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 当ブログはその名の通り,各地の旅行記を掲載しています。まったくもって行った順番には並んでおりませんので,以下の各「INDEXページ」をご参照ください。
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紅葉し始めた金峰山に大弛峠からのぼる(後)

旅行日:平成30年10月9日②

前の記事 紅葉し始めた金峰山に大弛峠からのぼる(前)
 11:20、標高2,599メートルの金峰山山頂に立った。
 山頂附近は花崗岩が散乱しており、少し西側に聳え立つ巨大な五丈岩との間が休憩ポイントとなる。ここからは富士山が望めるはずなのだが、そんなものは見える気配すらなかった。

山頂近くの五丈岩。人と較べるとその大きさが分かる (前編の再掲)
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 丁度昼食時に差し掛かり、休息に適した場所は混みあっていたので、私は五丈岩の裏側に回り込んだ。
 五丈岩はトアという地形にあたる。花崗岩の節理に入り込んだ水が凍結する際、体積が増えて節理を広げる。秋から冬、冬から春にかけて凍結と融解が繰り返されると、やがて節理は割れ目となってゆく。凍結融解作用というヤツで、「水滴岩を穿つ」という言葉があるが、氷はもっと強大な力で岩を砕く。

 この岩、表から見るとブロック状の巨岩の積み重ねだが、裏から眺めると“金峰”という感じがする。登ることもできて、挑戦している人もいたが、そそり立っていて怖いので私は止めておく。

金峰山の金峰たる所以?
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剥がれ落ちた岩が引っ掛かっている
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形が魚っぽかったので、目をつけてみた (雑な仕事)
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西に続く稜線
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 昼食を摂りながら、天候の恢復を期待していたが、ガスは濃くなるばかり。
 だが、そのまま戻るには早いので、金峰山小屋まで周遊することにした。西側の稜線を500メートルほど下りながら進み、東に折り返すような登山道へ。その道を標高を保ちながら進めば金峰山小屋だ。

トアが続く稜線上
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 12:15、再び歩きはじめる。
 300メートルほど進むと、左(南)に分かれる稜線がある。この稜線は荒川と塩川の分水嶺で、山梨県側の自治体は北杜市に変わる。平野部で山梨市から北杜市といえば、笛吹市と甲府市、甲斐市を挟んでいて、例えば中央線の山梨市駅・日野春駅間は37.9キロも離れている。だが、カットしたピザやケーキの先っぽのように、山の上では歩けるほど近いのだ。

ひとときだけ見えた御室川(荒川の支流)の紅葉
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小川山から続く岩峰群。右下に金峰山小屋が見える
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砂洗川の谷。谷や沢沿いは落葉広葉樹が多いのか、線状に紅葉している
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 進んでも進んでもなかなか分岐点に着かず、不安になったが、急な岩場を下りたところで金峰山小屋の標柱を見つけた。標高は約2,470メートルまで下がり、五丈岩が遥か上になった。

ようやく分岐点に辿り着いた
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 分岐点からは針葉樹林を抜ける、歩きやすい道が続いた。ところどころ谷が刻まれているが、金属製の橋が架かっていた。
 金峰山小屋はワイン付きの豪華なディナーで知られる山小屋だ。物資はヘリコプターと歩荷によっているらしく、ペットボトルのミネラルウォーターが1本500円と記してあった。
 建物の中には入らなかったが、別棟になっている清潔なトイレをお借りした。200円をビンに投入。

小屋のすぐそばにある岩峰とケルン
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金峰山小屋
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山頂があんなに上に…
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 小屋から山頂へはほぼ一直線の険しい登りとなる。酸素濃度が低いので、すぐに息が切れる。日光白根山の時にも書いたが、0メートル地点の酸素濃度を100とすると、標高2,500メートルでは75となる。標高の低いところで階段を登るのとは訳が違うのだ。
 再び山頂に立ったのは13:40。もう人気はなく、ガスはさらに濃くなっていた。さあ、大弛峠に戻ろう。

険しい岩場が続く
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再び山頂に到達
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 大弛峠までの道はやけに長く感じられた。往路よりも天気が悪いということもあるし、体力が減っているということもある。予想していた通り、朝日岳手前のスラロームでの登りがキツかった。前を行くおばちゃんグループが道を譲ってくれたりするのだが、そうするともう追いつかれるわけにはいかないので、足取りが早まってペースが乱れる。
 この時間帯に擦れ違う人たちは、金峰山小屋泊まりらしい。「朝日岳まででコースタイムの倍かかっちゃった」と言っていたおばあさん、無事に辿り着けたのだろうか。

朝日岳西側のスラロームにて。振り返っても金峰山は見えない
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ようやく雲を抜けた
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 ちっとも時計を見ずに歩いてきた。大弛峠が近づくにつれて薄暗くなってきて心配になったが、着いてみればまだ15時半前であった。靴を履き替えると、足がぐっと軽くなった。ぬかるみが多かったので、泥だらけだ。

峠に帰着。すっかり空いた駐車場
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★今回のコースタイム★(休憩は適宜)
大弛峠9:23→朝日峠9:55→朝日岳10:25→金峰山山頂11:20→五丈岩11:25/12:15→[小屋への分岐点]12:50→金峰山小屋13:05/13:15→金峰山山頂13:40→朝日岳14:30→朝日峠14:55→大弛峠15:25

