旅行日:令和5年8月23日③・終
最初の記事 しなの鉄道で北国街道つまみ食い(1) 浅間山の麓の追分宿前の記事 しなの鉄道で北国街道つまみ食い(2) 雷鳴の滋野から田中を経て白鳥神社へ 白鳥神社を過ぎると海野宿に入る。かつては枡形が設けられていたというが、現在では鈎型が判りづらくなっている。

海野宿は古い街並みが残る北国街道の宿場町として知られる。海野宿は隣りの田中宿と合宿(あいしゅく)で、二宿で一つの宿場町という位置づけであった。近代の鉄道は田中宿の海野宿寄りのところに田中駅を設けたので、海野は鉄道が素通りし、古い街並みが残ったのだろう。長野県に7つある国の重伝建の一つだ。
信越線の田中駅、大屋駅と北国街道田中宿、海野宿

「
今昔マップon the web」より。大正4年発行5万分1地形図「上田」
「海野」の地名はきわめて古く、正倉院に収められた奈良時代初期の御物の墨書に「小県郡海野郷」とみえるそうだ。ここから起こった海野氏は平安末期から戦国時代まで当地を領有したが、村上氏や武田氏といった勢力に囲まれ、最後は上野国に逃れた。
中央部に水路が切られているのは各地の古写真で見かけるものだが、その大半は大正時代以降の道路化で埋められてしまった。よくぞ残ったものだと思う。

水路沿いに生長したヤナギの樹

土塀の黄土色の建物は旅籠屋だった建物を用いた海野宿歴史民俗資料館。建築は寛政年間(1789-1801)と200年以上前の建物だ。

卯建をそなえ装飾の役瓦を載せた豪壮な福嶋屋

平入が多い中で妻入りが目立つ「丸屋」

海野宿は寛永2年(1625)の設置で、月の前半は田中宿、後半は海野宿と、半月交代で宿役を勤めた。寛保2年(1742)の千曲川の出水で田中宿と海野宿の半分が流出しため、田中宿の分の勤めも負った。大河たる千曲川を治めるのは大変で、令和元年(2019)の東日本台風の際にもしなの鉄道に架かる跨線橋が損傷し、数日間にわたって鉄道が不通になった。
海野宿の建物は近世のものだけではなく、近代の養蚕を行う建物も混じっていることに特徴がある。大きな屋根やその上に載った煙出し用の「小屋根」は養蚕農家の特徴だ。

家並みを抜けたところに西側の枡形があり、こちらは街路の形状に面影を見せていた。

ここまで来ると、田中駅に戻るよりも一つ長野寄りの大屋駅まで歩き抜けてしまった方が近い。次の列車は14:18発なので、足を速めて歩いた。
辿り着いた大屋駅は建て替え工事中であった。この駅は明治29年に開業した新駅であるが、諏訪郡の養蚕業者が費用を負担した。現代の感覚からすると、諏訪地域の人々が小県地域に駅を造るという話は奇異に映るが、当時は中央線が八王子までしか通じておらず、信越線の田中駅が諏訪地域に最も近い駅であった。
新駅・大屋駅は千曲川に依田川が合流する地点に位置し、依田川を遡れば中仙道の長久保宿に到り、さらに和田峠を越えて諏訪地域に入ることができた。
そんなことを考える余裕もないくらい、列車の発車間際だったのに、肝腎の列車がやって来ない。
しばらく待っても動きがないので、しなの鉄道のホームページを開いてみると、信濃追分・御代田間で信号確認のため、下りの軽井沢・小諸間運転を見合わせているという。
大屋は無人駅でロクに情報も入ってこないので、定刻でやって来た軽井沢ゆきで田中まで逆行する。田中駅は有人駅で情報が得られると思ったからだが、ここの駅員は悠長すぎた。小諸以西は動いているはずだが、小諸から列車が出るのか否かを把握しておらず、次の下りがいつ来るのかが分からない。駅には帰宅の高校生をはじめ数十人の客がいるものの、こちらもさして関心を示さない。
結局、15時すぎに復旧となり、現場近くに足止めされていた長野ゆきが1時間以上の遅れでやって来た。
列車は上田を過ぎ、坂城で下車。

坂城駅の駅員さんは仕事熱心で、私が軽井沢18:05発の最終バスに乗るというと、司令室に確認を取ってくれた。所定なら16:54発の小諸ゆきからの乗り継ぎで軽井沢17:56着だが、おそらく間に合わないだろうとのこと。しかし、1本前の小諸ゆきが軽井沢ゆきに近い時刻となり、小諸で軽井沢ゆきに接続するそうだ。「司令の〇〇という者が申しておりました」とお墨付きも得た。
街の片隅に村上義清の墓所がある。
義清は信濃国北東部を治めた戦国大名で、坂城の西にある葛尾城を本拠とした。武田信玄を二度撃退した実績を持ち、その内の一度は信玄の人生最大の敗北とされる砥石崩れだ。しかし、時勢は武田氏に傾いて家臣の離反も相次いだため、葛尾城を捨てて上杉氏の元に逃れていった。元亀4年(1573)に越後国根知城(新潟県糸魚川市)で歿したため、この墓は江戸時代に分骨されたとされる。

江戸時代の坂木は幕府直轄領や藩領を転々とし、陣屋が置かれた時期もある。駅前の石垣がその遺構らしく、宿場に近いところに駅を設けたことがわかる。
北国街道坂木宿は宿場町全体が大きな鈎型の街路となっており、東西の通が横町(追分宿方)と新町(善光寺方)、南北の通りが大門町と3つのまちから成り立っていた。
横町の間口の広い商家建築

年季の入った白漆喰の米店

駅から真っすぐ延びてきた道に折れると、これが大門通。だらっとした坂道で、坂の上には坂木神社が鎮座している。
壁に「さかた」と記した瓦屋根の建物は名主であった坂田家だ。

同じく大門町の「坂木宿ふるさと歴史館」は昭和4年に春日邸として建てられた豪華な建物だ。大部分は和風建築だが、一部が石貼りの擬洋風となっている。内側は洋間なのだろうか。

全体に調和した石貼り洋風な部分

「森永ミルクキャラメル」の広告が消えかけた旧菓子舗

坂城駅の脇には古い車輛が保存されている。「169系」という形式の電車で、急勾配の碓氷峠で電気機関車と強調運転を行う装備をそなえていた。軽井沢方の2輛は昭和43年、篠ノ井方の1輛は同44年製造で、JRからしなの鉄道に引き継がれたのち、平成25年に廃車となった。信越線、そしてしなの鉄道ゆかりの車輛だといえるだろう。

軽井沢方はライトが大きく、印象が異なる

本当はもう少しゆっくり歩いて、最後は戸倉温泉で汗を流して〆るプランを思い描いていたのだが、先述の信号確認のトラブルで時間がなくなってしまった。
16:52頃に小諸ゆきに乗り込む。久しぶりの上り列車だったようで、車内は大変な混雑であった。
駅ごとに客が降りて、徐々に空いていった。小諸では約束通り軽井沢ゆきの列車が待っていた。しかし、すぐには発車せず、もう一本小諸止まりを待った。私が乗ろうとしていた本来は軽井沢ゆきの列車だ。続行運転のため、こちらはガラガラだった。

無事に18時前に軽井沢駅に着いた。北口に古い駅舎が保存されている。やはりここは涼しい。気温は21度とのことで、この気温の外気に接するのはいつ以来だろうか。

横川駅ゆきの最終バスの客は10人ほど。紅葉シーズンに立席となったこともあるので、空いているのはありがたい。

バスが碓氷バイパスを下る途中で暗くなってきた。陽が短くなってきたことを感じる。横川駅着は18:39。

夕闇迫る横川駅と釜飯のおぎのや

18:50発の信越線で高崎に出て、駅ビルで何かと買い込んでから19:46発の国府津ゆきのグリーン車に乗り込んだ。