fc2ブログ

Latest Entries

【「旅のはなし」の水先案内】

 「旅のはなし」をご覧いただきましてありがとうございます。
 当ブログは、各地への旅行記を掲載しています。その数は約350編、トータル1,000本を超えています!記事数が膨大で、行った順番と投稿する順番が前後することもありますので、以下の各「INDEXページ」もご参照ください。

□地域別旅行記INDEX:北海道 | 東北 | 関東 | 東京神奈川 | 北陸 | 甲信 | 東海 | 関西 | 中国四国 | 九州沖縄

□年次別INDEX令和3年 | 令和2年 | 平成31年/令和元年 | 平成30年 | 平成29年 | 平成28年平成27年平成26年平成25年平成24年|平成23年(準備中)|平成22年平成21年平成20年
※「年次別INDEX」では、各年の旅行記のほか、訪問都道府県の統計、JRの新規乗車路線などもまとめています

「旅のはなし」のTwitterアカウント→ @sagami_east25

秋の嵐山町・寄居町めぐり(3) 荒川河岸段丘の鉢形城址を歩く

旅行日:令和4年11月16日③

最初の記事 秋の嵐山町・寄居町めぐり(1) 落葉舞う菅谷館跡を訪れる
前の記事 秋の嵐山町・寄居町めぐり(2) 紅葉の嵐山渓谷を散策

 嵐山町から寄居町に移動する。東上線は小川町で運転系統が分かれており、旧型の短い電車に乗り換えになる。
DSC_0572.jpg

 電車は関東山地西部の丘陵地帯を走り、鉢形で下車した。終着駅である寄居の2つ手前の駅だ。
IMG_6022_20230318070516a61.jpg

 駅近くで昼食をとる積もりだったが、生憎定休日。他に店がないので、わざわざ荒川を渡ってスーパーで買い物することになった。
 荒川は河岸段丘を造り、両岸の段丘面よりも約20メートル低いところを流れている。
IMG_6024_20230318070518879.jpg

 適当に食事を済ませて引き返す。
 段丘崖に雀宮公園がある。この公園は歌舞伎役者の七代目松本幸四郎の別邸跡地にあたる。氏は養子であったが、明治44年(1911)に七代目を襲名し、大正2年(1913)にこの地に別邸を構えた。この時代には既に上武鉄道(現在の秩父鉄道)が熊谷駅から宝登山駅(現在の長瀞駅)まで開通しており、東京から鉄道で来られる地になっていた。別邸竣工の祝賀会では招待客が長瀞から船下りを楽しみ、花火を上げて祝ったという。建物の類は残っていない。
 紅葉黄葉した樹木が多く、紅葉狩りに来ている人もいる。それでも人は少なくてゆったりしている。

イチョウの黄色い絨毯と紅葉
IMG_6035_20230318070928c1c.jpg

赤・黄・緑の葉を見上げる
IMG_6050_2023031807093127c.jpg

艶やかな花をつけたサザンカ
IMG_6027_20230318070927108.jpg

 段丘面の平坦と段丘崖の高低差を生かした公園だが、両側が切り立った壕のようなところを見つけた。緩やかにカーブする細長い窪地があった。人工的な濠のようでもあるし、自然が作った旧河道の一つにも見える。荒川の川面からはかなりの高い位置だが、太古の河道か近い時代の支流の跡かもしれない。
IMG_6045_20230318070930145.jpg

 階段で河原に下りていった。この附近は玉淀河原と呼ばれる景勝地で、紅葉が美しい。廃業した旅館や料亭が多い。対岸が鉢形城址だ。
IMG_6055_20230318070933ab5.jpg

廃業した旅館の古風な建物
IMG_6056_20230318070934417.jpg

 正喜橋を渡って荒川の右岸に戻る。下流側には東上線の橋梁が架かっているのが見える。寄居に向かう列車をスナップする。
IMG_6059_20230318073754443.jpg