 峠道を下る途中、一匹のキツネと出合った。北海道ではキタキツネをよく見るが、本州でホンドギツネを見るのは初めてであった。

川上牧丘林道の紅葉
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 麓のコンビニに寄る道すがら、往路に見つけた古い隧道を見学。場所は甲州市塩山千野の国道411号・フルーツラインの交差点近くだ。
 この隧道は塩山駅から笛吹川沿いに西沢渓谷まで続いていた三塩森林軌道の遺構らしい。通行止めになっていないのが嬉しい。

塩山千野の林鉄隧道
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 こんな時でもないと寄る機会がなさそうなので、上日川ダムのダムカードをもらって帰る。
 国道411号の裂石から県道に折れると、もう薄暗い。狭い道を辿って上日川峠を越える前に陽が暮れた。なんとか“証拠”を残して甲州市(旧大和村)の温泉施設でカードを入手したが、ついでにと思っていた入浴は時間切れ。景色も見られなかったので、また来よう。

 笹子トンネルを抜けて大月に出たが、今回はいつものように甲州街道を進まず、都留市から県道を西へ。上野原市(旧秋山村)の秋山温泉でシメとした。19時過ぎなのに空いていて、のんびりできた。
 ここからは国道413号に抜けるルートもあるが、相模原市内で土砂崩れのため通行止めになっており、国道20号に戻らざるを得なかった。

紅葉し始めた金峰山に大弛峠からのぼる(前)

旅行日:平成30年10月9日①

 9月は雨の日が多くて山に登れなかった。10月になり、高いところから紅葉が始まったようだ。今回は山梨県と長野県の県境に位置する、奥秩父山塊の金峰山に登ることにした。

 5:20に出発し、相模湖ICから勝沼ICまで中央道。郡内地方は曇っていたが、笹子トンネルを抜けると陽が射した。

 金峰山に登るルートとしては、北杜市の瑞牆山荘(標高約1,510メートル)から入るのが一般的だが、私は大弛峠から始めることにした。こちらは山梨市(旧牧丘町)なので、登山口までのアプローチが短くて済む。
 勝沼からは広域農道のフルーツラインを経て、県道219号へ。このルートは道中にコンビニがないので注意が必要だ。交差する国道411号(青梅街道)か140号(雁坂みち)に折れたところにはある。
 道中、牛奥みはらしの丘から奥秩父の山を遠望する。雲がかかっていて、金峰山はその中だ。3時間予報は晴れのマークが並んでいるので、雲が多いのは朝だけだと期待しておく。

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 旧牧丘町の中心部からは琴川に沿って一気に登っていく。県道は琴川ダムまでで、その先は川上牧丘林道となる。道は広くなく、タイトなコーナーも多いが、擦れ違いに難儀するほどでもない。そもそも杣口集落から峠までで擦れ違ったクルマは1台だけだった。
 登るにつれて木々が色づいてきた。

 大弛峠には9:15頃に到達。距離の割りに時間がかかったというのが実感だ。
 20台分くらいの駐車場はほとんど埋まっていたが、1台だけ空いており、幸運だった。駐車場以外だと、未舗装部か本線上に停めることになる。

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 大弛峠スタートのメリットは標高にもあって、ここは2,360メートルに達している。山頂との比高は約240メートルに過ぎない。
 標高が高い分気温は低く、クルマの路温計は9度まで低下していた。トイレを済ませて靴を履き替え、出発だ。

9:23、入山。山頂までは4.2キロの道のり
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 大弛峠から金峰山山頂までは県境の稜線を進む。稜線上には3つのピークがあり、その間の3つの鞍部を越えてゆく。
 序盤の区間は登山道が切り替えられており、古い木の土留めの階段が朽ちていた。

颱風の影響か、倒木が目立つ
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立ち枯れした木々の間から荒川源流部の紅葉を見下ろす
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 最初のピークはあっさりと越え、スタートから30分ほどで朝日峠に到る。戦前の地形図には峠を越える道が描かれているが、現行図では消えている。
 気温は低いが、歩いていると暑い。ウインドブレーカーは脱いだ。

9:55、朝日峠のケルン
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紅葉を透かす淡い陽射し
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 稜線上とはいえ、視界はあまり開けない。地形図ではハイマツ地の記号が描画されているが、実際には針葉樹林帯だった。森の中はコケが繁茂していて、木の根元には小さなキノコが生えている。

コケの森の小さな紅葉
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 朝日岳の東(手前)側では平たい花崗岩を乱雑に積み重ねたような岩場を通過した。
 ようやく視界が開けた。山梨県側は昇仙峡のある荒川上流の谷を見下ろすが、雲のせいで甲府盆地までは見通せない。一方、長野県側は金峰山川の谷ごしに川上村の盆地を望んだ。

岩塊が露出した尾根
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荒川上流部の谷を一望。雲多し
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すっきりと晴れている長野県側
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 10:27、標高2,579メートルの朝日岳に到達。2.2キロを進むのに1時間強を要した。朝日岳は大弛峠と金峰山山頂のほぼ中間地点にあたっているので、もう1時間くらいかかる計算だ。この先進むべき稜線上の見通しが利き、鉄山、金峰山が望まれた。先はまだ長い。

