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宮崎神宮と宮崎市街の近代建築

平成29年3月6~9日④

最初の記事 南九州への旅2017―序
前の記事 日向青島―鬼の洗濯板と青島神社
 南九州の旅,第二日目。
 寄り道した宮崎空港駅10:36発の延岡ゆき普通列車に乗り,宮崎を通り過ぎて11:01に宮崎神宮駅で下車。
 神宮の最寄駅にちなんで社殿風の駅舎があったというが,つい何年か前に解体されてしまったという。駅の入り口には申し訳程度に鳥居が立っていた。

 駅は国道10号に面しており,通りの向こうに大きな鳥居が聳える。宮崎神宮の東参道にあたるようだ。

宮崎神宮駅前の交差点に立つ鳥居
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 通りを進むと前方に神宮の森が見えてきて,境内に入る。社地は25ヘクタールと広く,一劃には博物館などもある。社叢はスギの木が多いが,あまり手入れがされていないのか細い樹が密生していた。
 宮崎神宮は神武天皇(神日本磐余彦天皇)を祀る。その創建時期は詳らかでないが,古記録によると鎌倉時代初期に当地に遷座してきたとされる。古くは神武天皇宮と称されたが,明治6年に宮崎神社,同11年に宮崎宮,大正2年に宮崎神宮と改称された。
 明治31年から40年にかけて規模が拡大され,社殿も改められた。現在の社殿はこの時期に建立されたものである。さらに皇紀2600年を記念して昭和15年(1940)にも拡大事業が行われ,現在の規模になった。
 背景には,神仏分離令と神道の強化があった。政府に先駆けて廃仏毀釈を進めた鹿児島藩では明治2年(1869)にすべての寺院を廃したが,その影響を受けた日向国諸藩でも宗教改革が進められた。宮崎県域では,慶応年間から明治5年までの10年弱の間に約8割の寺が廃止された。

青銅製の鳥居
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四ツ脚門形式の神宮正門
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 正門をくぐると拝所があり,一般の参拝はここで行うことになる。
 拝所の正面は幣殿で,その奥に神殿があるのだが,見えない。幣殿の左右には神饌所(左)と御料屋(右)があり,全体として対称性が強い。

拝所
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拝所から拝むことになる幣殿
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なまこ壁の旧徴古館
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 出るときは表参道へと進み,国道10号に出た。JR日豊線は普通列車の本数が少なく,宮崎神宮駅の宮崎方面ゆきは11:16発のあと12:43発まで開いている。
 そのまま市街地を目指して歩き続けたが,想像していたよりも距離があったのでバスに乗ればよかった。神宮前から橘通の山形屋前まで25分を要した。

宮崎市中心市街地の橘通3丁目交差点。核となる宮崎山形屋
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 橘通を進み,宮崎県庁舎を訪れる。

 県域の話は前々回も触れたが,宮崎県は廃藩置県後の県の統廃合によって明治6年に成立した。それ以前は美々津県と都城県の一部で,両県の境界は大淀川であったから,ほぼ中間地点に県庁が置かれたことになる。
 県庁は政府の命によって宮崎郡(上?下?)北方村に定められ,県名は郡名から決められた。初代参事(県知事)の福山健偉は,北方村は不便であると判断し,上別府村に県庁舎を設けた。明治9年から16年まで鹿児島県に統合されていたことも前々回触れたとおりである。
 西南戦争では,明治10年7月に清武で政府軍に敗れた西郷軍が宮崎に引き,大淀川対岸の中村町に火を放った,宮崎の西郷軍と中村の政府軍の激戦となり,多くの溺死者を出したという。

 現在の県庁舎は,分県50周年記念事業の一環として建設され,昭和7年(1932)に完成した。設計は茨城県庁舎などを手掛けた置塩章。
 前庭に植えられた植物がなんとも南国らしかった。

宮崎県庁舎
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 県庁前はクスノキ並木になっていた。駅前通りも歴史があるのだろう,両側から伸びた枝が道を覆わんばかりに生長している。