 正喜橋の左岸側は鉢形城址にあたる。さっき橋から見えたように、荒川の河岸段丘は際立っていて、城郭はその地形をを巧みに利用している。北側は高さ20メートルの急崖なので、攻めるのは容易ではない。
 橋のそばに土塁がみられる。本曲輪の土塁なので、裏手から入った恰好だ。
IMG_6063_202303180737559eb.jpg

 鉢形城には平将門や畠山重忠の伝承もあって築城の年代は詳らかではないが、室町時代後期には関東管領の山内上杉氏の家臣・長尾景春が拠っていた。景春は享徳の乱の末に山内上杉氏から離反するが、最終的には(山内)上杉顕定に城を攻略されてしまう。
 その後、顕定の死とその後の家督争いがあるのだが、天文15年(1546)に河越合戦で上杉憲政が北条氏康に敗れ、男衾郡周辺は小田原北条氏の支配下に入った。
 戦国後期に鉢形城に入った北条氏邦は氏康の三男で、もと山内上杉氏の家臣であった天神山城(長瀞町)主の藤田康邦に女婿に入っている。氏邦は武蔵国北西部の男衾、秩父、榛沢、那賀、児玉、賀美郡を領地とし、鉢形領と称された。鉢形城は領地支配に限らず、関東山地を挟んで接する甲斐、信濃、上野国といった周辺国に対する防備の構えとして重要な地であった。

 戦国期の城であるので、土塁と濠で構成されており、その多くが残っている。
IMG_6069_20230318073757706.jpg

土塁に挟まれた低地が水田として利用されている
IMG_6077_2023031807380167b.jpg

 南側には段丘面を深く下刻した深沢川が流れ、こちらも天然の濠をなしている。
IMG_6073_202303180737595ff.jpg

澄んだ流れに落ち葉が浮かぶ
IMG_6080_20230319090701311.jpg

 城址の西側をJR八高線がかすめ通っている。この辺りは壕の配置が特に複雑で、大手にあたるという。奥の軽トラが渡っている踏切が大手道だ。
IMG_6082_20230319090703a22.jpg

 大手のすぐ北側に「伝諏訪曲輪」という小さな曲輪があり、諏訪神社が鎮座している。ほぼ四方を空堀で囲まれている。
 神社は日尾城(小鹿野町)の諏訪部氏が家老として鉢形城に出仕した際、氏神として祀ったと伝わる。
IMG_6084_202303190907045e4.jpg

諏訪神社の社殿とイチョウの樹
IMG_6086_202303190907067a1.jpg

 大手に続く三ノ曲輪は「伝秩父曲輪」の別称もあり、氏邦の重臣である秩父孫次郎が守ったとされる。
 曲輪の土塁跡からは石積みの遺構が発見されており、それが復元されている。石積みは河原石を数段に分けて積み上げたもので、近世城郭の石垣には劣るものだが、関東では珍しい。

復元された塀と門
IMG_6089_2023031909070742d.jpg

三之曲輪の土塁石積み
IMG_6093_20230319090709048.jpg

三之曲輪の隅に残る馬出の遺構
IMG_6095_20230318074903a3e.jpg

 天正18年(1591)の豊臣秀吉の小田原征伐に際し、鉢形城は上杉景勝、前田利家の5万の軍勢に包囲された。城に籠った氏邦は大きな抵抗もせず、助命嘆願を行ったのちに開城している。
 廃城後も六斎市が開かれるなど鉢形は在郷町的な役割を果たしていたが、次第に衰退していった。その反対に秩父往還の宿場町として栄えた対岸の寄居と争議になったりもしている。
 嘉永4年(1851)には寄居で大火があり、荒川を越えて鉢形まで飛び火して被害を出している。崖の縁からは玉淀河原の料亭群や寄居の街が望まれた。
IMG_6065_20230318073757e21.jpg

