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【「旅のはなし」の水先案内】

 「旅のはなし」をご覧いただきましてありがとうございます。
 当ブログは、各地への旅行記を掲載しています。その数は約350編、トータル1,000本を超えています!記事数が膨大で、行った順番と投稿する順番が前後することもありますので、以下の各「INDEXページ」もご参照ください。

□地域別旅行記INDEX:北海道 | 東北 | 関東 | 東京神奈川 | 北陸 | 甲信 | 東海 | 関西 | 中国四国 | 九州沖縄

□年次別INDEX令和2年 | 平成31年/令和元年 | 平成30年 | 平成29年 | 平成28年平成27年平成26年平成25年平成24年|平成23年(準備中)|平成22年平成21年平成20年
※「年次別INDEX」では、各年の旅行記のほか、訪問都道府県の統計、JRの新規乗車路線などもまとめています

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新緑の津和野を歩く(前) 石垣が遺る山上の津和野城址へ

旅行日:令和3年4月8~10日④

最初の記事 秋吉台のカッレンフェルトを散策する
前の記事 春の穏やかな青海島―海上アルプス、波の橋立とレンゲの花畑

 新山口駅前でレンタカーを返却し、旅はクルマから列車に切り替わる。
 「青春18きっぷ」に4回目の入鋏印が入り、新山口9:13発の山口線山口ゆきに乗り込む。ディーゼルカーの車内は若い女の子でいっぱいであった。初々しい感じがするのは新入生なのかもしれない。沿線のどこかに大学か専門学校があるのだろう。
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 学生たちは2つ目の上郷で下車していった。4月の今は鉄道通学でも、徐々に免許を取って自動車利用に変わるに違いない。
 終点の山口には20分ほどで到着し、跨線橋を渡って益田ゆきに乗り換える。列車は1両きりだが、ボックス席に一人で座れた。サッカーのレノファ山口のキャラクターのラッピング車であった。乗り鉄らしい姿の客が多い。
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 山口の次の上山口から初乗車区間に入る。その次の宮野までが山口市街にあたっていて、以北は列車本数が激減する。私が乗っている列車でいえば、前は約2時間半、後は4時間半近く開いている(いずれも特急列車を除く)。
 大峠(たお)を木戸山隧道で抜ける山陰道の国道9号と異なり、山口線は東の田代トンネルを通る。ルート選定の苦労が偲ばれる区間だ。
 篠目では反対の特急「スーパーおき1号」と交換した。鳥取県の米子から新山口まで4時間半をかけて走る長距離列車だ。

篠目附近にて
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 峠を越えて山陰道と合流すると、長門峡という駅がある。線路は真っ直ぐ谷を進み、一見同じ川に沿い続けているように感じる。が、この駅を境に川の流れが逆になるという不思議な立地にある。
 川の下流はというと、山に分け入って急峻な峡谷をなす。駅名になっている長門峡だ。この阿武川の河口に位置するのが萩市だ。
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 列車は谷間の平地を緩やかに登る。赤い石州瓦を載せた民家が増え、山陰に移ったことを感じさせる。田んぼには水を張り始めていて、背景の山々は新緑している。2年ぶりに見られる春の歓びだ。
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水を張った田んぼが赤瓦を映す
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 船平山を発車すると、長大な白井トンネルに突入する。山口県と島根県の県境をなす。
 トンネルの前後の高さを合わせるため、前後の線形が「Ω」型になっている。名賀川に沿って下るが、線路は川の勾配についていけずに、高台から津和野の街を見下ろす。これから訪れる街の全景が見えるのは佳いものだ。
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山上に津和野城の石垣が見える
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 津和野川を渡り、街の北の外れにある津和野駅には10:51に着いた。列車は17分も停車するので、乗客はホームに降り立ったが、改札を出たのは私と地元の方らしい数人だけであった。
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 古い街並みはあまり見ないようにして、まずは津和野城址を訪れる。
 津和野川に架かる橋の袂を折れ、川べりを歩く。堤防に植えられた桜並木がわずかに花の色を残している。
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 列車からも見えたが、津和野城は山上にある。比高は170メートルくらいあって登るのは大変そうだが、おあつらえ向きなリフトが整備されている。客は少ないらしく、私がチケットを買うと機械が動き出した。一人用の搬器に腰を下ろし、新緑の混じったスギの木立の中を上昇してゆく。
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 山上は整備の途上で、二之丸は通れない。代わりに仮設の通路が架かっている。崖際なので、ちょっとスリルのある道だ。
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ツツジの彩り
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 津和野町が属するのは石見国鹿足郡であるが、中世は吉賀郡と呼ばれていた。鎌倉時代の弘安5年(1282)、蒙古襲来に備えて能登国から能登吉見氏の代官として吉見頼行が入封した。吉見氏はもともと武蔵国横見郡吉見荘(埼玉県吉見町附近)の人で、姓は地名による。以後、石見吉見氏として伸長した。津和野城は永仁3年(1295)に吉見頼行が築いたとされ、一本松城あるいは三本松城と称した。
 城山の霊亀山は三方向を津和野川に囲まれた天然の要害だ。津和野川の源流・高森山は日本海から10キロくらいしか離れていないが、南流して太平洋に向かう。そして、霊亀山の下で北に向きを変える。700年以上前によくぞこの場所を見つけたものだ。
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 戦国時代の吉見氏は美濃郡の益田氏と度々争った。天文23年(1544)には陶氏と益田氏に城を包囲され、拠点の津和野三本松城を明け渡した。が、翌年に毛利氏が陶氏を滅ぼすと、吉見氏は再起して陶氏の傀儡であった大内義長を討ち取った。そしてその恩賞として毛利氏に吉賀郡を安堵され、隣接する長門国にも所領を得た。関ケ原の戦いでは西軍につき、戦後は毛利輝元に従って長門国に退いた。