朝日岳から望む鉄山(左)と金峰山(右)
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金峰山山頂の五丈岩を雲が隠す
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 朝日岳からはスラローム状の下りが長く続く。木の幹を手掛かりに、滑らないように慎重に進む。ここは帰りがキツそうだ。標高は2,460メートルほどにまでダウン。稜線歩きもラクではない。

 次のピークとなる鉄山は、登山道が切り替えられて北側を通過するように変わっていた。旧来の道は塞がれ、「鉄山」と記された道標は倒れていた。確かに現行地形図でもそのように描かれている。
 そして、11:10。本当に高木限界を突破し、金峰山から真っ直ぐに延びた尾根上に立つ。

高木限界を突破
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 南側は流れてくる雲に覆われているが、北側は比較的マシだ。長く連なる稜線のすぐ北側に見えているのは、岩峰がいくつも聳え立った瑞牆山。峩々としていて、仙人がいるか、あるいは万病を治す薬草でも生えていそうだ。
 ここを過ぎれば、もう山頂までは遮るもののない道だ。風が強いときに歩くのは大変そうだが、いまはほぼ無風だ。

岩峰の聳える瑞牆山
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金峰山山頂への尾根
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 再び花崗岩の岩塊を乗り越え、11:28に山頂に到達。大弛峠の案内板では往路のコースタイムが2時間半(復路は2時間)となっていたので、休憩を含めて2時間5分で着いたのは上々の成績だ。
 山頂には標柱が一本立ち、三角点があるものの、あまりテッペンらしくない。それは西側に巨大な五丈岩が構えているからだろう。

山頂から望む五丈岩
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山頂の西側から。山梨県側から雲が湧き上がる
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 ここまで一本道であったので、下山ルートも同様だが、その前に少々散策する。

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流鉄流山線小旅行―河岸と味醂の商家町・流山

旅行日:平成30年10月1日②
前の記事 新京成線小旅行―鉄道聯隊演習線、木下街道と鎌ケ谷大仏、小金牧とその開墾

 新京成線の終点松戸には14時半頃に着いた。時間があるので、もう一つの私鉄にも足を延ばしてみようと思う。

 昼食を済ませ、松戸15:00発の常磐線各駅停車で馬橋へ。各駅停車は定刻運転に戻っていたが、快速のダイヤはガタガタで、上野ゆきが20分ほど開いていた。
 松戸から馬橋までは2駅。ホームのない快速線の線路の向こうに、これから乗る流鉄流山線のホームが見えている。
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 流鉄は馬橋と流山のあいだ全長5.7キロのミニ私鉄だ。水戸街道沿いに敷設された常磐線と、江戸川の河港の街を結んでいる。
 JRの改札を出て跨線橋を渡り、切符を買う。ICカードは使えず、自動改札機すらなかった。

 ほどなくして流山からの電車が入ってきた。降りた客は僅かに3人。電車は2両連結なのにホームは長い。常磐線が複線だった時代には、常磐線下りと流山線が同じホームを片面ずつ使っていたという(複々線化前後の配線図を見較べると、ホーム幅を縮めているようにも見える…)。
 入れ替わりに15人ほどの客が乗り込むと、ジリリリリ…とベルが鳴って発車する。なかなか慌ただしい。

旧常磐線の乗り場に流鉄の電車が到着
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 流鉄の電車は西武の中古で、5編成の塗装はすべて異なっている。私が乗ったのは赤色で、「あかぎ」の愛称があった。
 次の幸谷駅はJR武蔵野線新松戸駅の下にあって、さらに15人ほどの客が乗った。線路の左側にずっとくっついて流れているのは新坂川で、鉄道よりも後輩にあたる。
 突き出した下総台地を横切る鰭ケ崎の辺りで風景が少し鄙びたが、沿線は住宅地が続く。もう流山市街に入っている。馬橋から12分で終点の流山に到着。
 
流鉄流山線の沿線
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(地理院地図「自分で作る色別標高図」で作成、彩色は1メートル毎)

流山駅。ホームの先に車庫がある
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クラシカルな時刻表。運転本数は多い
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駅舎は小ぶりで、駅前広場も狭かった
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台地のすぐ下にある駅。高台の建物は市役所
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 流山の街は、江戸川に並行するように南北に細長い。中心部へ行く前に、少し北の「加」に行ってみる。明治の町村制前の加村だが、流山町の大字になった時に「村」を外して一文字地名になった。同じ流れで、流山市「木」という地名もある。
 どちらも「羽村」や「金町」のように、切り離せない部分ではなかったのか。

 江戸時代の流山は幕府領であったが、加村をはじめ市内の東深井・西深井などは駿河国田中藩(藤枝市)の本多氏領に属していた。飛び地を管理する加村陣屋が置かれた。
 この陣屋は明治2年から6年にかけて、千葉県の前身の一つである葛飾県、印旛県の県庁となった。

