旅行日:令和5年4月18~20日⑧
最初の記事 阿蘇山を望む俵山展望台と長部田海床路前の記事 天草の二つの教会堂―﨑津天主堂と大江天主堂 熊本県の旅、第二日目。牛深から天草の西海岸を北上し、天草市の旧天草町まで来た。海岸線まで山地が迫る峻嶮な地形にして風光明媚なところで、天気が良くないのが悔やまれる。
景勝地である妙見浦からは砂洲で繋がった穴の口岩や妙見岩が見られる。

国道といえども未改良区間が残り、対向車に注意しながら慎重に進む。小田床湾を越えるところでは高架橋のバイパスを建設していた。

見通しが悪く擦れ違いもできないトンネル

妙見浦北部の烏帽子瀬

前方に巨大な煙突が見えてくると苓北町に入る。
「苓北」という地名は天草の異名「苓州」に由来する。平成の大合併によって天草郡の町村の大部分は天草市と上天草市に集約されたが、苓北町だけは孤塁を守っている。煙突は苓北発電所のものなので、電源立地地域対策交付金とかで財政が豊かなのだろう。
久しぶりに平野が開け、前方に突兀とした山が近づく。山には砂洲が延びていて、その上に苓北町の中心地である富岡の街がある。
富岡は天草で唯一の近世城下町であった。住宅地の中に大手門の石垣が残る。三方を海で囲まれた城なので、砂洲をふさげば陸側からの攻撃はシャットダウンできた訳だ。

戦国時代末期の天草は宇土城の小西行長領に含まれた。行長は関ケ原の戦いで改易となり、天草郡は加藤清正領となる。しかし、清正は東九州に通じる豊後3郡との替地を望んだため、肥前国唐津城の寺沢広高の飛び地となった。
そして広高は慶長9年(1604)にこの地に新城を築いた。
富岡城の威容は富岡港から見上げると際立つ。

富岡城はいくつもの山からなり、南側の孤立丘の上に城郭が築かれた。その丘の麓には長い築堤が築かれて石垣と塀で防禦を固め、袋池が澱んだ水を湛えている。

袋池と山上の城郭群

富岡城址の地形

袋池の築堤を通って城山の裏手に回ると登り道があり、石垣の下までクルマで行ける。道順がやや判りづらかった。
平地の乏しい天草郡において、江戸時代初期の石高は2万石程度と推定されるが、寺沢広高は約4.2万石と定めた。
一方、徳川幕府の禁教令により、キリシタン弾圧が強化され、宣教師の追放と信徒の転宗が強化された。寛永11年(1634)頃から天候不順による飢饉が続き、過大な石高に基づく年貢の収奪が人々を苦しめ、最後の審判を予言する書が流布された。同14年に島原半島で農民が蜂起すると、天草でもこれに呼応して立ち上がった。蜂起したのは農民に限らず、旧領主小西行長の牢人も多かったという。
天草の一揆勢は富岡城を包囲したが、落城させるには至らず、渡海して島原の原城に立て籠もった。原城にいた3.7万の農民のうち約半数が天草郡の住民とされる。
富岡城址には石垣が多く残されているが、表に出ているのは島原・天草の乱後に補強されたものだという。

発掘調査で山崎家治時代の石垣の奥から寺沢広高時代のものが見つかった場所

島原・天草の乱ののち、寺沢堅高は天草領を没収され、寛永15年に備中国成羽(岡山県高梁市)から山崎家治が入部した。家治は富岡城を修復し、異国への防備も固めている、幕府はこの時代にポルトガルとの関係を断った。家治は3年後に讃岐国丸亀(香川県丸亀市)に移封となり、幕府直轄領となって代官に鈴木重成が任じられた。重成は苛税の負担を和らげるために江戸に出府して石高の半減を求めたが認められず、自邸で割腹自殺を図った。それから6年後、天草郡の石高は2.1万石となった。
乱後、天草郡の人口は1.6万人に半減し、亡所となった村も多かった。
しかし、その後の移民政策もあり、約150年で人口は10倍近くまで増加した。新田開発が進められ、島外への出稼ぎも盛んに行われたが、百姓一揆が頻発した。
二ノ丸には二躰の像が建つ。片方が鈴木重成で、もう片方がその兄・正三のものだ。仏門に入っていた正三は重成に乞われて天草に入り、荒廃した寺社の再興と人心の安定に力を尽くした。

今は草地となっている二ノ丸

二ノ丸から本丸に続く石垣群

寛文4年(1664)に戸田忠昌が入ったが、6年で武蔵国岩槻(埼玉県さいたま市)に転封となり、天草は永久に直轄領たるべきと進言した。富岡城の本丸、二ノ丸は破却され、三ノ丸に陣屋が置かれた。
明治維新後、旧幕府領は富岡県となり天草県への改称を経て長崎府(長崎県)、八代県と移り変わり、白川県(すぐに熊本県に改称)に属した。富岡に置かれた天草支庁は明治6年に町山口村(→本渡町)に移った。
本丸大手門の遺構

本丸は櫓のカタチをしたビジターセンターなどになっているが、ちょうど休館日であった。
高台ゆえに眺望はよく、陸繋砂洲の様子や港町が一望にできた。富岡湾に延びた砂洲の曲崎も地形的に面白い。

袋池と陸繋砂洲、霞む苓北発電所

特徴的な地形の曲崎

富岡を離れ、再び天草市に入る。今度は旧五和町だ。橋で繋がる通詞島はドルフィンウォッチングの名所だという。
この辺りが島原湾の入り口にあたる早崎瀬戸で、対岸が霞んで見える。
一番近いのは口之津の瀬詰崎で、その距離は約4.5キロ。昨年の2月に反対側から天草の陸影を眺めたことを思い出す。

霞んでいるとはいえこの近さ

口之津からのフェリーが入る鬼池を過ぎると南下コースとなり、旧本渡市に戻る。夕方になり交通量が増えてきた。
朝は天草瀬戸大橋を渡ったので、今度は天草未来大橋で本渡瀬戸を渡る。「熊本天草幹線道路」の一部で、橋とその前後区間が開通している。海峡を渡るというよりは臨海道路の趣きであった。
天草上島に戻り、海沿いをゆく。本渡と三角を結ぶメインルートなので交通量が多く、ペースも速い。
上津浦ICから北は松島有明道路が開通しており、大半のクルマはそちらに流れていった。インターのすぐそばにある道の駅「有明」で休息。

倉江川を渡って上天草市(旧松島町)に入ると国道だけは内陸に入り、松の本峠を越えて合津に下る。国道266号に合流して天草上島も一周完了だ。
往きは天門橋を渡ったので帰りは天城橋を渡る。走りやすいけれど、自動車専用道路ではクルマを停めて橋を眺めたりできないので、楽しさは減殺される。
三角から宇土半島の南側を辿る。陽は暮れ、JR三角駅はライトアップされていた。

宵闇が迫る中、八代海に沿って走って松橋へ。県道338号で干拓地を南下してゆく。走りやすい道だが、橋が太鼓橋のようになっているのと、少ない信号にやたらと引っ掛かった。
八代市街に入り、八代デルタを形成する球磨川支流の前川沿いのホテルに投宿。
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