 木々の間からは津和野の街を見下ろす。蛇行した津和野川が街を二分していて、背後には形の良い青野山が聳える。青野山火山群に属する火山で、熔岩ドームがよく残っている。
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工事中で入れない二之丸の石垣
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シャガの花が咲く
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 津和野城の本丸は城山の南端のポコンとした峰に位置している。北側は切り立っている。石垣が築かれているが、スギの樹が亭々と生長し、薄暗い。
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 大手門の辺りは枡形の石垣がきれいに残っているが、ここは通ることができない。代わりに仮設階段が組まれ、上から眺めるようになっている。普通では見られない角度なので、新鮮だ。
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 関ケ原の戦いのあとの慶長10年(1605)、坂崎直盛が3万石を与えられ、津和野の地に入封した。直盛はいわゆる千姫事件で自刃し、因幡国鹿野から亀井政矩が4.3万石で入封した。以降、亀井氏の治世が幕末まで続く。
 吉見氏の時代は長らく城の西側に城下町が形成されていたが、近世城郭に変わるに際して戦国期末期に南麓から東麓地域に移った。

旧城下町の西麓方面。中央の山は雲井峰
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 坂崎直盛は津和野城の大手を東側に変えた。山上の城郭では、本丸に石垣を築き、鉄砲の時代に対応した造りに改修した。一方、山城は治世の上で不便なので、津和野川沿いに藩邸を置いた。
 石垣は延宝4年(1676)には延宝石見地震に見舞われて破損し、貞享3年(1686)には落雷で三段櫓が焼失した。石垣の上の櫓群は明治初期に解体されたが、石垣はそのまま残された。
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天守台
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 石垣の上は木々もなく、芝生が広がる。きょうは程良い暖かさであるし、見晴らしも良い。ベンチに座ってしばし景色を眺める。

青野山と新緑
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段々畑が広がる東麓
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 JR山口線の線路脇にピンク色の丸い山が見える。先ほど車窓にも見えたが、山全体にツツジが植えられているらしい。
 津和野駅を発車したディーゼルカーが登ってきた。
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天守台の石垣の上から
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赤瓦で統一された津和野の街並み
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陽を透かす新緑の美しさ
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 リフトを下り、次は津和野の街を歩く。

次の記事 

桜満開の西尾城と城下町を散策する

旅行日:令和3年3月20日~4月1日⑤

最初の記事 桜満開の五条川と清洲城
前の記事 桜満開の犬山城の周りを歩く

 年度が変わり、4月1日の朝を迎えた。勤務の都合で休みとはいえ、こんな日に旅先にいる会社員は珍しいに違いない。
 地下鉄の24時間券は7:16入場までなので、昨日よりも少し早発ちした。桜通線と名城線を乗り継ぎ、金山駅の近くで朝食を摂ってから名鉄に乗る。

 金山7:52発の急行国府ゆきでスタート。郊外に向かう電車であるが、乗客は多い。
 桶狭間を抜けて三河国に入り、新安城8:21着。5分後に出る西尾線吉良吉田ゆきに乗り換える。4両連結で、後ろ2両は西尾止まりであった。
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(スマホ撮影)