流山市「加」六丁目
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安政6年創業の呉服店「増屋」。大正関東地震後、流行の看板建築風に改築
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旧乾物店の「流山あかり館」
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 高い堤防を登り、江戸川を見渡す。対岸は埼玉県三郷市だ。
 江戸川は江戸時代の初めまでの渡良瀬川下流(太日川)で、寛永年間(1624-45)頃に関宿から野田に到る現在の流路が開削された。この頃、現在の流山市域では流山河岸と加村河岸が設けられている。

 普段は河畔林の手前側が河道のようだが、颱風の影響か反対側も含めて勢いよく流れている。河道部分は標高が4メートルしかないので、いつもはもっと穏やかな流れのはずだ。
 南風が強く、2キロ近く下流の橋梁を渡るJR武蔵野線の音がすぐ近くに聴こえる。

気持ちよく晴れた江戸川堤
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逆光の下流側にはスカイツリーも見えた
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 堤防を下りて、広小路とも呼ばれる中心部の本町通りへ。入り口の部分の車道を意図的に狭め、クルマが通りにくくしてある。
 その前に建つのが土蔵造りの呉服新川屋だ。弘化3年(1864)の創業で、今でも現役の店舗は明治23年(1890)に建てられた。黒漆喰塗りの切妻造りで、棟木の両端には恵比寿と大黒の立派な鬼瓦が載っている。

いかめしい土蔵造りの新川屋 (国登録有形文化財)
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大黒天の鬼瓦。傾いてきた陽射しに陰影が際立つ
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 通りの東側には浅間神社が祀られている。江戸時代初期に創建された富士山信仰の神社で、境内には富士塚がある。この富士塚は富士山の熔岩を積み上げたもので、高さは6メートルもある。登ってみると、隣りの家の3階と同じくらいの高さで、今や建物の間に埋まってしまっていた。

浅間神社
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境内の富士塚。登ると下りるのが大変
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 近くの常与寺は嘉暦元年(1326)創建の日蓮宗の寺院。
 この寺の境内には明治5年に師範学校の「印旛官員共立学舎」が設置された。この学校は流山の光明寺に移転したのち、印旛県が木更津県と統合されて千葉県が誕生したため、千葉町に移転した。のちの千葉師範学校、現在の千葉大学教育学部の前身にあたる。

常与寺
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 閻魔堂横丁という脇道に入ると、土蔵が建っている。この場所は新選組の近藤勇が本陣を置いた地だという。
 慶応4年(1868)3月、甲斐国勝沼での戦いに敗れた近藤率いる甲陽鎮撫隊は、江戸へと敗走した。態勢を立て直し会津を目指すべく、足立郡五兵衛新田(足立区)を経て、流山に屯所を移した。新政府軍は豊島郡板橋宿に総督府本陣を置き、宇都宮城を目指したが、背後を突かれるおそれがあるため、日光街道を粕壁宿から越谷宿まで引き返し、流山に侵攻した。
 近藤は大久保大和の変名を使っていたが、彦根藩士に見破られて捕らえられたとされる。

 歴史系の作品(ゲーム?)の影響で市内随一の観光スポットになっているようだが、平日の夕方には誰もいなかった。

近藤勇の本陣が置かれた穀物商永岡三郎兵衛家跡
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 広小路に戻り、菓子舗の清水屋本店店舗兼主屋を眺める。あまり古い建物には見えないが、店舗自体は創業以前の明治中期の建築と推測されている。
 店名の薄れたモルタル看板には、現在では再現の難しい技術も使われているそうだ。

清水屋本店店舗兼主屋 (国登録有形文化財)
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広小路こと本町通り。商家の多くは姿を消し、古い街並みというほどではない
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 清水屋の向かいは、茶や乾物を商う寺田園の旧店舗。明治22年に建てられた寄棟の土蔵造りで、広小路に向かって広い下屋を突き出している。夕暮れの陽射しがいい具合になってきた。

寺田園旧店舗 (国登録有形文化財)
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 広小路に沿った街並みはこの辺りまでで、それに代わって流山キッコーマンの大きな工場が現れた。流山の代名詞ともいえる味醂を造っているところだ。当地が味醂の生産地となったのは、野田の醤油と同様に、原料となるコメの産地や大消費地の江戸に近く、その両方を結ぶ舟運の便があったからであろう。

 江戸時代の流山における味醂醸造は堀切家と秋元家が大きく、それぞれ「万上味淋」、「天晴味淋」のブランドを展開していた。万上味淋は株式会社化する際に野田醤油(現在のキッコーマン)が出資したということもあり、大正14年に野田醤油に合併した。
 味醂という調味料にはあまり馴染みがないが、「万上(マンジョウ)みりん」というブランドは聞いたことがある。
 流鉄の祖である流山軽便鉄道は味醂工場の原料や製品輸送も目的としていて、流山駅から専用線が延びて来ていたという。カーブした道の形に面影を残している。

 一方、秋元家は合資会社化ののち、昭和15年に帝国清酒に買収され、東邦酒類、三楽オーシャンを経てメルシャン流山工場となった。その工場は平成19年に閉鎖され、跡地は更地になっていた。「天晴」のブランドは企業の合併や譲渡によって転々とし、現在はMCフードスペシャリティーズ日光工場で製造されているそうだ。