 三度目の正喜橋を渡り、寄居駅に出た。せっかく「SAITAMA プラチナルート乗車券」を持っているので、秩父鉄道にも乗りたい。明るければ長瀞などに行くところだが、もう陽が暮れそうなので、深谷市に新しくできたアウトレットモールに行ってみることにした。
IMG_6098_20230318074904e07.jpg

寄居駅の改札回り。3社の券売機が仲良く並ぶ
DSC_0575.jpg

 寄居16:21発の羽生ゆきに乗る。秩父鉄道は10月にダイヤ改正を行い、熊谷・寄居間の電車を大増発した。この区間は概ね20分に1本と、かなりの高頻度となった。
IMG_6099_2023031807490670d.jpg

 寄居から2つ目に小前田という駅がある。東上線の群馬県延伸計画ではこの駅に乗り入れることになっていた。結局、国が八高線を造ることになり、東上鉄道は地域の主邑である寄居で秩父鉄道と接続したところで終点となった。
 関越道の下をくぐり、次がふかや花園。新設されたばかりのきれいな駅で、目の前がふかや花園プレミアム・アウトレットとなっている。
DSC_0580.jpg

ふかや花園プレミアム・アウトレット
DSC_0582.jpg

 一巡りして多少の買い物もして、秩父鉄道で寄居駅に戻った。
 東上線で小川町に出て急行に乗り継いだが、森林公園で先行する始発の川越特急に乗り換える。下りの「TJライナー」に使用する車輛の送り込みらしく、追加料金なしでクロスシートに座れる。
IMG_6101_20230318074907d66.jpg

 森林公園ではガラガラだった車内も徐々に混雑した。快適な座席だが、車内でお酒でも…という雰囲気ではない。「川越」を名乗る列車だが、川越からでは座れなさそうだった。
 池袋から新宿に出て、相鉄線直通電車で帰宅。

湊町の日生と備前焼のまち伊部 (18きっぷで早春の西日本めぐりの旅・2)

旅行日:令和5年3月1~4日②

前の記事 塩田と忠臣蔵の城下町、赤穂加里屋を歩く

 赤穂線の列車で西に進み、日生で下車した。「ひなせ」と訓む難読駅だ。
 高台にあるホームからは瀬戸内海を望み、のどかな雰囲気がある。改札を抜け、さして広くない国道を渡るとすぐに港だ。
IMG_6977_20230314070247caf.jpg

 日生で降りた目的はカキオコを食べるためだ。少し歩いたところに「海の駅しおじ」があるようなので、そこを目指す。

 国道から小さな半島の方に折れる。いくつかリゾートマンションが建っている。
 入り江を隔てて大きな橋が架かっているのが見える。備前日生大橋だ。橋で繋がるのは鹿久居島だが、本土との間の水道が細長いため、島なのか半島なのかはっきりしない。島にはシカが多く棲息しているという。
IMG_6979_2023031407024828d.jpg

小豆島大部港からの「フェリーひなせ」が入港してきた
IMG_6982_20230314070250f1e.jpg

港に積み上げられたホタテガイの殻
IMG_6986_20230317164728b75.jpg

 15分ほど歩いて「海の駅 しおじ」に到着。観光市場のような施設「五味の市」がメインで、周りにいくつかの店舗がある。カキ小屋が人気なようだ。
 一角にある「カキオコ屋 暖里」にも並んでいる人がいて、本日は店内で食事ができないとのこと。少し迷ったが、テイクアウトして「五味の市」の二階のフリースペースでいただくことにした。
DSC_0007.jpg

 「カキオコ」は文字通りカキの入ったお好み焼き。焼きあがるのを待つ間に隣りのコンビニでお酒を仕入れた。
 お好み焼きにはカキが7、8粒くらい入っており、美味しかった。
DSC_0006_202303140702432c7.jpg