 安城市街に近い南安城からの乗車が多く、客が通路にも立った。JR安城駅からの乗り換え客だろうか。
 西尾線はほとんどの区間が単線だが、複線分の敷地が確保されているようだ。南桜井での下車が多く、一気に空いた。線路の両側に大きな工場が立地している。

 長い橋梁で矢作川を渡る。この流れは江戸時代初期に築かれたもので、それ以前は西尾の東を流れていた。
 高架に上がると西尾口という駅がある。名鉄にはこの手の「◯◯口」駅が多い。この駅を発車したところで複線になり、高架線を走って西尾着。
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 観光案内所で市街地マップを頂戴し、まずは西尾城址を目指す。「愛知県西尾市」という地名からは「張国の西部」を連想してしまうが、ここは三河国の西部だ。

みどり川沿いの桜並木
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 小高い台地に上がると城櫓が見えてきた。
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 西尾城が築かれたのは鎌倉時代に遡る。この地域は幡豆郡吉良荘に属していた。承久の乱の戦後処理で足利氏三代の義氏が三河国守護を任じられ、西条城を築いた。吉良荘は矢作川で二分されており、西条・東条と区分されていたらしい。義氏は子の足利長氏を吉良荘の地頭に配し、長氏は吉良氏を名乗った。
 義氏はさらに承久3年(1221)に東条城を築き、三男義綱を配した。

 吉良氏は西条城の長氏と東条城の義継の系統に分かれ、足利氏の勃興に貢献した。観応の騒擾では西条家が直義、東条家が尊氏に加担して争った。戦国時代には今川氏の傘下に入ったあと、徳川家康が伸張し、西条城には酒井政家が入った。この際に地名を「西条」から「西尾」に改めた。吉良義昭は永禄6年(1563)に起こった三河国一向一揆に加わり、滅亡した。赤穂事件の吉良(上野介)義央は義昭の弟義定の孫にあたる。

 近世の姿になったのは天正13年(1585)頃のことで、徳川家康の命によって三河国の国中から人足を徴発して築城に動員された。その後、城主となった太田資宗や井伊直好が総構えを整える工事を行い、明暦3年(1657)に完成させた。

 立派な城門をくぐり、二之丸に入る。二之丸鍮石(ちゅうじゃく)門という。大給松平氏が入封した際、江戸城の同名の門(本丸大手の中雀門)にちなんで改称した。
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 二之丸には椿園が設けられているほか、旧近衛邸が京都から移築されている。
 この邸宅は島津家により、江戸時代の末に右大臣近衛忠房邸内に建てられた。皇族の別邸を経て天理教京都河原町大教会となったが、取り壊されることになったものを保存をかねて移築した。
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旧近衛邸の石庭
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椿園のツバキの花
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枝を広げた桜木と本丸丑寅櫓
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 濠と濠に挟まれた土橋を渡り、本丸に進む。城門は失われ、代わりにサクラのトンネルができている。
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 江戸時代初期、太田氏から井伊氏の時期は城下町を土塁と濠で囲んだ総構えであった。当時は天守が本丸北東隅に位置していたが、正保期(1645-48)頃に二之丸に移った。
 旧天守のあった北東側(丑寅の方角)の隅には丑寅櫓が聳える。 三層の小さなものだが、中に入ることができて、眺めは上々だ。
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 本丸には御劔八幡宮が鎮座する。足利義氏が西条城を築いた際に、石清水八幡宮を勧請して創建したものだ。
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本丸丑寅櫓と桜
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 今では見る影もないが、西尾城の南側は沼沢地であった。石垣の下に小川が流れているのが面影だ。
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西尾周辺の地形
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(地理院地図「自分で作る色別標高図」で作成)