流山キッコーマンの味醂工場
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流山駅から延びて来ていた“万上線”の跡
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 工場群の南側は寺社や屋敷などが多く、緑の多い地区だ。その中にある一茶双樹記念館は旧秋元家だ。
 三代目秋元三左衛門は商売のかたわら俳句をたしなみ、「双樹」を号した。三左衛門は小林一茶に俳句の指導を受けるとともに経済的援助を行い、一茶の流山訪問は50回を超えたといわれている。

一茶双樹記念館
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 小高い山の麓には光明院。もとは隣りの赤城神社の別当祈願所であったという。境内は広く、一茶と双樹の連歌の碑も建っていた。

光明院
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本堂。左側の木は葉に文字が書けるタラヨウの大樹
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夕陽を浴びた地蔵
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 境内が繋がっている赤城神社は裏手の小山―赤城山を境内とする。この山は上州の赤城山から流れてきた(あるいは赤城山の札がこの地に流れてきた)とされ、流山という地名の由来として説明される。伝承はともかくとして、平地の真ん中に小高い山があって、それを「流れてきた」と解釈して信仰の対象にもしたのだろう。
 往きに乗った流山線の電車の愛称「あかぎ」は、ここから来ているそうだ。

巨大なしめ縄。氏子と地域の人々が毎年秋に作る
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 現在の赤城神社は元和6年(1620)の再建で、大己貴(オオチナム)命を祀る。本殿は山の上、鬱蒼とした社叢の中に建っていた。流造の本殿は秋元家が主体となって、寛政元年(1789)に建立された。

 夕暮れの社叢は蚊が多く、参拝して写真を撮るためにじっとしていると、たちまち腕や足元にたかってきた。そんな中でも子供たちが遊んでいる。

小高い山の上に建つ本殿
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夕陽の木漏れ日
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 赤城山の裏手にぐるりと回り込むと、大型の商業施設と流山南高校が立地している。郊外ではよくある光景だが、この地も流山の歴史と深く関わりあっている。
 この場所にはかつて陸軍の糧秣本廠流山出張所が置かれていた。「糧秣(りょうまつ)」とは聞きなれない言葉だが、国語辞典を引くと「軍隊で、人とウマの食べもの」とある。「秣(まぐさ)」が飼料の意。
 糧秣本廠は東京市深川区越中島町(江東区越中島)に、秣倉庫は本所区(錦糸町駅の北側)にあったのだが、市街化が進んだため大正14年に流山に移転した。この地が選ばれたのは、秣の産地に近く、鉄道や江戸川の舟運が利用できたからだという。戦後、連合国軍の接収が解除されると、野田醤油(キッコーマン)と東邦酒類(メルシャンの前身の一つ)などに払い下げられた。
 いまは工場もなくなり、碑が一つ建っているだけで、遺構らしいものは見られなかった。

陸軍糧秣本廠流山出張所跡
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 糧秣本廠跡地のスーパーを抜けると、平和台駅前に出る。この駅から倉庫や工場への引き込み線が出ていたらしい。
 今度の電車は流山ゆきで、これが馬橋ゆきとして戻ってくるのだろうが、さすがに乗るわけにはいかない。

ピンク色は「さくら」の愛称
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 戻ってきたピンク色の電車に乗り込み、帰りは幸谷で下車した。JR武蔵野線の高架が覆いかぶさっているので、駅舎の辺りは薄暗い。発車してゆく電車を待って踏切を渡り、交差点を横切れば、もう新松戸駅だ。
 新松戸17:27発の常磐線各駅停車で夕景の東京へ。亀有の辺りからは富士山のシルエットが見えた。

 綾瀬で一旦下車して「小田急東京メトロパス」に変え、北千住へ。帰路は約20分後の特急ロマンスカー「メトロホームウェイ51号」を奮発する。時間までに東武線のコンビニに寄り、ビールの確保も忘れない。
 18:13発の「メトロホームウェイ」は通路側の座席しか残っていなかったが、北千住からの客は皆無で、私の8号車は一人きりだった。

大手町までは貸し切り状態
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 表参道でほとんどの席を埋め、小田急線へ。私のようにラフな恰好の客は少なく、酒を飲んでいる人も見受けられない。なんだか悪いことをしているような気がしてきた。
 下車客は新百合ケ丘が多く、町田でガラガラになった。

新京成線小旅行―鉄道聯隊演習線、木下街道と鎌ケ谷大仏、小金牧とその開墾

旅行日:平成30年10月1日①

 今年の1月に「パスネット」を払い戻した。払い戻し金額が9,000円あり、これを資金に関東私鉄の旅をしていくことにした。
 第一回目は東武野田線に乗り、野田、春日部、岩槻とJRでは行かれない街を歩いた。
  (280-1)東武野田線小旅行(前・船橋~野田市) 利根運河と桜と菜の花
  (280-2)東武野田線小旅行(中・野田市~春日部) 醤油醸造の街・野田
  (280-3)東武野田線小旅行(後・春日部~大宮) 日光街道粕壁宿と岩槻城下