 帰りも同じような道筋を辿り、日生14:56発の赤穂線新見ゆきに乗る。列車は複雑な海岸線をたどるため、ちらりと海が見えたかと思うと内陸に入ってトンネルをくぐったりする。
 伊里を過ぎて小さな峠をトンネルでくぐり抜けると備前片上。市街地とはやや離れており、次の西片上が片上港の最寄り駅だ。気になる街だが、今回はパス。再び内陸に入り、伊部(いんべ)で下車。
 伊部は備前焼の街で、駅舎も「備前焼伝統産業会館」を兼ねている。
DSC_0008.jpg

 駅前を横切るのは2車線の変哲もない道だが、国道2号だ。古代の山陽道は船坂峠で播磨国から備前国入ると坂長(備前市、旧三石町)、藤野(和気町)、高月(赤磐市、旧山陽町)を経て津高(岡山市)に到る吉井川沿いのルートを通っていたが、中世頃に片上、伊部経由の瀬戸内沿岸ルートに変わった。
 国道を渡ると、いくつもレンガ造の煙突が見える。
IMG_7021_202303171702353c3.jpg

 街を横切るように流れるのが不老川。コンクリートで固められた小河川だが、石垣風にブロックを積むなど景観に配慮している。
IMG_6990_20230317164730f3d.jpg

 備前焼は伊部を中心に現在の備前市、瀬戸内市エリアで生産された。
 窯跡の出土品からは古墳時代後期に作られた須恵器が発見されている。平安時代の「延喜式」には備前国の主要貢納品として陶器が挙げられている。
 古代の備前焼は還元炎焼成による燻べ焼きを行っていたため、青灰色であった。室町時代頃になると酸化焼成が行われるようになり、備前焼の特徴である褐色の焼き物が多くを占めるようになった。製品は壺、擂鉢、甕といった実用品であった。

茅葺の建物や陶器の破片をあしらった塀
IMG_6991_20230317164732345.jpg

カーブした道沿いに古い建物が点在している
IMG_6993_2023031716473519f.jpg

 国道と並行する旧道には備前焼のお店が点在している。私などには敷居が高くてとても入れないが、店先のセール品の食器ですら数千円と書いてあった。壺など大きなものは数十万円の値札が見えた。

店先に備前焼の壺が展示されている
IMG_6992_20230317164733b0c.jpg

建物からして立派なお店
IMG_7019_20230317212749f12.jpg

 江戸時代の伊部は岡山藩領に属し、焼き物の生産も藩の保護を受けた。一方で有田焼や瀬戸焼といった釉薬を施した陶磁器の流行や大量生産もあり、それ以前ほどの賑わいは失われた。
 近代以降は伝統工芸品として価値が見直される一方で、建築材料としての耐火煉瓦の生産が始まった。その関係で片上湾の臨海工業地帯には耐火煉瓦の工場が多い。

路地奥の窯元
IMG_6995_20230317164737276.jpg

積み上げられた薪
IMG_6996_20230317170040dd6.jpg

紅梅とレンガ造りの煙突
IMG_6998_20230317170042ad2.jpg

 山裾に天保窯がある。天保3年(1832)に築かれたものだ。江戸時代後期には備前焼の大量生産が下火になっており、小型の融通窯として3つの窯が築かれた。小型と言っても長さは23メートルあったと推測されている。
 現在は約17メートルが残り、覆いをかけて保存されている。
IMG_7001_202303171700441ca.jpg

 山に入ると大きな窯の跡がみられる。
 伊部北大窯といい、全長は実に約33メートルに及び、時期的には室町時代のものと推測されている。
IMG_7004_2023031717004547e.jpg