県庁前のクスノキ並木
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 県庁の近くに位置する県文書センターは大正15年(1926)築。当初は宮崎県農工銀行であった。

銀行建築らしい重厚な文書センター
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入り口の庇を支える部材の装飾が美しい
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 ホテルで荷物を受け取り,宮崎12:47発の西都城ゆき普通列車に乗る。宮崎・西都城間は普通列車が概ね1時間に1本の割合で設定されている。
 JR九州の新型電車はとてもスタイリッシュなのだが,この電車は前面が黒,側面がアルミ地というシンプルなデザインゆえに汚れが目立つ。

宮崎停車中の西都城ゆき
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 今回4度目の大淀川を渡り,南宮崎を過ぎると丘陵地帯にかかる。新興住宅地らしい街並みが広がり,僅かながら乗降客が入れ替わる。
 都城は大淀川の上流に位置する街であるが,旧高岡町(宮崎市)から旧高崎町にかけてが峡谷になっているため,鉄道は南の方を山越えする。田野を過ぎるといよいよ本格的な登りとなり,標高約260メートルの青井岳駅まで曲線と勾配が著しい。
 長い青井岳トンネルを抜けて下りにかかり,楠ケ丘信号場で待っていた特急「きりしま10号」と交換した。
 あっさり都城盆地が広がり,宮崎から約1時間で都城に着いた。が,都城市の市街地へは都城駅よりも次の西都城駅の方が近いため,私はそのまま西都城まで乗る。

 宮崎県内の鉄道は大正時代に開通し,当時宮崎本線と称されていた吉松(肥薩線)~都城~宮崎の路線が最も古い。ルートには少しでも都城の街に近づこうとする苦心が窺えるが,それでも都城駅は市街地のかなり北に設置された。その後,大正12年に都城で分岐して志布志に到る志布志線が開通し,都城市街の西側をかすめることになったので,西都城駅が開設された。
 さらに昭和になると西城と分(現在の隼人)を結ぶ国都線(国都東線と国都西線)が開通し,東九州の縦貫鉄道が完成した。これにより,路線名が整理され,小倉・鹿児島間が日豊本線と名付けられた。

次の記事 

日向青島―鬼の洗濯板と青島神社

平成29年3月6~9日③

最初の記事 南九州への旅2017―序
前の記事 飫肥城と城下を散策する
 南九州の旅,第2日目。朝から快晴で,宮崎駅から真っ直ぐに延びる通りのクスノキの緑が色濃い。
 きょうは宮崎市内を回り,都城を経て鹿児島まで行く。大きな荷物はホテルに預かってもらい,身軽な恰好で出発する。

宮崎駅前のクスノキ並木
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 まずはJR日南線で青島に向かう。宮崎駅は妙な構造になっていて,2つあるホームごとに改札口が分かれている。ホームを確認し,18きっぷに入鋏印を捺してもらう。
 乗車するのは7:51発の青島ゆき。宮崎止まりの列車の折り返しなので,行き先の書かれたプレート(サボ)が交換される。こういう光景も近い将来見られなくなるだろう。

サボ交換
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 この時間の青島ゆきは宮崎に来る人を迎えに行くための列車のようだ。もう春休みなのか,部活の恰好をした女の子たちが乗り,運動公園で降りていった。加江田川を渡ると宮崎平野が尽き,線路は海沿いに押し出される。
 8:22,青島着。宮崎からの15.3キロに31分もかかっているから,かなり遅い。

青島駅のホームには古そうなタイプの駅名標が…
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ヤシの木が植えられ,南国の雰囲気のする青島駅
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 国道を歩道橋で越えると,道の両側が土産物屋になる。まだ朝だからか,開いている店は少ない。
 それらが切れ,浜辺に出る。青島は陸繋島のような地形だが,陸繋砂州の部分が細いため,橋が架かっている。