 半年も開いてしまったが、夏が終わって涼しくなってきたので、第二回目を敢行することにした。今回は千葉県の新京成線に乗ってみることにした。
 新京成線にはこれまでに二度乗車したことがあるものの、松戸・新鎌ケ谷間と新津田沼・京成津田沼間が未乗車だ。

新京成線沿線の地形概況 (クリックで拡大)SKL.jpg
(地理院地図「自分で作る色別標高図」にて作成)


□颱風一過で鉄道大混乱
 「小田急東京メトロパス」を手に、海老名7:19発の快速急行新宿ゆきに乗る。
 昨夜は台風第24号が通過し、早めに運転を取りやめる鉄道各線が多かった。今朝も秦野・渋沢間で倒木があり、やや遅延が生じている。JR各線は点検作業が長引いてようやく運転再開路線が出始めたところなので、小田急はマシな方なのだろう。
 海老名時点での遅れは2、3分だったが、前の電車がつかえて速度が上がらない。遅延は相模大野で5分、町田で6分に膨らみ、10分遅れの登戸で車内はすし詰めになった。濁った水が増水した多摩川を渡る。通過する各駅のホームも電車を待つ人が溢れそうになっている。
 代々木上原の手前ではホームが空くのをしばらく待たされ、17分延着。千代田線は直通の各駅停車が待っていたが、もう乗り込める状態ではなかった。始発電車があれば御の字だが、引き上げ線が空だったのでいつ来るのか分からない。後続の通勤準急も混雑していたが、人の流れで車内の中程まで押し込まれた。

 猛烈な混雑は国会議事堂前で解消。予定よりも30分近く余計に掛かって大手町で降り、東西線に乗り換え。快速運転は取り止めているので、すぐに来た西船橋ゆきに乗ったが、途中で東葉勝田台ゆきに変更された。地上に出ると、見事な青空が広がる。

 西船橋駅を出て、5、6分歩いて京成西船駅へ。JRの津田沼駅から京成津田沼駅まではやや離れているので、ここで歩いておいた方が良い。9:54発の普通電車が4分ほど遅れて来た。


□鉄道聯隊と新京成線
 京成線の普通電車は船橋の街を高架線で抜け、5分遅れで京成津田沼へ。到着する直前に新京成線の電車が出て行った。コンコースに上がって電光掲示板を見ると、今度の発車まで20分近く開いている。
 昼間の新京成線は10分ごとのダイヤで、京成津田沼折り返しと京成千葉線への直通電車が交互に運転される。しかし、京成線の遅延のため、直通運転を取り止め、しかも直通電車は一つ手前の新津田沼で折り返しているようだ。割を食った新津田沼・京成津田沼間では20分に1本の電車しか走らないことになってしまっている。
 「松戸」の行先を掲げた電車が千葉中央方面から入ってきたが、当駅で打ち切り、折り返し運転になった。

新京成線の電車は白とピンクのツートンカラー。右の電車は千葉中央へ折り返しに
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 10:29発の電車は、定刻より少し遅れて京成津田沼を出発。単線の線路は急カーブで切り通しを抜け、JRの複々線の線路を跨ぎ越す。さらに左へ左へと車輪を軋ませながらカーブし、複線になると新津田沼に進入する。わずか1.2キロの一駅間であるが、新京成線の歴史に密接に関わっている。

 新京成線は京成津田沼から松戸まで、下総台地上をやたらと曲折したルートで結んでいる。この線は陸軍の鉄道聯隊が演習線として敷設した路線が基になっている。戦後、京成電鉄と西武鉄道が旅客鉄道化を目して争ったが、地元の京成に軍配が上がった。
 昭和22年という早い時期に新津田沼・薬円台間が開通し、北側は4度に分けて延伸し、昭和30年に松戸に達した。一方、南側は昭和28年に京成津田沼に乗り入れた。
 もしも西武系の路線になっていたとしたら、京成津田沼までの乗り入れはなく、ターミナルはJR津田沼駅前だっただろう。そして、駅ビルには西武百貨店。もっとも、現在の津田沼駅前にPARCOと西友はある。

歴代の旧版地形図に見る、習志野市南部の新京成線の変遷 (クリックで拡大)
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(「今昔マップon the web」にて作成。2.5万分1地形図「習志野」。左上:昭和4年部分修正、右上:昭和27年修正、左下:昭和42年改測、右下:昭和53年改測。)

 新津田沼で多くの乗客が乗り込み、座席の8割くらいが埋まった。カーブを繰り返し、成田街道(佐倉街道とも、国道286号)に沿う。駅は1キロ程度の間隔で設けられていて、ちょっと走ってすぐに停まる。遅れているためか加減速ともなかなか鋭く、スピード感がある。20分ほど乗車し、船橋市の二和向台で下車。

カーブの多い線路をキビキビ走る (三咲~二和向台)
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 二和向台駅で下車したのは、鉄道聯隊演習線を辿るためである。戦後に新京成線として旅客化された際、あまりに路線が曲折している区間はショートカットの新線が敷かれた。二和向台・初富間はその最たるもので、現在の路線は新京成線の中では珍しく直線的だ。
 旧線路は二和向台駅の北側で西へとカーブしていた。地図で見ると不自然な線形の道路なので目に付くが、現地で見る分には狭い道の一つでしかなかった。狭くて歩道もなく、クルマの往来が多い。スプロール化した地域を象徴するような道だ。

