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【「旅のはなし」の水先案内】

 「旅のはなし」をご覧いただきましてありがとうございます。
 当ブログは、各地への旅行記を掲載しています。その数は約350編、トータル1,000本を超えています!記事数が膨大で、行った順番と投稿する順番が前後することもありますので、以下の各「INDEXページ」もご参照ください。

□地域別旅行記INDEX:北海道 | 東北 | 関東 | 東京神奈川 | 北陸 | 甲信 | 東海 | 関西 | 中国四国 | 九州沖縄

□年次別INDEX令和3年 | 令和2年 | 平成31年/令和元年 | 平成30年 | 平成29年 | 平成28年平成27年平成26年平成25年平成24年|平成23年(準備中)|平成22年平成21年平成20年
※「年次別INDEX」では、各年の旅行記のほか、訪問都道府県の統計、JRの新規乗車路線などもまとめています

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秋深まる鹿児島散策(1) 鹿児島城と城山展望台 (甑島に渡る秋の鹿児島県の旅・10)

旅行日:令和3年11月17~20日⑩

最初の記事 紅葉の霧島をドライブ(前) コスモス畑から高千穂河原へ
前の記事 甑島への旅(7) 里→鹿島→長浜→串木野、遠回り航路の船旅

 甑島から川内に戻り、鹿児島で一泊。この旅の最終日を迎えた。今夜のフライトで帰るまでは鹿児島市周辺をブラブラしようと思う。
 7時半頃に鹿児島中央駅へ。街歩きには少し早い時間なので、市内電車に乗ってみよう。「市電・市バス シティビュー一日乗車券」(600円)を購入するので、電車は乗り放題だ。
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 郡元ゆきの電車から谷山ゆき乗り継ぐと、涙橋の先で専用軌道に移った。JR指宿枕崎線と並行している。国道沿いに移り、永田川の手前の終点・谷山電停に到着。谷山は昭和33年から42年までは谷山市という自治体であったが、鹿児島市に編入された。函館市電の終点があった北海道亀田市(函館市に編入)と似ている。
 路面電車にしては珍しく駅舎があり、バスとの乗り継ぎの便も配慮されている。駅舎は顔のようなデザインをしている。その前に「日本最南端の電停」と記した標柱が建っている。
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沿道から電車も写すもブレた…
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 隣の上塩屋電停から鹿児島駅前ゆきの電車に乗車。谷山発着の系統は鹿児島中央駅を経由せず、武之橋を通って天文館通に抜ける。鹿児島中央駅へはJRで行かれるので、都心直結によって利用者の棲み分けを図っているのだろう。
 市街地に向かって客が増え、そして空いて、街の東の方の市役所前で下車。

 鹿児島市役所(市庁)本庁舎は昭和12年の建築で、中央に塔屋を配した官庁建築を採用している。正面から港に向かってプロムナードが延びており、写真の方も充分に引きがとれる。
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 市役所の裏側が鹿児島城址。石垣を巡らしてある。戦国時代の島津氏の本拠は内城といい、現在の鹿児島駅のすぐ北側にあった。関ケ原の戦いのあと、当主となった島津忠恒(家久)がこの地に築城したが、徳川家に遠慮して天守などは建てなかったとされる。
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 鹿児島城は西南戦争で破壊されたため、石垣以外の遺構に乏しい。
 大手門であった御楼門は昨年、令和2年(2020)に復元された。高さ約20メートルの重厚な楼門で、屋根には鯱が載り、このうち阿型の方は420キロもあるそうだ。
 今では市街地と城址を区切る場所だが、往時は二ノ丸と本丸の間の門であった。
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西南戦争の際のものと思しい弾痕が残る石垣
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 鹿児島城址の背後は城山だ。島津氏が併呑した上山氏の居城があったことに由来する。往時は海に向かって迫り出していたのだろうが、今は市街地に突き出している。
 その山裾を少し西に進み、照国神社を目指す。イチョウの巨木が黄色に変わり、青空に映える。
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 照国神社は島津斉彬を祀る。「照国」はその死後に朝廷から与えられた号だ。
 斉彬は島津氏第28代当主の藩主で、集成館の設立などによって西洋技術を積極的に取り入れた。集成館跡はのちほど訪れる予定だ。
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翼を広げたようなイヌマキの樹
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 神社の脇から城山に登る。南国らしく樹相が濃い。
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 山の上には鹿児島市街や桜島を望む展望台がある。森の中は人気も少なかったが、ここは賑わっている。木々の枝が延びて視界が狭まっているのが残念だ。
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眼下の市街地。右下に照国神社の鳥居が見える
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 この後は周遊バス「カゴシマシティビュー」で仙巌園に向かう予定だが、城山停留所の時刻表を見ると発車までやや時間がある。
 私は坂を下って西郷洞窟を訪れた。西南戦争の終盤の城山の戦いの折、西郷隆盛らが籠城したと伝わる地だ。私は好きな歴史上の人物がいないという無味乾燥な人間であるが、西郷さんの人気には目をみはるものがある。
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 西郷洞窟前停留所10:26発の「シティビュー」に乗車。国道10号を走ってトンネルを抜けると錦江湾が見えてくる。渋滞で少し遅れたが、仙巌園(磯庭園)前停留所で下車。

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「みさきまぐろきっぷ」で真夏の三浦三崎小旅行(後) 三崎港から油壺の岬へ

旅行日:令和4年8月2日②

前の記事 「みさきまぐろきっぷ」で真夏の三浦三崎小旅行(前) 夏の花咲く城ケ島に渡る

 城ケ島からのバスを三崎港の手前の日ノ出で降りた。入り江に面した漁港集落だ。この入り江は本土と城ケ島との間の瀬戸から北に入り込んでいるので、外海が荒れても影響は少なそうだ。
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 海沿いを巡る国道を外れて路地に入る。岬状の小山を取り巻くように家々が建て込んでいる。古い建物も多い。
 路にはみ出した樹や迫り出した魚屋など、散策を楽しくしてくれる。
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石貼りの洋風建築
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土蔵造りをリノベーションした宿泊施設
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昔のトヨタのロゴを模した喫茶「トエム」の看板
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 海南神社は天元5年(982)創建の古い神社だ。祭神の藤原資盈(すけみつ)は貞観6年(864)に当地に着岸し、推戴されてこの地を治めたとされる。
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海南神社の社殿
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 12時少し前に「三崎館本店」に入る。立派な木造建築の料亭だが、「みさきまぐろきっぷ」の「まぐろまんぷく券」(食事券)が利用できる店舗の一つだ。
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 店内は畳敷きだが、席はテーブルであった。窓から漁港が見える。
 食事券メニューは刺身、天ぷら、酒盗などからなる定食で、美味しかった。まだ歩くのでお酒は自重しておく。
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 午後はバスと歩きで油壺までを繋ぎ、温泉に入って帰ろうと思う。
 三崎港12:30発の浜諸磯ゆき京浜急行バスに乗る。バスは西海岸に出て、海外で下車。「海外」とは面白い地名だが、これで「かいと」と読む。三崎港の中でも外海に面しているからついた地名だろうか。
 海外町の道沿いでは地層のスランプ構造が観察できる。
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 露頭は縞模様をしているが、一部が「Ω」のように盛り上がっている。地形学でいうところの褶曲であり、案内板によると、海底地辷りによるものと考えられているそうだ。
 「地質図Navi」によると、露頭の地層は新第三紀層の三浦層群のうち、もっとも下層部に位置する三崎層で、年代は中新世のトートニアン期から鮮新世のザンクリアン期(1163万~360万年前)となっている。海底に堆積した砂岩とシルト岩の互層だ。
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明瞭な褶曲
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草に蔽われた別の露頭。下部がスランプ構造?
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 屋志倉から油壺にかけては西海岸のバス路線が途切れている。さほどの距離ではないから歩き出したものの、たちまち汗が噴き出した。新興住宅とも別荘ともつかぬ住宅が多い。
 諸磯湾、油壺湾の湾奥にタッチするが、リアス海岸なので、湾を取り囲む主脈を越えるためにアップダウンが連続する。二つの湾ともヨットが整然と係留されている。
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湾口が見えない油壷湾の奥部
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 油壺に通じる県道を左折。右も左も海のはずの高台ではあるが、樹木や建物に遮られて視界は利かない。
 県道の行き止まりは油壺マリンパークであるが、昨年閉園してすっかり寂しくなった。
 ひっそりした施設跡の脇を下り、磯に出た。小さなビーチがあって、賑わっているのが見える。一方、磯の方は不人気らしく、バーベキューや釣りをする人たちがまばらにいるに過ぎない。
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 やけに広々とした隆起波蝕棚の上を進む。数百年前は岬を波が洗っていたのだろうが、地震による度重なる隆起によって岬を取り巻く磯になったのだろう。崖にはいくつも海蝕洞が口を開けているが、柵で封鎖されている。崩落が進んでいるようだ。
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 水平線上には鎌倉辺りの丘陵がぼんやり霞み、人工物は隠れているので、神奈川県にいることを忘れさせる。どこか知らぬ土地に来たかのようだ。
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 岬の北は小網代湾。波蝕棚が切れて深い淵になっている。
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 とても進めないと思ったが、迂回する路があった。ただ、高台を回る割には海側の柵が壊れているし、陸側は草木が生長していて通りづらかった。下りは下りでじめじめしており、滑らないように慎重に進んだ。足元を小さなカニが逃げてゆく。

 再び登り、「ホテル京急油壺観潮荘 三浦半島最南端 油壺温泉」に到着。「みさきまぐろきっぷ」の「三浦・三崎おもひで券」を使って入浴していく。あまり広くない浴場は空いていたが、ちょうど海水浴帰りの若い人たちのグループにあたってしまった。

 すっかりさっぱりして、帰路は油壺温泉14:55発のバスと三崎口15:22発の快特を乗り継いだ。横浜市内に入る頃から眠ってしまい、目を覚ますと野毛台の下をくぐり抜けたところであった。

「みさきまぐろきっぷ」で真夏の三浦三崎小旅行(前) 夏の花咲く城ケ島に渡る

旅行日:令和4年8月2日①

 猛暑日の連続で出掛ける意欲をそがれるが、天気は良い日が続いている。神奈川県は小田原、県央は暑いが、三浦半島ならば少し気温が低い傾向にある。城ケ島など物心ついてから行ったことがないので、無理のない範囲で歩きに行ってみようと思い立った。

 横浜駅で「みさきまぐろきっぷ」を購入し、8:19発の特急三崎口ゆきに乗る。きっぷは3,670円(横浜発分、チケットレスは100円引き)とやや高めだが、切符(往復と現地の電車・バスフリー)食事とアクティビティの引換券が各1枚ついている。これだけで日帰り旅が賄えるようになっていると考えると安い。

 電車はラッシュの余波でノロノロ運転だったが、上大岡を過ぎると速度を上げた。車窓に海はほとんど見えないが、建物の後ろの房総半島の丘陵に海の“気配”を感じることはできる。久里浜で7分も停車したので、三崎口には9:20着。掘割の中の駅はセミの声がやかましく、耳を聾する。

乗ってきた電車。折り返し久里浜止まり
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 城ケ島ゆきのバスは17分発が出たばかりで、次は51分発まで開いている。神奈川県内の旅だから気を抜いていたが、最初の乗り継ぎくらいは調べておくべきであった。

三崎口駅のバスプールに京浜急行バスが並ぶ
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(以上2枚スマホ撮影)

 駅で待っていても退屈なので、三崎東岡ゆきのバスで先行。東岡町は港の手前の高台にあり、三浦半島南部のバスの拠点になっている。そこまではバスが頻発している。
 スーパーで飲料を用意して暑さに備え、三崎港まで坂を下った。暑いには暑いが、海を渡ってくる風は心地よい。
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道端で魚を干している
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路地で華奢なネコがゴロゴロ
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 少し遅れてきた10:06発のバスは港を回り、急な坂を高台に登ると、城ケ島大橋に差し掛かる。近いところでは幅が250メートルほどしかない狭い瀬戸だが、大型船を通すために高いところに架かっている。右に三崎港を見下ろし、左には房総の山並みが霞んでいる。

 島に渡るとぐるりと回って高度を落とし、白秋碑前バス停で下車。バス停名は北原白秋の文学碑があることにちなんでいる。
 城ケ島大橋は昭和35年の開通。橋の開通によって城ケ島の海峡側の開発が進み、三崎港の拡大が可能になった。一方で、埋め立てが進んだことで自然海岸的な景観は失われてしまった。残った僅かな海岸で子供たちが水遊びをしている。
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 城ケ島は東西に細長く、東の安房崎は城ケ島公園として整備されている。暑くてあまり歩けなさそうなので、中央部の外海側を辿ってみよう。
 崖の上に出た。海を渡ってくる風は驚くほどひんやりしている。エアコンではない天然の涼風に嬉しくなるが、滅多に吹いてこないからじらされているようだ。
 断崖を波が洗っている。岬は笹藪に被われており、北海道の釧路や根室管内の海岸沿いを想起させる。
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 灌木や草が伸びてアーチ状になった路を歩いて行くと、景色が開けた。草に覆われた海岸段丘が延び、海や空の青との対比が夏らしい。海に接して黒々とした岩場が広がり、崖の側に粒の粗い砂浜が広がる。地理院地図には載っていないが、「赤羽根海岸」というそうだ。
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 急な石段を磯に下りた。
 赤羽根海岸には城ケ島を代表する自然景観である馬の背洞門がある。海蝕洞だが、水面よりも高いところに存在している。
 城ケ島をはじめ三浦半島南部の海岸は大正12年(1923)に起きた大正関東地震によって隆起した。地震以前は波にさらされていたそうだが、地震で隆起したことで離水した。隆起量は約1.4メートルと測定されており、一つ前の元禄関東地震(元禄16年、1703)でも同様の段丘が造られている。
 洞門の上部はやせて細くなっている。隆起せずに波にさらされ続けていたら、今は洞門ではなくなっていたかも知れない。
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近くの別の海蝕洞から外海を覗き込む
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砂地に海浜植物のハマゴウ(ハマボウ)の花が咲く
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 波打ち際の磯も地震で顕れた波蝕棚なのだろう。地震の前は砂浜が直接海に接していたのだろうか。大小の潮だまりに小魚やヤドカリが潜んでいる。
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日陰に白黒ネコが腰を下ろした
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黒々とした磯ごしに馬の背洞門を遠望する
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 赤羽根海岸の西側には長津呂湾が入り込んでいる。隆起波蝕棚に三方を囲まれたいわば天然のプールで、ここは泳いでいる人が多い。
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濃い色のスカシユリ
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 長津呂湾の北側は地溝になっていて、山越えをせずに島の北に出ることができる。
 西側の段丘上には白亜の城ケ島灯台が建っている。三浦半島南端にあたる重要な灯台なので、初代は明治3年(1870)点灯という長い歴史を有する。当初の灯台は大正関東地震で倒壊したため、大正15年に再建された。
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高台から水道と三崎港を望む
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 段丘崖の斜面に赤い花をたくさんつけた樹が生えている。デイゴのようだ。しかし、島唄でおなじみのデイゴは南西諸島以南にのみ生えているそうなので、アメリカデイゴなどの別種らしい。深紅の花と緑の葉が青空に映える。
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 城ケ島バス停11:20発のバスに乗る。この時間に三崎に戻っておかないと、昼食がピーク時間帯に直撃してしまう。客は僅かで車内は冷房が心地よかった。
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城ケ島大橋から夏空の三崎港を見下ろす
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青春18きっぷ(+α)でミニトリップ―明知鉄道で黒い板壁の城下町岩村へ

旅行日:令和4年7月25・26日②

前の記事 青春18きっぷ(+α)でミニトリップ―明知鉄道で山間の陣屋町明知へ

 明知鉄道で終点の明智から引き返し、岩村で途中下車。この線で唯一行き違いができる駅で、ほとんどの上下列車が擦れ違う。互い違いに配された短いホームなど、ローカル線らしいストラクチャが揃っている。
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ホームでは腕木式信号機の動作体験ができる
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 岩村の鉄道の歴史は古く、明治39年に岩村電気軌道が中央線の大井駅(恵那駅)との間を結んだ。中央線が多治見から中津(中津川)まで延びて大井駅が設置されたのが明治35年のことであるから、かなりの先見性が感じられる。明治期に電車を走らせられたのは木曾川水系が電源地帯として早くから開発されたこととも関わり深い。
 岩村電気軌道は矢作水力電気軌道に引き継がれたが、明知線の開通と引き替えに廃線になった。

岩村駅の駅舎
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 岩村は岩村城の城下町だ。岩村城には「日本三大山城」や「女城主」といった冠詞がつくが、そのことは後述する。

 駅から3、4分も歩くと小さな辻があり、そこを折れると景観が一変した。道の両側に低層の木造建築が並んでいるのだ。電線が埋設されているので、非常にすっきりしている。もっとも、令和の世であるからクルマが停まっていたり、商店の鮮やかな色の幟がはためいていたりする。
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気多天満宮とレトロなクリーニング店
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軒下には提灯
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 登るうちに道が鉤型に折れ曲がった。ここがもとの城下町の入り口で、土塁と木戸があった由。街の発展とともに当初の“都市計画区域”には収まらなくなり、土塁の下に広がっていったそうだ。ここまでの街は西町で、「土手下」ともという。
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角地の「京屋」
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 木戸跡を過ぎると本町に入る。町人地の本町は上町・中町・下町に分かれる。
 街並みはなだらかな坂の上に向かって連なる。背後に城山の濃い緑が聳え、景観のバランスが良い。岩村の城下町は岩村川の扇状地に造られている。したがって、登るにつれて坂が急になってくる。
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 岩村の大商人であった勝川家と浅見家が並ぶ。
 勝川家は「松屋」の屋号で藩の御用商人をつとめていた。年貢米を売りさばく役目を担い、敷地内には3,000俵の米を納める巨大な米蔵をそなえているという。
 浅見家は城主に従って上州から来た商家で、幕末には大庄屋となった。浅見与一右衛門は町の庄屋からの有力者で、明治27年に岩村電気鉄道を設立した。同社は岩村川に水力発電所を築き、先述の岩村電気軌道を走らせ、沿線には電灯が点った。
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景観のアクセントになっている石貼りの看板建築
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 「土佐屋」の河合家は染物業を営んでいた。建物が公開されており、間口に対して長い奥行きに驚く。
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小さな庭を挟んで居住空間がある
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藍染工場の遺構が残る
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 土佐屋の向かいの木村家は元は三河国挙母藩(愛知県豊田市)の藩士であったが、岩村藩に招かれて問屋職をつとめたという。藩にしばしば御用金を差し出す有力者であり、しばしば藩主も訪れたという屋敷は重厚だ。
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邸内を垣間見る
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 国道と交差する辺りからが上町らしい。連子格子にショーウインドウをそなえた水野薬局のバランスが古い街らしくて佳い。
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黒壁に挟まれた看板建築
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 上町は城山をよけるように緩やかにカーブし、南に道が続く。この先は木ノ実峠を越え、上村(恵那市、旧上矢作町)に通じていた。
 街はずれの方は観光色も薄れ、家々の黒板壁のシブさが際立つ。
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太(皇大)神宮の常夜灯(側面には秋葉大権現、金毘羅大権現の名も)
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 常夜灯の脇を折れ、岩村川を渡る。扇状地で伏流することもあり、水量は少ない。今はコンクリートで三方を固められているが、江戸時代から戦後期までは河床が上がり続けただろうし、水害に見舞われることも多かったのではないだろうか。
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 岩村川の北側は旧武家地。面影には乏しいが、広いグラウンドがあったりするのは広大な屋敷地の名残なのだろう。暑いのに学生がトンボをかけている。
 ひときわ急な坂を登っていくと、岩村城の石垣や門が現れた。太鼓櫓は復元されたものだが、江戸時代に城下に時刻を報らせていた城のシンボルの一つだ。
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 岩村城も山上にあり、暑いので登城は見合わせる。城山には石垣が残り、秋の雲海がひときわ美しいそうだ。

 平安時代の末に恵那郡の大部分が遠山庄となり、鎌倉幕府成立により加藤次景廉が地頭に任じられた。景廉は源頼朝の挙兵に際して伊豆国目代の山木兼隆を討ち取った人物である。景廉の子・景朝が遠山氏を名乗った。遠山氏は苗木、岩村、明知などに分かれていった。

 元亀元年(1570)、武田信玄は秋山信友に岩村城を攻めさせた。城主・遠山景任は織田信長に救援を求めた。信濃国、美濃国、三河国が接する恵那郡は武田、織田、徳川の微妙なパワーバランスの狭間にあり、景任は信長の叔母であるおつやの方を娶っていた。元亀4年に景任が歿したため、信長は五男の御坊丸に家督を相続させたが、実質的には未亡人のおつやの方が城主となった。しかし、おつやの方は秋山信友と再婚してしまう。
 天正3年(1573)、長篠の戦ののち信長は嫡男信忠に岩村城を攻めさせ、信友を降伏させた。岩村城には河尻秀隆が配置され、近世城郭へと発展した。

復元された塀や城門
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 関ケ原の戦いののち、慶長6年(1601)に上野国那波郡から大給松平氏が所領2万石で入封し、岩村藩が成立した。岩村藩主は丹羽氏を経て元禄15年(1702)に大給石川松平氏に変わった。版籍奉還後、城郭の建造物はすべて取り壊された。
 山城では平時には扱いに困るので、松平氏は山麓に居住していた。屋敷は明治14年の火災で焼失した。
 屋敷跡には小さな資料館が立地しており、ここからでも城下町を見渡すことができた。
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 また、「知新館」の門も移築保存されている。知新館は元禄15年(1702)に松平乗紀が設けた文武所(藩校)で、城下に所在していた。乗紀とその子・乗賢はいずれも名君と呼ばれた人物で、幕府老中を務めたことで岩村藩は3万石に加増された。
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 引き返して坂を下る途中、造り酒屋の岩村酒造に寄り道。「女城主」の銘柄の酒を造っている。
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 岩村城の代名詞のような「女城主」であるが、その実態はドロドロしている。
 武田と織田の攻防の中、元亀4年に城主遠山景任が歿したことに乗じて秋山信友は攻勢を強めてた。信友はおつやの方を妻とし、御坊丸(信長の五男)を養嗣子にすることを条件に降伏させたが、これは謀略であり、御坊丸は甲府に送られた。信長はおつやの方の裏切りに怒り、半年にわたる籠城戦を制すると、信友やおつやの方などを逆磔の刑に処した。

 間口は狭いが奥行きは非常にあり、土間にレールが敷かれている。トロッコで荷を運んでいた名残らしい。
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 建物の下を天正疏水が流れている。河尻秀隆が城下町整備の一環として整備とした用水で、本通りを軸に左右対称に配している。各商家の奥行きが深いため、邸内や建物の下を流れるようになっている。細い流れだが、400年にわたって城下の生活を支えてきた。
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甘酒ソフトクリームを賞味
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(スマホ撮影)

 上町の南の裏手には浄光寺が立地する。浄土真宗大谷派の寺院で、創建は慶長6年。慶安2年(1649)に現在地に移転した。門の脇になまこ壁の塀が連なる。
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 本堂は明和6年(1769)に再建されたもので、置屋根式土蔵造りという珍しい建築様式をとる。
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 裏道を辿ると岩村神社という街の名前を冠した神社に出合った。
 この神社はもともと若宮社という小さな社であったが、明治13年に明治天皇の巡幸の際に10円が下賜され、神社となった。承久の乱の際に捕らわれた一条信能が鎌倉に護送される途中、当地で処刑されたことに由来するそうだ。
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最後に鉄砲鍛冶の加納家を見物
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 コンビニで飲み物を補充してから駅に戻った。12:56発の恵那ゆきは昼間の列車にしては意外と客が多く、15人くらい乗っていた。
 恵那から中央線で名古屋に戻り、ホームの住吉屋できしめんの昼食。熱い麺を食べる気になったのは、車内の冷房が効きすぎていたからかもしれない。
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 湧水の街なら涼しかろうと思って大垣ゆきに乗ったものの、線路内人立ち入りとかで東海道線が遅延。滞在時間が短くなったし、何より暑すぎた。大垣は36度で、駅前の人通りもまばらであった。
 大垣16:11発の特別快速から豊橋、浜松と乗り継いで静岡へ。閉店間際の食料品店街でもろもろ買い込み、「ホームライナー沼津」に乗る。沼津までは40分ほどだが、夕食に丁度いい。
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 沼津、熱海と乗り換え、22:20着の藤沢で戦線離脱。

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さがみぃ

Author:さがみぃ
中の人は相州生まれの相州育ち。アラサー。
地理・地図好きの筆者が、街を歩いたり、ドライブしたり、列車に乗ったり、山に登ったりしたことを書いていきます。大体3日おきに更新中。

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