 不老山には忌部神社が鎮座している。「伊部」の地名の由来のようだ。
IMG_7006_20230317170046f3d.jpg

 神社の辺りからの見晴らしが良い。
 「備前」という名の自治体は昭和26年に誕生した。このときは片上町と伊部町が合併した備前町であった。片上と伊部は勢力差が小さく、どちらかの名前を存続させる訳にはいかなかったのだろう。所属する和気郡にはピンポイントに和気という地点があり、そこが和気町なので、郡名も採用できない。
 その後、伊里町や香登町などと合併し、昭和46年に三石町と合併したことで市制施行して備前市となった。さらに平成17年に吉永町、日生町と合併した。これらの市町村合併は編入ではなく、毎回新設合併で行われており、最初の備前町から法人格が三度も変わっている。

伊部の街を見渡す
IMG_7007_202303171700471e7.jpg

 山を下っていくと天津神社に出た。無数の備前焼が置かれていて、見て回るのが楽しい。
IMG_7009_202303172127432ae.jpg

元文年間(1736-41)に建てられた随神門は瓦が備前焼
IMG_7012.jpg

備前焼の瓦
IMG_7010_20230317212744bea.jpg

狛犬も備前焼
IMG_7017.jpg

塀の上のダルマと陶器
IMG_7014_202303172127460bb.jpg

 伊部16:13発の岡山ゆきに乗る。赤穂線は日中1時間に1本の割合で運転されるので、比較的乗り歩きしやすい。しかし、18日の改正で日中の数本が減便になるというポスターが駅に貼ってあった。

次の記事 

秋の嵐山町・寄居町めぐり(2) 紅葉の嵐山渓谷を散策

旅行日:令和4年11月16日②

前の記事 秋の嵐山町・寄居町めぐり(1) 落葉舞う菅谷館跡を訪れる

 菅谷館から西に歩き、嵐山渓谷に到る。
 渓谷の下流の入り口には飛び石がある。流れているのは都幾川の支流である槻川だ。上流には小川町があり、源流は東秩父村の堂平山の辺りに持つ。
IMG_5985_20230313154823bf6.jpg

飛び石の上から下流方向を望む
IMG_5982_20230313154821905.jpg

 「武蔵嵐山」の地名は昭和3年(1928)、林学者の本多静六の命名による。むろん京都の「嵐山」にちなんだ地名だが、訓みは「らんざん」だ。この5年前の大正12年には池袋から出る東上鉄道(東武東上線)が、武州松山(現在の東松山)から小川町まで延伸しており、東京から気軽に日帰り旅行できる地になっていた。
 東上線の駅も昭和10年に菅谷から武蔵嵐山に改称し、自治体名も戦後に菅谷村から嵐山町と改称した。
IMG_5989_20230313154825766.jpg

 マイナーな紅葉名所だと思っていたが、意外と人が多い。
IMG_5992_2023031315482542f.jpg

 嵐山渓谷では槻川が南に大きく蛇行しており、半島状に高台が延びている。朝から昼に差し掛かり、様々な色に紅葉・黄葉した木々からの木漏れ日がきれいだ。
IMG_5998_202303131548272fc.jpg

鮮やかな色のマユミの実
IMG_6001_2023031315482870e.jpg

紅葉を背景にしたカキの実
IMG_6004_20230313154951ab8.jpg

サザンカの花と紅葉
IMG_6006_2023031315495331c.jpg

 半島の付け根に戻り、北側の大平山に登る。標高は179メートルにすぎず、大した登山ではない。
 山頂手前に東側の樹木が伐り払われたエリアがあり、東京都心方面が見通せた。都幾川の対岸の丘陵が赤く色づいている。
IMG_6009_20230313154954c6a.jpg

山頂の碑
IMG_6010_20230313154956358.jpg

 山頂から北側に下山し、車道に脱出。槻川の上流を見下ろす眺望があり、結構な高みに感じられた。
IMG_6013_20230313154957338.jpg

嵐山渓谷の地形
img20230313160620527.jpg
地理院地図「自分で作る色別標高図」で作成

 この地点にはかつて隧道があったそうで、そのことを刻んだ石碑が建っていた。「遠山トンネル」といい、明治15年というかなり早い時期に開鑿された。槻川上流域から生糸などを円滑に運搬する必要があり、約5,700円の建設費は寄付金で賄われた。
 遠山トンネルは昭和29年に崩壊してしまい、現在は切り通しに変わっている。
IMG_6015_20230313154959850.jpg