地図上のカーブした道路に演習線の痕跡が浮かび上がる (※クリックで拡大)
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(「地理院地図」に筆者加筆)

 駅から10分も歩くと、道幅が広がり、一転して広々とした並木道に変わった。家々の間にはサツマイモ畑が点在し、のどかな景色に変わってきた。日なたは暑いが、颱風の余波でまだ風が強いのでありがたい。

急に広くなる廃線跡の道路
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桜並木なので、春は良さそう
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 さらに10分ほど進むと船橋市から鎌ケ谷市に入り、道は右へとカーブし、木下街道(県道59号)とクロス。交差点の先には谷津があるため、急な坂を下って登る。ここには4本の橋脚が残っている(上掲載図、赤丸の位置)。
 新京成線には川を渡る橋梁がなく、その理由は「前身の鉄道聯隊演習線が台地の尾根に沿って敷かれたため」と説明される。が、その説明はこの橋梁跡で否定される。
 なぜわざわざ遠回りしてまで橋を架けていたのか、演習の一環だったのか、気になるところだ。

谷津を越える道路のアップダウン
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サクラの木に隠れ気味な4本の橋脚
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橋台部分も露出していた
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□木下街道と鎌ケ谷大仏
 廃線跡は初富駅近くまで続くが、辿るのはこのくらいにして木下街道まで引き返した。この道を東に進むと、鎌ケ谷大仏駅に到る。
 木下街道は利根川の木下河岸(印西市)と江戸川筋の行徳河岸(市川市)を結ぶ街道で、水路同士を短絡した。江戸時代には鹿島・香取神宮への参詣者が往来し、銚子の鮮魚が多く運ばれたことから、「なま道」の通称もあったという。
 鎌ケ谷は街道沿いに発展した街で、旧版地形図で見ると街村形式であったこが分かる。現在も敷地の広い農家が残り、屋敷林が生い茂った中に大きな屋敷が建っている。その反面、新しい住宅が立て込んだ一郭もあり、大型トラックが熱い排気ガスを私に浴びせかける。

「木下街道」の看板と農家のイチジクの実
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街道沿いの古い建物
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 渋滞するクルマを追い越し、鎌ケ谷大仏駅前の踏切を渡った。
 駅名の由来になっている大仏は、駅のすぐそばの木下街道沿いに鎮座する。鎌ケ谷大仏は青銅製の釈迦如来像で、安永5年(1776)に当地の豪商大黒屋の福田文右衛門が建立した。鋳造は江戸・神田の鋳物師多川主膳で、高さは1.8メートル。
 1.8メートルという大きさは間違いなく「大きな仏像」であるが、「大仏」というと鎌倉の大仏を連想してしまうから、どうしても小さく見えてしまう。かつては街道を往く旅人を、今は渋滞するクルマを見下ろしている。

鎌ケ谷大仏。比較対象がなければ大きく見える?
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台座には施主である福田文右衛門と鋳物師多川主膳の名
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 大仏のある墓地内には、官軍兵士の墓が建つ。戊辰戦争の折、鎌ケ谷宿での小規模な戦闘で犠牲になった日向国佐土原藩士2名の者だ。明治19年に千葉県が建立したという。

官軍兵士の墓
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 駅の東側で、木下街道は「Y」字に二手に岐かれる。分岐点には明和元年(1764)の道標が建ち、一方には「木をろし道」、他方には「中木戸道」と刻まれている。
 中木戸は現在の白井市の地名で、下総台地上の小さな集落に過ぎない。さして重要なところとも思えないが、地名からすると牧に関係するのだろう。

木下街道(右)と中木戸道(左)の分岐点
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□小金牧中野牧と開墾
 牧というのは、江戸時代に下総台地上に広がっていた小金牧のことだ。
 下総台地には古代からウマを飼育する牧が設けられていたと考えられているが、江戸時代の初めに幕府が御用牧として小金五牧と佐倉七牧を開いた。鎌ケ谷市域は小金五牧の一つである中野牧の中心地であった。

 一つ一つの牧は非常に宏大で、ウマは野馬のように放牧されていた。ウマが農地や集落に逃げ出さないように、牧の周囲には野馬(除)土手が築かれた。野馬土手は相当な規模で下総台地上に張り巡らされていたが、明治になって牧が廃止されてから150年―ー宅地開発などによって少しずつ失われ、残っている部分は少ない。
 その一つが初富小学校裏だというので、行ってみた。街路が入り組んだ住宅地で、方角は分かっているのになかなか近づけないもどかしさ。

 野馬土手は小学校の校庭脇に直線的に続いていた。高さは2メートルほどあり、そこに生えた木の長さが、土手が築かれてからの年月の長さを伝えている。

初富小学校裏の野馬土手
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 学校の裏門部分では土手が切り崩されており、断面を観察できた。野馬土手は内側の傾斜を緩やかにし、外側は急にしてある。ここでは住宅地側が牧の内側で、学校側が外側だ。
 土手沿いは住宅地の中なのに寂しい。児童が表にいる時間にこんなところで写真を撮っていたら通報されそうだ。