 台地上の中町通りを北上し、城下町に入る。大手門跡と記した標柱が立っているが、面影は乏しい。
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 中町通りに面して、大きな楼門をそなえた寺がある。
 聖運寺といって、御劔八幡宮の六坊の一つ宝光坊の後身とされる。山門は大正8年(1919)に建立された。
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本堂
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 本町通りの突き当りに立地するのは康全寺。
 応永5年(1398)に吉良氏6代の満貞が御劔八幡宮六坊の神宮寺と金剛院を合わせて創建した。当時は満貞の名から「満全寺」と称したが、三河国に版図を拡大した徳川家康により、「康全寺」と改めた。ただし、所在地は明治4年以来「西尾市満全町」である。
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本町通りの蔵造り商家
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 肴町通りを北上する。名前の通り魚屋をはじめとした商家が建ち並んでいたエリアで、ところどころに古い商家が残っている。
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角地を生かした薬屋
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 中町通りからさらに一本奥に入ったところには盛厳寺がある。小ぶりな門だが、瓦屋根が立派で格式を感じさせる。
 この寺は大給松平氏の菩提寺で、天正18年(1590)に上野国那波(群馬県伊勢崎市)で創建された。譜代の大給氏は転封が多く、美濃国岩村、遠江国浜松、上野国館林、下総国佐倉、肥前国唐津、志摩国鳥羽、伊勢国亀山、山城国淀、下総国佐倉、出羽国山形を経て、明和元年(1764)に西尾に入封した。寺も移動を繰り返し、この年に西尾に移ってきた。
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本堂
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 街の外れの方に立地する西尾市立図書館にはレンガ造りの建物が建っている。
 明治41年に町の実業家・岩瀬弥助によって創設された岩瀬文庫だが、あいにく修復工事中で、正面には足場が組まれていた。
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敷地内の白い建物は旧岩瀬文庫児童館
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 肴町と天王町の間の唯法寺脇には石垣と板塀に囲まれた小径が延びる。寺町の面影が色濃い。
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唯法寺の本堂とカエデの新緑
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 最後に駅東側の商業施設「ヴェルサウォーク西尾」に立ち寄り、「南山園」という茶舗で抹茶ソフトクリームを買う。本当はパフェに手を出したかったが、昼食が迫っている。西尾市は抹茶の原料となる碾茶の生産が盛んで、抹茶スイーツを盛り上がっている。名鉄もスイーツやランチがセットになった切符を販売している。
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(スマホ撮影)

 駅に戻り、11:13発の急行吉良吉田ゆきにギリギリで間に合った。西尾以南は1時間に2本しかない。溶け落ちたソフトクリームで指先がベタベタする。

 電車は矢作古川を渡る。江戸時代初期まではこちらが矢作川の本流だったそうだが、相当に乱流・分流していたと思われる自然堤防上の集落が点在している。今は落ち着いた流れで、堤防の桜が盛りだ。

 終点の吉良吉田で蒲郡線に乗り換える。この駅には平成16年まで碧南から三河線が通じており、一部の線路が残っていた。
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次の記事 



春の穏やかな青海島―海上アルプス、波の橋立とレンゲの花畑

旅行日:令和3年4月8~10日②

最初の記事 秋吉台のカッレンフェルトを散策する
前の記事 秋吉台に湧く水、消える水―白水池と別府弁天池、江原ウバーレ集落と於福洞

 国道316号で大ケ峠を超え、長門市に入った。
 長門市の中心集落は深川川河口の深川(正明市)と湊町の仙崎で、仙崎は青海島に向かって延びた砂州の上に位置する。

 砂州の先っぽから青海大橋で島に渡り、島の東の「通(かよい)」まで行ってみる。青海島は二つの山がくっついたような地形で、中央部には仙崎湾の内湾である紫津浦が入り込んでいる。
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 通は漁港集落であった。捕鯨の盛んな地であることを反映して、鯨墓がある。平坦地は少なく、家々が密集している。闖入者がクルマを停めるところも少ないようだ。Uターンしてから遠景で眺めた。
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通の田ノ浦港
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 引き返して紫津浦の湾奥部へ。
 クルマを離れ、遊歩道を少し歩くと外海に面した砂浜に出られた。地峡をなしており、東西の海が約250メートルにまで接近している。地形図には「船越」の地名があるから、昔は舟を運んで行き来していただろう。

 青海島は島の南北で二面性を持っている。
 ここまで辿ってきた島の内側は穏やかな湾と地形からなり、集落が点在している。一方、外側は日本海の外海に面していることから峻険な地形をしており、「青海島海上アルプス」の異名がある。

 地峡部からは東側に散策路が延びている。いきなり階段が連続する。たちまち海が下方に広がる。澄明な磯に岩峰が突き立っている。
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 沖合には平べったいカタチの島が見える。萩市の相島だ。阿武火山群に属する火山の島だが、この地域の火山は単性火山群(それぞれが一度だけの噴火によって形成された山)であるので、たびたび噴火する火山島とは異なる。
 きょうは空気が澄んでいるので、浸食によって周囲が切り立った崖に縁取られているのが見える。
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ツツジが咲く
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 松林の中を登り下りを繰り返しながら歩く。秋吉台では曇っていた空もいつの間にか晴れ渡っており、陽射しが強い。きょうは気温が低めなので快適な歩きだ。鳥取県の浦富海岸で流汗淋漓になった5月の旅を思い出した。
 眼下にはペン先のように尖った岩や海蝕洞、洞門が現れる。海から「海上アルプス」を眺められる青海島クルーズも出ているそうだ。
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東に切り立った海蝕崖が続く
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 浜辺に下りる階段を見つけた。降りたらまた登ってくるのが大変なのはわかっているが、誘惑には勝てない。
 三方を岩山に囲まれた小さなビーチで、海側には岩場が天然の防波堤を造り、プールのようになっている。漂着したゴミは日本語とハングル文字が半々くらいなのは地域柄だ。
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見上げる崖の迫力
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 再び高みに登る。
 この場所からは相島だけでなく、東隣の尾島と櫃島も重なって見えた。
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松林の中に白い花が咲く
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 青海大橋の近くまで戻り、今度は島の西側へと走る。
 仙崎の砂州を境に、西の内海は深川湾となる。青海島側には汽水湖の青海湖があり、波の橋立という砂州が海を仕切っている。
 高台から見ると、砂洲を境に少し色も違っているようだ。
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 かつて青海湖の周辺はは深川湾の内湾だったのだろう。湾内の海流によって砂州が堆積し、湖が切り離され、山からの土砂の堆積や干拓により、水田が広がる平地が形成された。
 かつては湖の一部であったであろう田んぼの中を進むと、一面にレンゲ(ゲンゲ)が咲いた区画があった。
 青海湖やその周辺の田んぼには、旅の途中なのかカモが群れている。私の気配に気づくと、一斉に飛び立つ。
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色鮮やかな花畑
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遠くにカモが飛ぶ凪いだ湖面
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 しばらく歩いて砂洲の付け根に辿り着いた。Uターンができなかったらどうしようかと道の広いところにクルマを停めてきたのに、駐車場があってガッカリする。
 波の橋立にも道は通っているが、車止めがあった。深川湾側には点々と突堤が築かれ、辛うじて砂浜が保たれているようだ。
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砂洲ハマダイコンの白い花が咲く
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 帰りは青海大橋の袂でもクルマを停めた。小さな公園があり、橋を見下ろせるようになっていた。水道の幅は狭く、青海島側が高くなっているので、仙崎の街や漁港が一望にできる。
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漁港の中に見える緑は陸続きになった弁天島
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 時刻は17時半。あと1時間ほどで日没だ。せっかく日本海側に来ているので、どこかで夕陽を見たい。
 仙崎から国道191号を西に走る。帰宅ラッシュの時間を感じさせないほど、交通量は少ない。

 青海大橋から1時間で角島大橋の袂に到着した。まさに陽が沈もうとしている。
 角島大橋といえば海の淡い青さで知られるが、いまは夕暮れの色に染まっている。
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角島に日没
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橋を見下ろす高台から
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 あとは今夜の宿のある山口市の小郡まで走り抜くだけだ。無闇に西に来てしまったので、2時間もかかるらしい。
 特牛で国道435号に折れて内陸に入る。滝部、西市を経て美祢市に入るルートであるが、線形は良く、信号も少なく、交通量も僅かだ。オートハイビームが活躍する。
 美祢でコーヒーブレイクののち、県道に移って二本木峠を越え、小郡に到った。

 レンタカーは翌朝に返却した。

次の記事 新緑の津和野を歩く(前) 石垣が遺る山上の津和野城址へ

桜満開の犬山城の周りを歩く

旅行日:令和3年3月20日~4月1日③

最初の記事 桜満開の五条川と清洲城
前の記事 名古屋城下めぐり―三ノ丸官庁街、瀬戸線外濠廃線跡、徳川園

 名古屋城とその周辺を回り、大曽根の徳川園を訪れた。清須(洲)城、名古屋城と来たので、犬山城にも足を延ばしてみよう。
 最寄り駅の大曽根から地下鉄名城線に乗り、次の平安通で上飯田線に乗り換える。上飯田線は1駅間だけのミニ路線で、次の上飯田から名鉄小牧線に乗り入れ、犬山まで直通する。名鉄の都心直通のための路線だ。もともと上飯田で市電と名鉄が連絡していたので、その境界を踏襲しているのだろう。
 15:58発の電車は名鉄の車輛であったが、真っ赤な塗装ではないので、あまり名鉄らしくない。
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 電車は上飯田で名鉄に入ったあともしばらくは地下を走り、矢田川、庄内川をくぐってから地上に出る。
 地上に出ると、住宅地の中を進む。左手には名古屋飛行場が続く。路線名になっている小牧の附近は地下化されていて、小牧城の山は見えなかった。
 徐々に田園地帯の割合が増し、犬山線、広見線合流し、犬山着16:32。

 犬山城の入場が16時半までなのは確認していたが、天守は外からも見えるので、近くまで行ってみよう。
 駅から城下町までの道は狭く、歩道がない。犬山城帰りらしい人々で溢れかえっていて、擦れ違うのも大変だ。若い人が多い。遠くに出掛けられないから、近郊の名所に集まっているのだろうか。
 本町通に折れると歩行者天国のような状態になり、ほっとする。沿道には土産物屋や飲食店が多く、観光地色が強い。山上の犬山城天守が近づいてくる。
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 城山の麓から中腹は針綱神社の社地となっている。平安時代以前に創建された古い神社で、もともとは城山にあったが、犬山城築城にあたって城下に遷座した。現在地に遷ったのは明治15年のことだ。
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 近くから天守が見られる場所がなく、眺めのいい場所を探しながら木曽川に築かれた犬山頭首工(ライン大橋)まで歩いて行った。この橋を渡ると愛知県から岐阜県に入る。
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 犬山城は天文6年(1537)頃、砦のあったこの地に織田信康(信長の叔父)によって築かれた。信康は斎藤利政(道三)との戦いで戦死し、子の信清が城主となったが、信長と対立して甲斐国に逃亡した。
 信長の時代は池田恒興や織田信勝(信長の五男)、本能寺の変後は尾張国の領主となった織田信雄に属した。小牧・長久手の戦いでは恒興の奇襲によって豊臣秀吉方の拠点となり、小牧城の徳川家康と対峙した。
 江戸時代に入ると、清須藩(→名古屋藩)領の北の拠点として、附家老(幕府から送り込まれた家臣)が配置された。当初は平岩親吉であったが、元和3年(1617)に成瀬正成に変わった。以後、幕末まで成瀬家が城主をつとめた。
 犬山城の天守は現存12天守のなかでも最古とされるが、現在のような姿になったのは正成が大改修を行った元和3年から6年頃とされる。それでも400年以上前で、充分古いが…。
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花は日陰になっていたのでフラッシュを焚いて撮影
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天守を遠望する
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 対岸に天守を見ながら木曽川沿いを歩き、上流の犬山橋で愛知県に戻った。橋の袂に犬山遊園駅がある。駅の裏手にある寺の桜木が見事であった。
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 電車で犬山駅に戻り、今度は広見線に乗る。17:51発の新可児ゆきだ。
 県境の丘陵地帯を越え、18:10新可児着。路線名の「広見」は可児市の中心集落だ。ここで御嵩ゆきの電車に乗り換える。2輛連結のワンマン運転で、客は少ない。陽が落ちてだいぶ暗くなってきたが、まだ車窓は眺められる。
 可児川に沿った細長い平地を遡り、終点の御嵩には18:25に着いた。
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御嵩駅は集落に突っ込んだような立地
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 御嵩は中仙道の宿場町であった。
 中仙道は木曽路を南下し、大井宿(恵那市)から山間部を抜けて太田宿(美濃加茂市)に通じていた。間の大湫宿-細久手宿-御嶽(御嵩)宿-伏見宿は御嵩を除いて近代の鉄道ルートから外れ、あまりなじみがない。いずれ辿ってみたい。
 宿場町の中はもう暗い。可児川に架かる橋の上に来ると、まだ空には明るみが残っていた。
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 御嵩18:59発の電車を新可児で乗り継ぎ、犬山へ。ここで普通から準急に変わるが、それよりも速い特急があったので、乗り換える。名鉄名古屋には20:25に着いた。

次の記事 桜満開の西尾城と城下町を散策する

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さがみぃ

Author:さがみぃ
中の人は相州生まれの相州育ち。アラサー。
地理・地図好きの筆者が、街を歩いたり、ドライブしたり、列車に乗ったり、山に登ったりしたことを書いていきます。大体3日おきに更新中。

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