トンネルを取り払った切り通し
IMG_6016_202303131552329c1.jpg

谷戸の奥の紅葉
IMG_6018_2023031315523242b.jpg

 帰りはルートを変えて農作物直売所に寄り道。住宅地を抜けて武蔵嵐山駅に戻ってきた。昼間の東上線は30分間隔で快速が走り、1時間に1本だけ急行が挟まる。つまりは最長30分待ちとなるわけだが、幸いさほど待たずに快速小川町ゆきに乗れた。

待ち時間に快速池袋ゆきを写す
IMG_6021_20230313155237066.jpg

 次が終点の小川町であるが、駅間は7.0キロも離れている。この間に信号場があり、複線から単線に変わる。

 小川町で10分ほど待って寄居ゆきに乗り換え。小川町・寄居間は短い編成の電車がワンマン運転で行ったり来たりしている。
 この区間はJR八高線と並行しているが、ルートは離れている。鉢形で下車。きれいな駅舎で、新旧の列車の写真がところ狭しと掲出されていた。

次の記事 秋の嵐山町・寄居町めぐり(3) 荒川河岸段丘の鉢形城址を歩く

塩田と忠臣蔵の城下町、赤穂加里屋を歩く (18きっぷで早春の西日本めぐりの旅・1)

旅行日:令和5年3月1~4日①

 初春の旅は「青春18きっぷ」のシーズンを待って、西日本を目指した。結構な気まぐれ旅で、出発した時点では宿を取っていないどころか「18きっぷ」自体を購入していなかった。

 藤沢駅で「青春18きっぷ」を購入して、そのまま13:17発の熱海ゆきに乗り込む。熱海、浜松、蒲郡、岡崎、米原と乗り継ぎを重ね、この日は彦根で一泊した。

 翌日は彦根7:34発の新快速姫路ゆきでスタート。朝のラッシュ時でも彦根からなら充分座れそうだ。大津、京都、大阪、神戸を過ぎ、姫路には定刻の10:08よりも少し遅れて到着。わずか1分接続の播州赤穂ゆきの発車時刻を過ぎていたが、待っていてくれた。
 列車は相生から赤穂線に入り、10:40に播州赤穂着。

 「播赤穂」という駅名は珍しい。飯田線に赤穂(現・駒ケ根)駅があったため国名を冠して区別したのだが、地元・赤穂市の働きかけでこの駅名になったそうだ。国鉄が呈示したのは「播磨赤穂」。
 海の方からの風がやや強く、寒い。神戸の辺りは俄か雨だったが、晴れている。
IMG_6906_20230310062411905.jpg

 駅前通りを南下して赤穂城址を目指すと、10分ほどで城門が見えてくる。江戸時代の街区はところどころに鈎型の曲がり角が設けられていたが、今では直線化されている。
 ここが赤穂城の大手で、石垣が連なり、隅櫓が再建されている。
IMG_6911_20230310062413713.jpg

 大手門は枡形門形式で、石垣に沿ってぐるりと迂回する。
 海に近い赤穂城では井戸水を得ることができないため、熊見川(千種川)から上水を引いていた。赤穂水道は城下町にも給水を行う規模の大きなものであった。城内に入る部分はサイフォンの原理で濠の下をくぐらせていたそうだ。
IMG_6916_202303100624142fa.jpg

