうち約半数が天草郡の住民とされる。

 富岡城址には石垣が多く残されているが、表に出ているのは島原・天草の乱後に補強されたものだという。
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発掘調査で山崎家治時代の石垣の奥から寺沢広高時代のものが見つかった場所
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 島原・天草の乱ののち、寺沢堅高は天草領を没収され、寛永15年に備中国成羽(岡山県高梁市)から山崎家治が入部した。家治は富岡城を修復し、異国への防備も固めている、幕府はこの時代にポルトガルとの関係を断った。家治は3年後に讃岐国丸亀(香川県丸亀市)に移封となり、幕府直轄領となって代官に鈴木重成が任じられた。重成は苛税の負担を和らげるために江戸に出府して石高の半減を求めたが認められず、自邸で割腹自殺を図った。それから6年後、天草郡の石高は2.1万石となった。
 乱後、天草郡の人口は1.6万人に半減し、亡所となった村も多かった。
 しかし、その後の移民政策もあり、約150年で人口は10倍近くまで増加した。新田開発が進められ、島外への出稼ぎも盛んに行われたが、百姓一揆が頻発した。

 二ノ丸には二躰の像が建つ。片方が鈴木重成で、もう片方がその兄・正三のものだ。仏門に入っていた正三は重成に乞われて天草に入り、荒廃した寺社の再興と人心の安定に力を尽くした。
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今は草地となっている二ノ丸
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二ノ丸から本丸に続く石垣群
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 寛文4年(1664)に戸田忠昌が入ったが、6年で武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市)に転封となり、天草は永久に直轄領たるべきと進言した。富岡城の本丸、二ノ丸は破却され、三ノ丸に陣屋が置かれた。
 明治維新後、旧幕府領は富岡県となり天草県への改称を経て長崎府(長崎県)、八代県と移り変わり、白川県(すぐに熊本県に改称)に属した。富岡に置かれた天草支庁は明治6年に町山口村(→本渡町)に移った。

本丸大手門の遺構
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 本丸は櫓のカタチをしたビジターセンターなどになっているが、ちょうど休館日であった。
 高台ゆえに眺望はよく、陸繋砂洲の様子や港町が一望にできた。富岡湾に延びた砂洲の曲崎も地形的に面白い。
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袋池と陸繋砂洲、霞む苓北発電所
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特徴的な地形の曲崎
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 富岡を離れ、再び天草市に入る。今度は旧五和町だ。橋で繋がる通詞島はドルフィンウォッチングの名所だという。

 この辺りが島原湾の入り口にあたる早崎瀬戸で、対岸が霞んで見える。
 一番近いのは口之津の瀬詰崎で、その距離は約4.5キロ。昨年の2月に反対側から天草の陸影を眺めたことを思い出す。
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霞んでいるとはいえこの近さ
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 口之津からのフェリーが入る鬼池を過ぎると南下コースとなり、旧本渡市に戻る。夕方になり交通量が増えてきた。
 朝は天草瀬戸大橋を渡ったので、今度は天草未来大橋で本渡瀬戸を渡る。「熊本天草幹線道路」の一部で、橋とその前後区間が開通している。海峡を渡るというよりは臨海道路の趣きであった。

 天草上島に戻り、海沿いをゆく。本渡と三角を結ぶメインルートなので交通量が多く、ペースも速い。
 上津浦ICから北は松島有明道路が開通しており、大半のクルマはそちらに流れていった。インターのすぐそばにある道の駅「有明」で休息。
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 倉江川を渡って上天草市(旧松島町)に入ると国道だけは内陸に入り、松の本峠を越えて合津に下る。国道266号に合流して天草上島も一周完了だ。
 往きは天門橋を渡ったので帰りは天城橋を渡る。走りやすいけれど、自動車専用道路ではクルマを停めて橋を眺めたりできないので、楽しさは減殺される。
 三角から宇土半島の南側を辿る。陽は暮れ、JR三角駅はライトアップされていた。
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 宵闇が迫る中、八代海に沿って走って松橋へ。県道338号で干拓地を南下してゆく。走りやすい道だが、橋が太鼓橋のようになっているのと、少ない信号にやたらと引っ掛かった。
 八代市街に入り、八代デルタを形成する球磨川支流の前川沿いのホテルに投宿。

次の記事 

善光寺平と北信の山々を望む三峰山と姨捨駅 (新緑の信濃・飛彈ドライブ旅・3)