分かりづらいが、左右対称ではない土手の断面
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 初富小学校から1キロちょっと歩いて、県道を右折。新京成線との交わる地点に初富駅がある。駅は高架化の最中で、津田沼方面が高架、松戸方面が地上仮ホームに分かれていた。
 駅の脇に大きなスーパーがあり、冷たい飲み物を買って一息つく。冷房の効いた店内が心地よい。まだ電車には乗らない。

高架化工事の進む初富駅 (スーパーの屋外デッキから)
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 新京成線の目と鼻の先には東武野田線が通っていて、こちらは一足先に高架化が完成している。高架線路脇に境内を持つのが、初富稲荷神社だ。

 ――明治2年(1869)、新政府は東京の治安維持のため、無産者の調査を行った。その中で農業を希望する者には旧小金牧の地に入植させることにした。
 政府は三井などの商人に20万両を貸与して開墾会社を設立させ、入植地の管理をさせた。入植地は開拓順に地名がつけられ、明治2年の富を皮切りに、和(船橋市)、咲(同)、豊季(柏市)、香(松戸市)、実(同)、栄(富里市)、街(八街市)、美上(香取市)、倉(富里市)、(白井市)、(柏市)、(成田市)と続き、13の開墾村が誕生した。

 栄えあるトップの初富の開墾に際し、京都の伏見稲荷大社から勧請して建立されたのが初富稲荷神社であった。
 現在の社殿は昭和41年に建立されたものだが、平成14年に区画整理事業で移転しているという。

初富稲荷神社
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小ぶりな社殿
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 明治5年には政府が開墾事業から手を引いたため、入植者は開墾会社の出資者の小作人という扱いになってしまった。開墾会社による収奪も過酷だったという。この問題は長く尾を引き、解決は戦後の農地改革を待たねばならなかった。
 境内には真新しい150周年の記念碑が建っていたが、「平成31年に150周年を迎えるにあたり、平成28年に建立」したらしい。ちょっと気が早い碑であった。

境内に建つ百五十周年の碑
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 初富の台地の下は真間川の源流で、谷津の谷頭部が貝柄山公園として整備された。
 「市民の憩いの場」という言葉がしっくりくるような、谷間の細長い都市公園の趣きだった。湿っぽくて蚊が多い。

木漏れ日の貝柄山公園
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池の周りにはメタセコイア(?)が林立
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 公園の近くには、中野牧の一施設であった捕込(とっこめ)が唯一現存している。
 野馬は年に一度集められ、健康状態のチェックが行われ、良い個体は江戸に送られた。捕込はウマを追い込むために、野馬土手の一部が袋小路状に飛び出させたものだ。野馬捕りは人気の行事で、近在から見物人が集まったという。
 捕込の中は細い木が伸び、鬱蒼としていた。辛うじて土手に囲まれているのが分かる。当時の雰囲気が分かりづらいので、伐採した方がいいと思うが、国の史跡だから難しいのだろうか。

明治期の迅速測図に見る捕込と野馬土手 (クリックで拡大)Tokkomi.jpg
(「歴史的農業環境システム」に筆者加筆)

木が鬱蒼と生い茂った捕込の内部
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 目的を果たし、新鎌ケ谷駅へ。3路線(京成成田空港線を含めると4路線)が乗り入れるターミナル駅だが、もともとは3つの鉄道が交わる地点でしかなかった。平成3年に北総線、同4年に新京成線の駅が設けられ、東武野田線の駅は平成11年に設置された。駅周辺は巨大なショッピングモールが立地し、区画整理が進んだ近代的な街並みだ。

東武野田線(掘割)と新京成線(手前の仮線と高架)、北総線(奥の高架)がクロス
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かつては駅のなかった新鎌ケ谷駅附近
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(「今昔マップon the web」にて作成。左:昭和60年修正2.5万分1地形図「松戸」および昭和62年修正2.5万分1地形図「白井」、右:地理院地図)

 駅の入り口が分かりづらく、広場をぐるりと遠回り。二和向台駅からの歩きは実に約11.5キロに及んだ。
 新鎌ケ谷14:03発の電車で松戸へ。次の北初富は駅前に国道464号が通っている。この道は国道になったり県道になったりするが、真っ直ぐに走ると新京成線の踏切が4か所もある。

直線的な道路と4度も交差する新京成線 (クリックで拡大)Hatsutomi.jpg
(「地理院地図」に筆者加筆)

 高架化工事区間が終わると北総線の下をくぐる。北総線の暫定開業時には新京成線との間に連絡線があって、松戸から千葉ニュータウン中央まで電車が直通していたそうだ。ナシ畑の中に車輛基地があって、下半分がピンク色の電車が並んでいた。
 自衛隊の松戸駐屯地の脇を走り、元山駅の前後で先ほどの道と二度クロス。
 五香の先には鉄道聯隊線をショートカットした区間があり、きれいな曲線を描く。カーブの内側には大規模な常盤平団地が立地する。

 少しずつ乗客を増やし、切り通しの国道6号の上を越えるとJR常磐線の複々線に並んだ。松戸着14:22。
 日没まで時間があるので、後編に続く。

次の記事 流鉄流山線小旅行―河岸と味醂の商家町・流山

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