巨岩を積み上げた枡形の石垣
IMG_6917_20230310062415ac1.jpg

隅のカーブが芸術的
IMG_6920_20230310062417966.jpg

 大手門を抜けると三之丸に入る。
 大石義雄邸の長屋門が保存されている。大石家は赤穂藩の筆頭家老で、義雄は官名である内蔵助としてよく知られている。元禄赤穂事件の指導者となり切腹したが、長屋門だけは長らく使用されてきた。
IMG_6923.jpg

 三之丸には赤穂大石神社が鎮座する。
 言うまでもなく、「忠臣蔵」の大石内蔵助義雄を祀る神社だ。明治天皇が東京・泉岳寺に金幣を下賜したのを機に神社奉斎の儀がおこり、大正元年(1912)に創建された。祭神は多く、義雄をはじめとする47士、藩主浅野家3代と幕末の藩主森家の武将が祀られている。
 私はこの手の話が食わず嫌いなので、よく知らなかったのだが、社殿を取り巻くように設置されたパネルで物語を辿ることができた。好むと好まざると赤穂と忠臣蔵は切り離せない。

 門は神戸市にある楠木正成の湊川神社の神門を昭和17年に移築したものだ。
IMG_6924_20230310171308704.jpg

赤穂大石神社の社殿
IMG_6927_20230310171310d91.jpg

「義士宝物殿」の重厚な建物
IMG_6928.jpg

 南に歩くと二之丸門に通じる。明治25年に千種川の洪水があり、堤防を修復するための骨材として石垣を撤去したのだという。城門部分は撤去されたままで、左右の石垣の一部が復元されている。
IMG_6932_2023031017131345e.jpg

復元された櫓と塀の石垣と濠
IMG_6933.jpg

 そして本丸門に到る。こちらも枡形門で、一の門が櫓門、二の門が高麗門であった。門とその左右の部分の漆喰壁が復元されている。石垣が線状に色が変わっているのは潮汐によって水位が変動するためだろうか。
IMG_6935_20230310171316ac4.jpg

 赤穂市の中心市街地は「かりや」という。武家屋敷が「上仮屋」で、商人町が「加里屋」であった。近世までの「赤穂」という地名は現在の赤穂市や相生市、上郡町などを含む郡名で、明治期の町村制で加里屋周辺が赤穂町となった。
 中世から近世までの加里屋は赤松氏、宇喜多氏、生駒氏、池田氏などの領内であった。正保2年(1645)に常陸国笠間(茨城県笠間市)から浅野長直が5.3万石で入封し、加里屋に城を築いた。平和な時代になってからの城なので、実戦よりも権威の象徴的な意味合いが強い。
 長直の曽祖父は戦国武将として知られる浅野長政で、家督を継いだ長幸は紀伊国和歌山藩主となった。隠居した長政は常陸国に5万石を得、これを相続した三男の長重が赤穂家の祖となった。

 本丸には天守台がある。しかし、天守は初めからなかった。
 赤穂城は瀬戸内海に面した海平城で、本丸は瀬戸内海に面した南側に位置しており、海と干潟で守りを固めていた。海側にも石垣と櫓が続いていたので、当時の様子を海上から見たら壮観だっただろう。その後の千種川による河口附近の堆積と新田(塩田)開発、工業化による埋め立てによって海岸線は遠のいた。
IMG_6940.jpg

宏大な本丸御殿の位置が示されている
IMG_6941_20230310180820676.jpg

埋め立て地の工場地帯を望む
IMG_6944_20230310180821b61.jpg

 元禄赤穂事件で浅野長矩が取り潰されると、永井氏を挟んで宝永3年(1706)に森長直が入封した。森氏は津山城を拠点に美作国を治める大名であったが、改易されてわずか2万石となっていた。

搦手にあたる厩口門
IMG_6946_20230310180822364.jpg

海側の刎橋門の遺構
IMG_6951_202303101808245cf.jpg

海上に睨みをきかせていたであろう南横矢枡形の石垣
IMG_6953_20230310180826509.jpg

 ぐるりと回って再び三之丸へ。三之丸の西側は武家屋敷群があった地だが、宏大な空き地となっている。
 枯れ草の色をした三之丸を進み、塩屋門から出た。
IMG_6957_2023031018165413e.jpg