旅行日:令和5年5月9~11日③

最初の記事 上田平と北アルプスを望む稲倉の棚田
前の記事 青木村タチアカネの蕎麦と大法寺・国宝の三重塔

 信濃・飛彈の旅、第一日目。長野県道12号で修那羅峠を越え、青木村から筑北村に入った。坂井地区を抜け、JRの踏切を渡って長野道の高架をくぐると麻績村に入る。

 麻績村の中心地は「麻」だ。「お」と読む一字一音で、ローマ字でも「O」だ。そう書くと「村とX村(X村)が合併したため」と続くのがこのブログの常套句になりつつあるが、「麻績」の地名は鎌倉時代には見える古いものだ。古い街並みが残っていたが、クルマを停められなかった。

 少し引き返し、山裾の神明宮に参詣。水を張った田んぼが社殿を映している。
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 麻績の神明宮は平安時代の末期に伊勢神宮を勧請して創建された。この時代に麻績郷が伊勢神宮領となったことと深く関わっている。なお、麻績郷は筑摩郡(明治以降は東筑摩郡)だが、『倭名類聚抄』では更級郡の項に記されている。
 拝殿は天保10年(1839)の建立で、本殿とともに重要文化財指定を受けている。裏手の本殿は神明造で、棟札から貞享元年(1684)の建立と判明している。
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 境内の舞台、神楽殿も重文指定を受けている。
 舞台は天明3年(1783)の建立で、農村舞台としては初期のものにあたるという。天明と云えば数年にわたって飢饉が続いた時代だが、そんな時期にこれほどのものを築いたとは。
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元禄11年(1698)建立の神楽殿
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 国道403号で山にかかり、標高900メートル超えると平坦になって湖が現れた。農業用貯水池の聖湖だ。
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 湖の東には三峰山が聳え、北面がスキー場となっている。標高1,131メートルの頂上に展望台があり、20分ほどで登れると書いてあったので、行ってみることにした。ちょっとした登山だ。
 展望台らしい建物には入れなかったが、木々が生い茂った南側以外の眺望は見事であった。
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善光寺平を見はるかす
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唐松岳(左)と白馬三山(中央、白馬鑓ケ岳・杓子岳・白馬岳)
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妙高山と黒姫山
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花木ごしに望む四阿山
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 聖湖は峠の手前に位置しているが、南側に用水を供給している。湖畔の猿ケ馬場峠からは急な下り坂となった。そのまま姨捨SICで長野道に入る積もりだったが、案内板に誘われるように姨捨駅に寄り道。
 クルマを停めて駅舎に入ると、普通列車が到着した。長野ゆきの下り列車だ。対向の特急列車を待つという。
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 姨捨駅はスイッチバック式となっており、本線から引き出された線路上にホームがある。そのホームからの眺望が良い。先ほどの三峰山には負けるが、駅から見える景色としては抜群に良い。
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線路終端をまじまじと見るのは初めて
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 しばらくすると踏切の鳴る音が聴こえ、ホーム下の線路を名古屋ゆきの特急「しなの18号」が駆け登ってきた。
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 姨捨山は「田毎の月」で知られる棚田が広がる地だが、駅からは少し離れている。まだ水を張っている途中に見えた。すべてに水が入って、かつ田植え前という絶妙な時季を図るのは難しそうだ。
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 そして長野ゆきが発車。車掌が前方を確認しながら、尾灯を点した列車が走り出すのが面白い。一旦引上線に入るとすぐに下っていった。

 時刻は15時半になるところ。今夜は下呂温泉の宿を予約し、夕食もつけてしまったので、19時には着かねばならない。
 姨捨SICから長野道を南下し、松本ICで流出。最速ルートは中津川IC(飯田山本ICで入り直せばそこまでは「信州めぐりフリーパス」が利用可)から国道256・257号だろうが、明日のルートと重なるので、安房峠を越える。

 松本ICから波田辺りまでは流れが悪かったが、梓川の谷に入るとスムーズ。梓川はやや増水し、迫力のある流れとなっていた。
 安房峠道路の長いトンネルで岐阜県に入り、さらに新平湯トンネルを抜け、高山まで長い下り坂。市街は避けて丹生川町の町方から南下し、国道41号に出て宮峠をトンネルでくぐり抜け、飛驒川沿いを下り、18:50に宿に着いた。

 初日の走行距離は459.1キロであった。

次の記事 笠ケ岳や北アルプスを望む一之宮盆地と水無神社

Appendix

プロフィール

さがみぃ

Author:さがみぃ
中の人は相州生まれの相州育ち。アラサー。
地理・地図好きの筆者が、街を歩いたり、ドライブしたり、列車に乗ったり、山に登ったりしたことを書いていきます。大体3日おきに更新中。

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