青島に繋がる陸繋砂州と弥生橋
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 青島は周りを直線的な波状の岩場に囲まれている。青島の周囲に限らず,宮崎市南部から日南市にかけての海岸にはこの地形が見られ,「鬼の洗濯板」と呼ばれている。
 この地形は泥岩と砂岩の互層(交互に積み重なった地層)で,約15~20度で傾斜している。互層が堆積したのは新第三紀(2303万~258万年前)で,当時は大陸棚上の海底であった。砂は定期的な洪水によって供給されたものだと考えられている。

 泥岩と砂岩では,泥岩の方が軟らかかく,先に波によって浸蝕される。そのため,泥岩が失われ,間の砂岩が突き出してギザギザに残っている。
 互層と傾斜と波蝕によって生まれた特徴的な地形で,奇形波蝕痕と呼ばれている。

ギザギザの岩場と青島神社の鳥居
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岩の波と海の波
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突き出してブロック状に崩れつつある砂岩の層と,浸食されて潮溜まりになった泥岩の層
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逆光とWBいじりでクサい写真を…
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 島内はビロウ樹が密生している。亜熱帯性のビロウ樹自体は九州や四国南部に自生しているが,これほど密生しているのは珍しいという。
 あまりの密林なので,境内から外の景色は見えない。古代の人も自然への畏敬を感じて神社を建立したのだろう。

鬱蒼とした亜熱帯性の樹林に囲まれた青島神社
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奥社へ続く道は昼なお暗し
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海を睨む狛犬
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 青島での持ち時間は8:22から9:39までの1時間強あり,神社に参拝してもまだ半分くらい残っている。そこで,島を一周してみることにした。クルマだったらさっさと次に進んでしまうが,列車だと時間が制約される分,それに即した廻り方ができる。

外海は荒れ模様
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潮溜まりの向こう側から白い砂浜と密林を望む
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人気の少ない北側の海岸にて
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 駅に戻り,9:39発の南宮崎ゆきに乗る。南宮崎・宮崎間は日豊線の単線区間に各線の列車が集中するため,宮崎まで入れない日南線の列車も多い。接続が良ければ乗り換えもやむなしで済むが,この列車の場合は南宮崎10:03着で,10:27まで待たされることになる。これはさすがに不便だろう。
 私の次の目的地は宮崎神宮で,同名の最寄駅は宮崎の一つ北に位置する。時間にも余裕があるので,その間に宮崎空港線を往復してみる。宮崎空港線は日南線の田吉から一駅1.4キロの宮崎空港まで延びる路線で,名称のあるJRの路線中最短となっている。

青島からの南宮崎ゆき
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 10:00に田吉に着き,駅の周りを少々散策し,10:11発の宮崎空港ゆきに乗る。
 列車は少しだけ日南線の線路を進み,おもむろに分岐すると,高架に上がる。左手に滑走路,右手には空港前らしくレンタカー屋が並んでいるのが見えるなと思っていると,もう宮崎空港駅に着いた。

宮崎空港線の車窓から
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宮崎空港駅にて。宮崎までは特急列車にも乗車券だけで乗車できる
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駅は空港ターミナルのすぐ隣り
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 用もないのに空港をうろつくのも妙だが,土産物屋などを覗いて時間を潰し,22分後の列車で引き返した。
次の記事 宮崎神宮と宮崎市街の近代建築

飫肥城と城下を散策する

平成29年3月6~9日②

前の記事 南九州への旅2017―序
 志布志からJR日南線を北上し,飫肥で下車。時刻は15:07。
 飫肥は伊東氏5.1万石の城下町で,早い時期から街並みの修景に力を入れていることで知られる。中心部は昭和52年(1977)に国内8番目,九州では初めての重伝建地区に指定された。

城をモチーフにした飫肥駅舎
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 飫肥の街は「ひ」の字型に蛇行する酒谷川の内側に位置し,駅と街は川を隔てている。駅前から国道222号を歩くことになるが,この道路は宮崎県営鉄道の廃線跡のようだ。県営鉄道は飫肥と油津(港)を結んでいたが,日南線に発展的解消を遂げた。県営鉄道の飫肥駅は今よりももっと街に近い場所にあった。

稲荷下橋から酒谷川(写真は城下町と逆方向)
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 橋を渡ると,国道は一直線に延びる。道幅も広く,歩道も完備された道であるが,電線が地中化されており,非常にすっきりした印象を受けた。
 城下町は後回しにして,とりあえず城まで行ってしまおう。城の大手門へと続く道の両側は板塀や石垣が連なり,これを見ただけでも修景への力の入れようを感じられる。途中から登り坂になっているのも佳い。

電線を地中化した国道(本町商人通り)
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(写真は遅い時間に撮影したため,だいぶ陽が傾いている)

大手門通り
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飫肥杉の目立つ飫肥城
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 飫肥の地は平安時代に成立した島津荘の一部であり,島津氏が領有していた。中世には島津氏と伊東氏との争いが繰り返され,江戸時代は伊東氏が治めた。

 伊東氏の初代は工藤祐経といい,本拠は伊豆国田方郡伊東庄(静岡県伊東市)にあった。祐経は鎌倉時代初期に宇佐宮(神宮)領の県荘(延岡市)の地頭職として日向国に入り,子の祐時が伊東姓を名乗った。
 室町時代になり,伊東祐持が元弘の乱での功により日向国都於郡(郡名ではなく,児湯郡のうち)を与えられた。
 伊東氏は徐々に版図を拡大し,永禄4年(1561)には伊東義祐が飫肥城の島津忠親を降した。が,それも束の間で,元亀3年(1572)に日向国西部の加久藤盆地をめぐる木崎原の戦いが勃発し,伊東氏は島津氏に大敗を喫した。これで形成は逆転した。天正4年(1576)には島津氏が西から,翌年には土持氏が北から侵攻し,挟み撃ちに遭う。伊東義祐は都於郡を放棄し,豊後国大友氏の元へと遁走した。

 日向国をも領国に加えた島津氏は,守護代として島津家久が佐土原(宮崎市,旧佐土原町)に入る。天正6年には大友宗麟が日向国に侵攻するも,島津義久に耳川の戦いで敗れた。伊東義祐は伊予国を経て和泉国に渡り,堺で歿した。

 現在の飫肥城では,大手門が復元されている。藩政時代の大手門は明治期に取り壊されていたため,昭和53年の復元にあたっては各地の城郭に現存する大手門を参考に設計したのだという。
 門をくぐって石垣を見上げながら進んでいくと,飫肥城歴史資料館がある。ここで「飫肥城 通行手形」というのを購入する。610円のチケットで,城内・城下の7施設に入場できる。いちいち入場料を払うのは面倒だし,費用が嵩んで「ここはいいかな…」となったりするから,共通券はありがたい。
 資料館には伊東氏に関する品々が展示されていた。こういう施設の目玉は刀剣や甲冑類なのだろうが,私にはその価値や良さがなかなか分からない。その代わり,国絵図には見入ってしまう。

飫肥城の復元大手門
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大手門前の内濠は,現在は水を抜かれて空堀に
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飫肥城歴史資料館
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 天正14年になると島津義久は日向国からさらに豊後国へと侵攻した。関白豊臣秀吉は惣無事令で九州の知行割を示したが,島津にはこれが不服であった。が,九州征伐を目した秀吉の軍勢に押し返される。翌天正15年には豊臣秀長の軍勢が日向国に入り,義久は降伏した。この時従軍していたのが,伊東義祐の子祐兵であった。祐兵は播磨国の姫路城に赴いて秀吉の家臣となり,九州征伐の道案内を務めた。
 この後の九州仕置により,日向国は島津義弘,島津豊久(義弘の弟家久の子),秋月氏,高橋氏,伊東氏に分知された。伊東祐兵は飫肥城を居城とすることを強く望み,それが容れられて約10年ぶりに飫肥の地に戻った。領地は宮崎郡と那珂郡の一部で,約2.8万石(のちの太閤検地で3.6万石に高直し)であった。入城に際しては島津氏配下の城主上原尚常が城の明け渡しを拒み,伊東氏の使者が殺害されたりしている。

 関ケ原の戦いでは,日向国勢は伊東氏以外が西軍についている。徳川家康の会津征伐に附き従っていた伊東祐兵は大坂に戻ると,病と言って参戦しなかった。祐兵の子祐慶は飫肥に戻り,西軍高橋元種の家臣権藤種盛の守る宮崎城を攻めている。元種は既に東軍に降っていたが,その情報は日向国まで伝わっていなかった。
 戦後は飫肥を安堵された。所領は慶長9年(1604)の検地によってだいぶ水増しされ,5.7万石が打ち出された。

 江戸時代の日向国では災害が多く,寛文2年(1662・寛文日向灘地震),延宝8年(1680),貞享元年(1684)に相次いで震禍に見舞われている。飫肥藩領では海沿いの農地が水没したり,城郭にも被害が出たりしている。
 貞享の地震後に城の修繕が行われ,本丸が一段低い場所に移った。旧本丸は森に姿を変えつつあり,新本丸は小学校に変わっている。

飫肥杉の茂る旧本丸へと続く石段
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新しい時代の本丸は小学校に
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コケとスギの森となった旧本丸
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 本丸の南西に位置する松尾の丸には,武家屋敷が再現されている。場所が場所なので,この場所にあった建物であるかのような錯覚を受けるが,もちろん武家屋敷は城下にあった。

松尾の丸の復元武家屋敷
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邸内では殿様体験(?)ができるようになっていた
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 伊東氏は一度も転封されることなく,幕末を迎えた。知行高は5.7万石から5.1万石に減少しているが,これは減封された訳ではなく,兄弟で分知を行ったためである。
 薩英戦争によって近代的な英国海軍の兵力を間近に見た飫肥藩では,長年の宿敵鹿児島藩に接近し,領地を接する佐土原藩,高鍋藩とも協調関係を深める。
 元治元年(1864)の第一次長州征伐に続き,慶応元年(1865)には第二次長州征伐が幕府から命じられるが,薩長同盟を結んだ鹿児島藩に追随する形で飫肥藩も出兵を拒否した。

 明治維新がなって廃藩置県ののち,県の統廃合が進んで明治6年(1873)に日向国からなる宮崎県が成立する。が,それも束の間で,明治9年には宮崎県が鹿児島県に編入されてしまう。これには未だに力を持っていた鹿児島県の士族を県政から排除する目的があったのだが,その目的は達成されることなく,明治10年2月に西南戦争が勃発する。
 薩摩・大隅・日向国からなる鹿児島県では,旧各藩の士族たちが西郷隆盛軍に加わった。旧飫肥藩からは約1,000人が出兵し,約200人が戦死したといわれている。
 戦後,鹿児島県の県域が広すぎることなどから,明治15年に鹿児島県から現在の宮崎県が分離・再置された。やや余談になるが,もともと日向国であった志布志附近(南諸県郡)はこの時に鹿児島県に残った。

 大手門門前には豫章館という屋敷がある。
 明治2年(1869)に藩主伊東祐帰が城を出て住まわった邸宅である。母屋は本丸奥御殿の書院が移築された。当初は茅葺であったが,昭和初期に瓦葺に改めたという。

豫章館母屋
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豫章館の庭園
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邸内には大きな雛飾りが展示されていた
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 豫章館の向かいは伊東祐正邸。明治期の建築であるという。

伊東祐正邸
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屋敷の鬼瓦には家紋の「月に星九曜」が
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柔らかな夕陽を受けた祐正邸の早咲きサクラと菜の花
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 祐正邸の一劃は,国際交流センター「小村記念館」となっている。小村とは不平等条約改正や日露戦争の講和条約(ポーツマス条約)締結に奔走した小村寿太郎のことである。
 小村寿太郎は飫肥藩の武士の家に生まれ,明治34年に外務大臣に就任した。
 日露戦争では旅順要塞の攻略や日本海海戦の勝利が華々しく報じられ,国民は湧いていたが,日本の国力は尽きかけ,戦争継続は不可能な状況にあった。結ばれた講和条約は賠償金放棄,領地は南樺太のみなど得るものは少なく,東京をはじめ各地で憤怒した市民による騒擾事件が起きた。
 そのような背景があり,地元飫肥ですら小村寿太郎の話は長らくタブーになっていたという。日露戦争の講和条約締結を題材にした「ポーツマスの旗」(昭和54年)を執筆した吉村昭氏が,その取材で飫肥を訪れた際,小村寿太郎の名前を出すとお茶すら出してもらえなかったと何かで述懐していたと思うのだが,出典を忘れてしまった。

邸内に整備された小村記念館
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城下町にある小村寿太郎生誕の地碑
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小村邸跡に隣接する明治40年築の旧山本猪平邸
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 坂を下り,大手門通りと直交する後町通りに折れる。石垣の上に庇のついた塀がのび,落ち着いた街並みが続いている。もっとも,塀の奥の建物には駐車場をそなえた新しいものがあるし,昔のままとはいかない。この辺りが修景と街の人々の暮らしの妥協点なのだろう。
 道の両側には堀があって,錦鯉ばかりが泳いでいる。

後町通り
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私を見て錦鯉が集まってきた
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 見学施設が閉館となる17時が近づき,最後に本町商人通りに面した旧高橋源次郎家を見学する。本当は最終入場が16時半のようだが,快く入れてくれた。
 高橋源次郎は飫肥の実業家で,貴族院議員も務めた。主屋は明治16~27年頃の建築とされ,この頃増え始めた瓦葺き屋根の先駆けであったという。

旧高橋源次郎家住宅
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明かりがないと昼間でも薄暗そうな邸内
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夕陽を受けた屋外の台所
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 これで「通行手形」で入場できる7施設のうち6施設を回れた。
 飫肥ではこの「通行手形」の他に,食べ歩き引換券5枚のついた「あゆみ(歩味)ちゃんマップ」というのも販売されている。飫肥の名物は厚焼き玉子と天ぷら(さつまあげ)である。
 こうした,いわば“街じゅうミュージアム”の取り組みは街歩きの幅を広げるし,回遊性が上がる。店に入る機会が増えれば,ついでにお土産も売れるだろうし,もっと広がってほしい。

 列車の時間まではもう少し間があるので,少し遠回りして駅に戻った。

古びた洋館然とした旧飯田医院
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公民館になった鹿児島銀行旧飫肥支店
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 飫肥17:54発の宮崎ゆきに乗る。日南線で唯一の快速列車で,「日南マリーン号」の愛称がついている。2両連結の前方は一般色であったが,後方は黄色のオリジナルカラー車であった。

飫肥駅に宮崎ゆき列車が入線
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 列車は広渡川に沿ってのんびり走り,北郷を過ぎて長い谷之城トンネルを抜ける。伊比井からは再び海沿いを走るが,夜の気配が色濃くなってきた。
 青島を過ぎると,いよいよ車窓が見えなくなってきた。初乗りの線区は明るいうちに乗りたいと思っているが,青島まではまた翌朝に来る予定である。

宮崎平野に出た運動公園駅にて
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 南宮崎で日豊線に合流し,大淀川を渡り,19:02に宮崎に着いた。
 行程変更もあり,きょうは列車にあまり乗れなかった。志布志・飫肥間の運賃が1,110円,飫肥・宮崎間が940円なので,合計2,050円で18きっぷ1回分(2,370円)を下回った。

近代的な高架の宮崎駅
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 駅に近いホテルにチェックインし,夕食は中心市街地の橘通にあるきっちょううどんに食べに行った。この店は5年前に卒業旅行で宮崎に来たときに入ったことがある。店舗は別だが。
 青唐辛子を入れるという特徴があって,その辛みが気に入っている。
 まだ20時だというのに,店も街も人が少なく,活気に乏しいように感じた。

きっちょううどんにて夕食
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次の記事 日向青島―鬼の洗濯板と青島神社

南九州への旅2017―序

平成29年3月6~9日①

 最後まで未訪問県として残った愛媛県に足を印したのは,3年前(平成26年)の4月のことであった。
 その後も各地を旅することを続け,2度3度と足を向ける都道府県が大半を占めるようになってきた。そうなると,まだ1度しか行ったことのない都道府県が気になってくる。一昨年は熊本県と大分県,鳥取県,長崎県に2度目の到達を果たし,残りは愛媛県,宮崎県,鹿児島県,沖縄県の4県に減った。
 今年度の旅の計画を立てた時,宮崎県と鹿児島県を組み入れたのだが,3月に行くことに決めたためにすっかり遅くなってしまった。その間に割り込み計画の沖縄県が先行した。

 旅程は4日間で,羽田空港・鹿児島空港間の往復の航空券は12月中旬に確保した。前2日間は「青春18きっぷ」利用の鉄道旅,後ろ2日間はレンタカー利用のドライブとして,変化をつけた。
日隅薩



 出発は羽田7:55発のSKY301便。5時半過ぎに家を出て,横浜から直通の特急で羽田空港に向かった。
 前回,鹿児島県に行ったのは大学の卒業旅行の際で,あの時も同じ便名であった。時刻は9:05発だったので,1時間ほど繰り上がっている。

 スムーズに羽田を飛び立ち,すぐに雲上へ。地上の景色はほとんど見られず,着陸直前に錦江湾から霧島連峰を眺められただけであった。鹿児島空港は霧島市の台地上に位置し,周辺の谷から立ち昇る靄が美しかった。きょうは雨のち晴れという予報だったが,これはもう雨は上がったのだろう。

霧島連山を望みながら降下する
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 鹿児島空港着10:05(5分延)。
 当初の予定では10:25発のバスで嘉例川駅に出て,吉都線経由で都城,日豊線で宮崎泊,翌日は日南線を南下して志布志からバスで都城ないし国分に出て日豊線で鹿児島に向かうことにしていた。いつもなら前夜に清書する行程表も,今回は珍しく早目に仕上げた。
 しかし,直前になって都城で見たい場所が月曜休館であることが判明し,2日分の行程を反転させることになった。普段しないようなことをすると得てしてこんな目に遭う。

 なので,まずはバスで志布志に向かう。鹿児島市街へのバスは10分おきの高頻度運転であるが,他の地方都市に行くバスは少ない。志布志ゆきのバスは11:10発なので,ターミナル内で時間を潰した。

鹿児島空港のバス乗り場
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 ようやく発車時刻が近づき,バスに乗り込む。運行会社は三州自動車で,いわさきグループのようだ。三州は薩摩・大隅・日向を指すのだろうが,島津氏の版図を思わせる。
 客は僅か6人で,志布志までこれを上回ることはなかった。運賃は1,640円。

シンプルなデザインの三州バス
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 空港を出たバスは急な坂を駆け下りて霧島市の中心市街地である国分へ。国道10号で亀石峠を越え,シラス台地の上に位置する牧之原(旧福山町)に到る。空港から国分までと,牧之原から志布志までの間が急行運転になっており,一部の停留所は通過した。多少なれど地元の人の乗り降りもある。
 起伏のあるシラス台地を進み,岩川の街に入る。旧大隅町,現在の曽於市内の岩川は,いわさきグループの創始者である岩崎與八郎生誕の地でもある。かつて都城と志布志を結んでいた国鉄大隅線が通っていたので,車窓にも廃線跡が見られた。
 急に台地を下ると,街が開け,13:00に志布志に到着。国道沿いのドラッグストアの一劃が停留所で,長距離路線としては何とも呆気ない終点だ。空港からの客は私を含めて3人であった。

志布志に到着
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 バス停から少々歩いて志布志駅へ。次に乗るのは13:45発のJR日南線列車である。
 現在は日南線の終着駅となっているこの駅であるが,かつては志布志線,大隅線も乗り入れるジャンクション駅だった。両線は昭和62年(1987)に相次いで廃線となった。
 残された日南線には大きな駅は過分であったのか,平成2年に移転し,現在はこじんまりとした造りになっている。

志布志駅
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駅舎を背に振り返る。旧駅跡は道路や商業施設になっている
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 志布志はウナギの養殖が盛んな地であるというが,乗り換え時間が中途半端なので,駅の近くの店で買ってきた弁当を車内で開いた。駅舎内には観光協会が入っていたが,無人駅であり,当然駅弁などもない。
 1両きりの列車の乗客は10人ほど。海側のボックス席に座れた。乗りつぶし目的らしい鉄道ファンや観光客が大半を占めた。一人は空港からのバスでも一緒だった。日南線沿線であれば宮崎空港の方が便利であるので,彼も私と同じように往復乗車を嫌ったのだろう。

縮小した志布志駅に停まる日南線の列車
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 志布志駅を発車した列車は,前川を渡って坂を登りながらトンネルをくぐると,海沿いの崖の上に出た。
 次の駅は大隅夏井である。アタマに「大隅」を冠した駅であるが,この辺り(旧南諸県郡)は明治9年まで日向国であった。

志布志・大隅夏井間にて
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 日南線は志布志線の延伸として,志布志側から建設が始まった。昭和12年に油津に達すると,油津・飫肥間の油津線(旧宮崎県営鉄道を国が買収)を組み込み,昭和16年に北郷まで開通した。
 一方,北側の建設は戦後まで遅れ,南宮崎・北郷間が昭和38年に一気に開通した。この際,南宮崎・青島間では先に開通していた宮崎交通線の路盤を流用している。
 昭和38年に全線が開通した際,志布志・北郷間は志布志線から日南線に編入された。「日南線」という国鉄にしてはハイカラな路線名なのは,開通が新しいからなのだ。戦前の開通なら,「日隅線」とか「隈日線」になっていたかもしれない。

 串間から南郷にかけては都井岬に続く半島を横切るため,山越えとなる。山肌には花粉をたっぷりつけた茶色いスギの木が目立つ。狭い平野には水田が広がり,もう水を入れている。3月中に田植えをするのだろうか。
 南郷から油津までは再び海沿いをゆく。日南線の車窓の中では,この辺りが一番風光明媚であった。

南郷・大堂津間で細田川の河口を渡る
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七ツ岩と小場島を望みながら海沿いを走る大堂津・油津間
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 油津は深く入り込んだ湾を持つ港町で,飫肥藩の外港であった。ここは是非散策したい街なのだが,時間の都合上飫肥との選択となってしまう。結局,飫肥の顔を立てることになった。
 志布志から乗ってきた列車は油津が終点で,わずか1分の接続で南宮崎ゆきに乗り換える。どちらも1両同士なので,運用の都合なのだろう。

油津駅での乗り換え
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 油津から飫肥までは2駅なので,もう席にはこだわらない。両駅の間にはその名も「日南」という駅がある。
 日南市は昭和25年に飫肥町,油津町,吾田町の3町と1村が合併して成立した。その際に市名や役所の位置に関して飫肥と油津が随分揉めたらしく,結局役所は中間の吾田に置かれた。駅名も昭和27年に吾田から日南に改称された。

 広渡川と酒谷川の平野を走り,15:07に飫肥着。

乗ってきた列車が飫肥駅を発車してゆく
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 15時を過ぎ,ようやく目的地らしい目的地に到着した。
 18きっぷに入鋏印を捺してもらい,街に出る。
次の記事 飫肥城と城下を散策する

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相州生まれの相州育ちです。
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