 門を出て西に歩く。
 塩務局の建物が赤穂市民俗資料館として残っている。明治41年の建築で、旧塩務局の建物としては現存最古とのこと。
 赤穂は千種川河口附近に位置し、沖合には干潟が広がっていた。浅野氏の時代には河口東側での塩田開発が進み、森氏の入封後は西側に宏大な塩田が開発された。赤穂塩は苦汁を除去した古浜塩(真塩)で、主に上方に流通した。
 明治期には苦汁から薬品を作ったり、塩を使用する曹達工業の発達によって塩需要が高まった。また、明治38年には日露戦争の戦費確保を目的として塩の専売制が敷かれた。
IMG_6960_20230310181655648.jpg

塩田の広がる戦前の赤穂町周辺。赤穂線は未開通で、有年から赤穂鉄道が来ている
AKF.jpg
大正14年修正測図5万分1地形図「播州赤穂」より

 上仮屋の城外は武家屋敷が広がっていた地で、現在はゆったりとした造りの住宅地に変わっている。
 古い建物はあまり残っていないようだが、「武士道資料館」は濱尾家の武家屋敷を利用している。
IMG_6964_20230310181657a52.jpg

 上仮屋から加里屋の町人地に入る。白黒の漆喰壁の商家が並んでいる。
IMG_6965.jpg

 街の中心部に花岳寺がある。浅野家の菩提寺として、浅野家が入封した正保2年に建立された。その後の藩主家である永井家、森家も菩提寺とした。
 山門は赤穂城の西惣門を移築したもので、明治6年に住職が購入したという。
IMG_6973_20230310183718e14.jpg

大きな本堂
IMG_6975_20230310184457ae7.jpg

報恩堂
IMG_6974_202303101844566e4.jpg

 花岳寺の門前には鈎型街路が残っている。西国街道よりも海沿いを通る備前街道だ。周辺には古い建物がみられる。
IMG_6970_20230310183713973.jpg

角地の商家
IMG_6971_2023031018371558a.jpg

古い商家を改装したカフェも
IMG_6972_202303101837161d4.jpg

 播州赤穂駅に戻り、12:38発の岡山ゆきに乗る。赤穂線は播州赤穂で運転系統が分かれており、東側は京阪神地区の新型車が、西側は岡山地区の旧型車が入るようだ。
DSC_0004.jpg

 姫路方面からの接続を受けると多くの席が埋まり、発車。車窓には時折海が見える。
 2つ目に「備前福河」という駅があるが、ここはまだ兵庫県だ。ここはもともと岡山県日生町福浦であったが、昭和38年に兵庫県に編入された。兵庫県は摂津、播磨、淡路、丹波、但馬に加え、備前、美作の7つの令制国から構成されているのだ。
 「福河」と「福浦」で1字違うのは、福河が浦と寒の合成地名で、駅ができた時は福河村であったことによる。

 この駅を発車して福河トンネルをくぐると岡山県に入り、日生で下車。

次の記事 湊町の日生と備前焼のまち伊部

Appendix

プロフィール

さがみぃ

Author:さがみぃ
中の人は相州生まれの相州育ち。アラサー。
地理・地図好きの筆者が、街を歩いたり、ドライブしたり、列車に乗ったり、山に登ったりしたことを書いていきます。大体3日おきに更新中。

このブログと筆者については、水先案内からご覧いただけます。

トップページ

【地域別旅行記INDEX】
北海道
東北
関東
東京神奈川
北陸
甲信
東海
関西
中国四国
九州沖縄

twitter @sagami_east25

月別アーカイブ

カテゴリ

アクセスカウンター

(平成24年8月22日設置)

検索フォーム

QRコード

QR

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる