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松山近郊伊予鉄乗り歩き(2) 湊町三津 (2018冬の四国瀬戸内・列車の旅8)

旅行日:平成30年1月(15~)16~18日⑧

最初の記事 香川県の西の涯で讃岐うどん
前の記事 松山近郊伊予鉄乗り歩き(1) 石手寺と浄土寺
 冬の四国旅、第3日目。久米駅から乗った伊予鉄電車は松山市駅から高浜線に入った。次の目的地は三津である。

 松山市・三津間は四国最初の鉄道で、明治21年(1888)に開通した。讃岐鉄道(多度津~丸亀・琴平)よりも1年、徳島鉄道(徳島~鴨島)よりも11年、土佐電気鉄道よりも16年早い。
 水運の利がある他の3県都とは違い、松山城下街はやや内陸の高台に位置する。そのため、その外港三津との輸送は松並木の三津道を利用するしかなかった。船便が利用できないため、鉄道の需要があったのだろう。この路線を足掛かりにして、伊予鉄道は明治時代のうちに現在の郊外線のネットワークをほぼ完成させた。

 西衣山と山西の間でJR予讃線の下をくぐる。予讃線(開通当初は讃予線)の松山延伸は昭和2年(1927)のことであるので、伊予鉄の方がだいぶ先輩にあたる。
 12:43、三津着。広い島式ホームの先端に改札口があるというスタイルの駅であった。

三津駅前には旧駅舎を模した建物が建ち、巡回バスと連絡する
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 三津の街は駅から宮前川を渡った対岸に広がる。駅側はマンションなども建ち並び、松山の郊外住宅地然としていたが、川を隔てて雰囲気が変わる。海側には高い建物が少なく、家々が密集している。
 メインストリートの三津浜商店街はかつてはアーケード街だったというが、撤去され空き地も目立つ。
 「三津」と「三津浜」の地名が出てくるが、「三津」は近世以来の街の名前で、「三津浜」は明治22年の町村制で誕生(三津○○町が合併)した自治体名である。三津浜町は昭和15年に松山市に編入され、消滅した。

潮の入る宮前川
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今は寂しい三津浜商店街
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なまこ壁のある土蔵
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辻に面した旧中村商店。縄や筵を商っていた
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 商店街の一本南は旧医者町通りと呼ばれており、開業医が何軒かあったらしい。擬洋風建築の旧濱田医院が残る。
 
瓦を載せた旧濱田医院
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 三津は古くからの港町で、「御津」とも書き記された。万葉集に収められている額田王が詠んだ歌の「熟田津(にきたつ)」は三津に比定される。往時の三津は現在の古三津にあたり、やや内陸に位置するが、これは土砂の堆積などによって当時よりも陸化が進んだためだろう。
 中世以降は河野氏の湯築城や江戸時代初期に築かれた松山城の外港として機能していた。松山藩の参覲交代の船便もここから出た。上京する正岡子規も、松山に赴任する夏目漱石もこの地に足を印した。

船具屋だった河野家は「つし2階」を持つ江戸期の建築
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土蔵造りの旧商家
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卯建のある旧今治商業銀行
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小舟が舫われた湾奥の漁港
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道は狭い
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 三津の内湾は陸化が進んでだいぶ細くなっており、漁港などとして利用されている。
 対岸の小山には河野氏の港山城が築かれ、伊予水軍の拠点となっていた。ただ、湯築城と港山城の距離は本家と水軍の内紛の元にもなった。
 江戸時代に入ると松山藩主の加藤嘉明は三津に船奉行を置き、後代の松平忠知も町奉行を設置して港町を監督している。

 港山城との間の水路には橋がなく、現在も渡船が就航している。この渡船は城兵が三津の街に食料を調達しに行っていたのが起こりともされる。

三津の渡し
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 渡船場のあたりは須崎と呼ばれていたところで、特に古い建物が多い。地名からして砂洲が延びていたのだろう。宮前川は弁天山と砂洲に阻まれて随分と北上してから海に出ている。

看板建築
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装飾部分を見上げる
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土蔵造りの旧商家
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 旧森家は天保5年創業の萬問屋で、建物は昭和4年築。2階部分に貼られた銅版が緑青になり、古色を増している。
 この建物は現在、料理店の「鯛や」になっている。鯛めしといえば愛媛県の名物であるので、ここで昼食にする。

商家建築を利用した「鯛や」
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タイとネコをあしらった暖簾がかわいらしい
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 靴を脱いで座敷に案内される。机などはなく、座敷に腰掛ける。座布団の傍らには火鉢が置かれていた。エアコンが入っているので煖房としての役割は大きくなさそうだが、雰囲気づくりに一役買っている。

クラシカルな店内
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座敷の火鉢
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 この店の食事のメニューは「鯛メシ膳」のみで、1日30食限定とのこと。もう14時近いが、まだ平気だったようだ。

 落ち着かないまま座っていると、やがて脚付き膳で料理が運ばれてきた。正座して丁寧に説明してくれるので、かえって恐縮してしまう。
 膳の上には鯛めしの他、タイの刺身に解禁直後だという生ヒジキの和え物、柔らかくなるまで煮た甘辛い味付けのトラハゼ、吸い物などが並んだ。
 肝腎の鯛めしはご飯の量が1合あるので、結構なボリュームだった。食べきれなければおにぎりにして持ち帰ることができるというが、完食。2,200円也。

鯛メシ膳
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 食後は街歩きを再開する。街の西側にはフェリーターミナルがあり、山口県柳井港ゆきの船便が出る。三津浜港は松山相手の船の便を一手に引き受けていたはずだが、明治39年に高浜港が開かれると多くの定期船がそちらに移行した。
 三津浜町ではこの動きに反撥し、三津から高浜まで延伸した伊予鉄道に対抗して松山電気軌道を開通させた。限られたパイを奪い合っても上手くいくはずはなく、競合する郊外部は15年で廃止になっている。ただ、松山市街の札ノ辻(本町三丁目)~西堀端~一番町(大街道)~道後(道後温泉)は市内電車のメインルートになった。

 すぐ向かいには細長い形の興居島(ごごしま)が横たわり、波は穏やかだ。

向かいはミカンで知られる興居島
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 バンド(海岸通り)には船会社が並ぶ。
 その中でも目を引くのが、洋風建築の石崎汽船旧本社だ。大正13年の建築で、設計は愛媛県庁舎や萬翠荘を手掛けた木子七郎。石崎汽船は江戸時代の廻船問屋をルーツに、現在は松山観光港から呉・広島、小倉へのフェリー・高速船を就航させている。

石崎汽船本社
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右書きの社名とバルコニー
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向かいには山谷運送(部)
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酒屋と飲食店になっている旧酒造
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 街の南にある厳島神社にも参詣した。筑前国の宗像大社や安芸国の厳島神社を勧請して創建されたとされる古くからの神社である。

 前の社殿は三津浜夜襲の折に焼け落ちたという。この戦いは関ケ原の戦いの折、毛利氏の水軍が加藤嘉明の留守をついて伊予国に侵攻したものであった。伊予国でも河野氏の残党が立ち上がった。が、戦果は挙げられず、加藤氏の留守兵に返り討ちにあった。敵兵の上陸地となった三津浜では大きな被害を蒙った。

厳島神社。石鳥居は元禄8年(1695)の建立
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本殿
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 すっかり晴れて、気温も高くなった。厚着では暑いくらいなので、ポンジュースを飲みながら駅に戻った。
 15:14発の高浜ゆき電車に乗る。今度のは井の頭線の中古電車だった。京王と帝都(井の頭線)では線路幅が異なるので、東京では相まみえることはなかったはずだが、松山の地で同じ線を走っているのは面白い。
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次の記事 

松山近郊伊予鉄乗り歩き(1) 石手寺と浄土寺 (2018冬の四国瀬戸内・列車の旅7)

旅行日:平成30年1月(15~)16~18日⑦

最初の記事 香川県の西の涯で讃岐うどん
前の記事 伊予灘2つの港町―長浜と郡中
 冬の四国旅、第3日目。
 きょうは夕方の便で松山空港から帰るので、終日松山市周辺を散策することにしている。前に来たときは松山城や湯築城址、道後温泉周辺などを回ったので、今回は少しマイナーどころが中心になりそうだ。

 ホテルでバイキング朝食を済ませ、清水町電停から市内電車の2系統に乗る。きっぷは昨夜から引き続き「ALL IYOTETSU 2Day Pass」。市内電車だけでなく、郊外電車やバスも利用できるので、市周辺の広範囲に足を延ばすには都合が良い。
 松山城の北側は住宅地が広がり、通勤・通学客を乗せた電車は単線の専用軌道を家々を縫うように走る。

交換設備の跡が残る清水町電停
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 国道196号とクロスする3つ目の本町六丁目電停で下車。国道上を通る6系統に乗り換える。
 この系統は運転本数が極端に少なく、日中は30分おきにしか運転されない。気軽に乗れるのがウリであろう路面電車らしからぬ運転間隔となっている。
 ラッシュ時の8時台も3本運転だが、発車時刻が近づくにつれて乗客が集まってきた。電停の両側をクルマが奔流のように過ぎてゆく。

国道上の本町六丁目電停
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 市役所前で別系統に乗り換え、一旦JR松山駅前電停へ。駅のコインロッカーに大きな荷物を納める。
 再び電車に乗り、松山市街を抜けて終点の道後温泉電停へ。小振りながらも駅舎があり、観光客が多い。
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 今回の目的は道後温泉ではないので、バスで石手寺に向かう。乗車するのは52系統松山空港線、湯の山ニュータウンゆき。全区間を通して乗車すると1時間を超える長距離路線であるが、私が乗るのは5分ほどだ。
 距離は近いが、登り坂なのでありがたい。

石手寺門前のクスノキ
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 石手寺は真言宗の寺で、四国八十ケ八霊場の第51番札所。
 神亀5年(728)に伊予国の豪族越智玉純が霊夢をみて、熊野十二社権現を祀ったのがその起こりだという。翌天平元年(729)に行基が薬師如来像を彫って本尊として祀り、「安養寺」を称した。当初は法相宗の寺院だったが、弘仁4年(813)に空海が訪れて真言宗に改めたとされる。
 「石手寺」への改称は寛平4年(892)のことで、四国八十八ケ所霊場巡りの元祖とされる衛門三郎(伝説上の人物)が再来したという伝説に基づく。平安時代から室町時代にかけては湯築城の河野氏の庇護を受けて繁栄し、堂宇や伽藍66坊を有したが、伊予国に侵攻した土佐国の長宗我部元親の兵火に遭って多くの建造物を失った。それでも、境内には鎌倉時代の建造物がいくつか残っている。

回廊の参道には土産物屋などが入る
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 楼門の二王門は鎌倉時代の文保2年(1318)の建立で、国宝指定を受けている。

国宝の二王門
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境内
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 三重塔、本堂、鐘楼も鎌倉時代後期のものが残る。これらは重要文化財指定を受けている。

高さ24.1メートルの三重塔
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大師堂
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入母屋造りの本堂 (側面から)
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 石手寺からのバスは本数が多く、直接松山市駅に向かう系統もある。門前で手湯などしていると、すぐにバスが来た。今度は道後温泉駅前止まりの「8番線」という名前の系統だった。
 バスが直通ではなかったので、電車に乗り換えて松山市駅に向かう。床が板張りの古そうな電車だった。昭和29年(1954)製造とのこと。

道後温泉電停にて。電車はオレンジ色への塗り替えが進む
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県庁前附近では山上の松山城を見上げる
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終着松山市電停に到着。床は板張りだった
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 松山市駅からは郊外線の1つである横河原線に乗る。伊予鉄の郊外線は松山市駅を中心に放射状に3路線が延び、高浜への高浜線、郡中港への郡中線、横河原への横河原線からなる。高浜線と横河原線が直通運転をしており、各線とも日中は15分おきの分かりやすいダイヤになっている。

3路線が交わる松山市駅構内
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 10:51に松山市を出ると、はじめは立て込んだ街の中を走る。駅はこまめに設けられているので、速度はあまり上がらないが、駅の周りには住宅が集まっている。鉄道が利用される素地は整っているように思われる。
 平井を過ぎて東温市に入ったあたりから駅間に田園地帯が広がるようになる。東温市は平成の大合併で新たに誕生した市で、名称は以前から慣用されてきた「温泉郡の東部」に由来する。しかしながら、明治以前は久米郡や下浮穴郡だった地域だ。
 松山(道後)平野から重信川の扇状地にかかり、上り勾配がきつくなる。
 東温市役所最寄りの見奈良で大きくカーブし、終点横河原着11:21。松山市からちょうど30分だった。

終着の横河原駅
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 横河原は松山平野で最大の河川である重信川の谷口集落にあたるようだ。ただ、あまり大きな街ではない。
 重信川に架かる横河原橋まで行き、11:44発の電車に乗るはずだったが、逃してしまった。が、県道沿いを歩いていると都合よく76系統松山市駅ゆきのバスがやって来たので、これに乗り込んだ。11:41発の便が遅れていたらしい。

横河原駅周辺には古い建物もいくつか
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重信川の河原にて。雲に隠れるのは四国山地の青滝山か
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 バスは愛媛大学病院の駐車場まで入る寄り道をしたが、途中で電車を追い越した。
 駅でいうと鷹ノ子と久米の間にあたる、鷹の子温泉前停留所で下車。小山の麓にある四国八十八ケ所霊場49番札所の浄土寺を訪れる。

 浄土寺は天平勝宝年間(749‐757)に恵(慧)明上人によって創建されたと伝わる。石手寺同様に法相宗の寺だったが、空海が訪れて再興した際に真言宗に改めた。平安時代には空也が滞留し、3年間にわたって布教を行った。
 鎌倉時代には源頼朝と河野通信により堂塔の修復を行った。河野氏率いる伊予水軍は壇ノ浦の戦いの主力となり、平家打倒に大きく貢献した。

 一時は末寺66坊の繁栄を見せたが、応永23年(1416)には兵火に遭い、堂宇はことごとく焼失した。寄棟造りの本堂は文明16年(1484)に河野通宣によって再建されたものが現存する。

山門
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空也上人像を安置する本堂
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境内に接したミカン畑
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 久米駅に歩き、12:17発の高浜ゆき電車に乗った。50番札所の繁多寺が抜けてしまうが、札所巡りの旅ではないので虫食い状態も厭わない。
 電車は松山市駅を過ぎ、高浜線方面に進む。

次の記事 松山近郊伊予鉄乗り歩き(2) 湊町三津

湯島界隈を散策する―旧岩崎邸庭園、湯島天満宮、湯島聖堂

旅行日:平成30年2月9日

 この日は坊さんの上京研修に併せて都内で飲み会。午後は坊さんと出掛ける予定でしたが、研修で風邪をもらったとかで、夕方まで一人で歩き回ることにしました。

 昼過ぎに「小田急東京メトロパス」を手に都心へ向かいます。代々木上原・梅が丘間の複々線供用まであとひと月を切り、目に見える工事はほぼ済んだように見えました。
 代々木上原で千代田線の古い電車に乗り換え、湯島で下車。

湯島駅は不忍池の至近
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 湯島に来たのは旧岩崎家庭園を見るため。三菱の岩崎家といえば、高輪にある岩崎弥之助(弥太郎の弟で、2代目社長)邸が有名(※)ですが、こちらは弥太郎の子で、三代目社長の岩崎久弥邸でした。
※現在は三菱グループの倶楽部「関東閣」(非公開)

 入り口は不忍通りから一本裏に入ったところにありました。ここは不忍池と同じ低地ですが、邸宅は台地の上です。谷田川(藍染川)と神田川に挟まれた本郷台の先端に位置します。

レンガを漆喰で覆っていた塀が一部再現されている
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低地の門から台地上の邸宅への長いアプローチ
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 この場所は江戸時代に越後国高田藩主榊原家の下屋敷だったところでした。岩崎家によって邸宅が建てられたのは明治29年のこと。
 今の住所は台東区池之端一丁目ですが、昭和42年までは茅町(昭和22年までは下谷区)だったため、“茅町本邸”と呼ばれていたそうです。

 坂を登り切ると、壮麗な洋館が現れます。入園料は400円ですが、地下鉄の各フリーきっぷを呈示すると割引きになります。

壮麗な邸宅
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 この洋館はイギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計。J. コンドルはいわゆるお雇い外国人として来日し、明治20年に官職を解かれたのちは三菱の顧問に就任しました。三菱は麹町区永楽町(千代田区丸の内)の土地を陸軍から払い下げられ、ここにJ.コンドル設計によるレンガ造りのビルディングを建設していきました。「一丁倫敦」と呼ばれたこのビル街は、現在の丸の内オフィス街の原形になりました。

 邸内は各部屋にしつらえられた煖炉のマントルピースが目立ちます。
 普段は館内での撮影ができないそうですが、本日は解禁日とのこと。ただ、丁寧に調度品一つ一つ規制線を張っているので、写真は撮りづらいです。

邸宅内
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柱一本一本にまで装飾が施された階段周り
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別棟に通じる地下通路まであった
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広々とした東向きのサンルーム
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天井の日本刺繍
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2階のベランダ
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 洋館の裏手には和館が建っています。完成当時は建坪550坪という規模だったそうですが、現存するのは大広間部分のみ。
 一室がカフェになっていて、小岩井農場産の牛乳などを使ったケーキや飲み物が提供されていました。なぜ岩崎家で小岩井農場かというと、弥之助が出資者の一人だったからです。小岩井は野義真、崎弥之助、上勝の頭文字からきています。

和館
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畳敷きの廊下、襖絵
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 茅町本邸は往時は敷地面積1.5万坪を誇りましたが、現在公園になっているのは5,500坪。
 戦後のGHQによる接収され、財閥解体のあおりを受けて物納。昭和21年の財産税は、金融資産1,500万円以上は税率90パーセントという苛烈なものでした。
 国有化後は最高裁判所司法研修所等として使用され、敷地も南側の台地の縁が切り崩されたり、西側に国立近現代建築資料館が造られるなど蚕食されました。

建設当時の「茅町本邸實測圖」
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 洋館の南側は宏大な芝庭。榊原家時代からのものと思われる巨樹も残っています。
 往時は市中を見下ろす立地だったはずですが、低地に建てられたビルの高層化が進み、今や見下ろされることになっています。今後は失われた芝庭の一部(池之端文化センター跡地)が返還され、拡張されるそうです。

庭内には巨樹が聳える
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高さ2メートルはあろうかという石灯籠
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庭のスイセンの花
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 庭園側から洋館を見ると、後ろに東大病院が入ってしまいますが、近づいて低アングルにすることでかわすことができます。

ベランダ側には列柱が並ぶ
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 別棟として撞球場が建ちます。撞球とはビリヤードのこと。
 校倉造風(ログハウス風?)の壁に、細かな木のパネルを貼り合わせたスイスの山小屋風の造りにしています。洋館の地下通路はこの建物に通じていました。

撞球場
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室内
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 浅い谷を通る春日通りを挟んで、向かいの本郷台の縁に鎮座するのが湯島天神と通称される湯島天満宮。あまり縁がなかったので、初めての参詣です。
 「湯島」という地名は古く、平安時代には豊島郡の郷名としてすでに見られます。湯島郷は文京区湯島から旧下谷区、旧日暮里町にかけて、すなわち文京区から台東区西部あたりに比定されています。なお、文京区東部の「本郷」は「湯島本郷」が縮まった地名と考えられています。

 創建は南北朝時代の正平10年・文和4年(1355)とされ、文明10年(1478)に太田道灌によって再興されたと伝わります。徳川家康が江戸城に入った際には湯島郷が朱印地として与えられました。
 社殿は平成7年に造営されたため、まだ新しく見えます。

湯島天満宮拝殿
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本殿
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受験シーズンなので、絵馬の数がすごい
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御徒町方面から登ってくる男坂
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銅製の鳥居は寛文7年(1667)鋳造
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 裏から入って表から出る形になりましたが、鳥居前から延びる細い道を南下。道沿いにラブホテルが点在しているのは、湯島公園芸妓会所があった名残ではないかと思いますが、ちゃんと調べたわけではないのではっきりしたことは言えません。

 浅い谷を一つ挟むと御茶ノ水駅が近く、神田川の谷の縁には湯島聖堂があります。
 湯島聖堂は元禄3年(1690)に忍岡(豊島台先端部の上野台)から移ってきた孔子廟。聖堂には寛政9年(1797)に開学した昌平黌(昌平坂学問所、※)が併置され、幕府儒学の最高学府となりました。
※「黌」は「まなびや」の意。ちなみに25画。

 昌平黌は東京高等師範学校(のちの筑波大学)となり、湯島聖堂は大正関東地震の際に焼失したため、鉄筋コンクリート造りの中国風の建物で再建されました。

入徳門は宝永元年(1704)建立のものが残る
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杏壇門
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大成殿(孔子廟)
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 陽が傾いてきたので散策はこの辺りで切り上げます。神田川の深い谷に架かる聖橋を渡り、千代田線の新御茶ノ水駅へ。

聖橋から
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 遠回りになりますが、新御茶ノ水から大手町乗り換えで神保町へ。時間の許すだけ神保町の書店と古書店を回って過ごしました。

 竹橋から東西線で門前仲町に移動し、18時から23時過ぎまで3軒飲み屋をはしご。1時過ぎに辛くも帰宅しました。

伊予灘2つの港町―長浜と郡中 (2018冬の四国瀬戸内・列車の旅6)

旅行日:平成30年1月(15~)16~18日⑥

最初の記事 香川県の西の涯で讃岐うどん
前の記事 大洲―木造復元大洲城天守と臥龍山荘
 冬の四国旅、第2日目。伊予大洲14:09発の予讃旧線(伊予長浜)経由松山ゆきディーゼルカーに乗る。
 ガラガラだろうという私の予想に反して、乗客は13,4人。空いていることには変わりないが、ロングシートだし車内で昼食という訳にはいかない。
 伊予若宮信号場で新線を分かつと途端に乗り心地が変わった。レールの継ぎ目の間隔が密になり、ごつんごつんと縦に弾むような揺れが伝わってくる。

 肱川に矢落川が合するあたりが大洲盆地の終わりで、そこに五郎駅がある。人の名のような名前の小駅だが、かつての内子線の分岐駅である。
 ここから伊予長浜にかけては肱川の峡谷をゆく。峡谷とはいっても、勾配の緩い河川であるので、岩を噛むような激しさはなく、滔々と流れている。
 伊予長浜(当時の駅名は長浜町)と伊予大洲(同大洲)の間は愛媛鉄道により、大正7年(1918)に開通した。前後の国鉄予讃線の開通は昭和10年以降であるので、それよりも17年ほど早い。舟運に変わる輸送手段として、期待されていたということだろう。

肱川沿いを走る (後方展望)
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 川から離れて短いトンネルをくぐり抜け、14:36に伊予長浜着。私は下車するが、この列車は16分も停車する。まばらな交換可能駅で対向列車と交換できるように、主要駅である伊予長浜で時間調整を行うようだ。乗り通す人たちには退屈な時間だろう。運転士もモップなど持ち出して、窓ガラスの清掃を始めた。それを眺めながらおにぎりを食べる。

なかなか古風な伊予長浜駅ホーム
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駅舎は新し目ながら、無人駅だった
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 駅を離れると、雨が降り出した。初めはぽつぽつ程度だったが、たちまち雨脚が強まり、たまらず廃業した商店の軒下に逃げ込む。
 少し待っても弱まる気配がないので、リュックにカバーを掛け、傘を差して進む。

雨降りしきる長浜の街角
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 長浜が肱川河口の湊として繁栄したのは、大洲藩に加藤氏が入封した江戸時代初期以降される。初代藩主の加藤貞泰は長浜を大洲の外港に位置づけ、この地に御船手奉行などを置いた。これにより、上流の農林産品や特産品に伊予灘の海産物が集積する商港として繁栄した。

一直線の本町通り沿いには古い建物も点在
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 伊予長浜で下車したのは、肱川の河口港として栄えた街を散策したかったということもあるが、その川に架かる長浜大橋を見るという目的も大きい。
 昭和10年に架けられた長浜大橋は、肱川の舟運に対応するため、中央の一径間が開閉する可動橋になっている。川幅が広いため、橋長は当初226メートル、現在は河川改修に併せて232.2メートルに延びている。その塗色から「赤橋」と通称されるそうだ。

 現在はメインルートの地位を河口に架けられた新長浜大橋に譲っているが、地元のクルマを中心に往来は少なくない。重量と幅の制限がかかり、入り口にはブロックを設置して意図的に幅を狭めている。この種の橋には輸送手段の変化によって開閉しなくなったものが多いが、長浜大橋は毎週日曜日に定期点検と観光のために開閉されるという。現役の可動橋なのだ。

真っ赤な長浜大橋
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橋の袂には立派な親柱が建つ
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開閉部分。路面の赤い部分が手前に持ち上がる
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 肱川の水運は明治末期で約200艘の川舟で賄われていたが,県道の整備や愛媛鉄道の開通により昭和初期には衰微した。
 川舟の他に、筏流しによる木材の輸送も行われた。筏流しは木材を6~8尺の舟形に組んで1「棚」とし、それを12~16棚を繋げて下ったという。1.3~1.5万本の木材を二人で運航したというから、効率は良かったのではないだろうか。

 また、長浜では秋から春先にかけて「肱川あらし」が起こることがある。肱川あらしは上流の大洲盆地で発生した朝霧が峡谷を下って伊予灘まで流れ下る現象で、赤橋を冷風が伴った霧が通過する。少し高台に上がれば、峡谷を霧が流れ下る光景が見られるそうだ。

広い川幅いっぱいに流れる肱川
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河口に架かる長大な新長浜大橋
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 橋の袂には豪商だった末永家が残る。
 代々長浜で廻船問屋を営んできたという末永家は塩や肥料などの商いも行っていた。
 通りに面した旧主屋は明治17年の建築で、1階部分に格子窓、2階部分になまこ壁をそなえる。裏手には和風建築の百帖座敷があり、接客や町内の寄り合いの際に用いられたとされる。
 両建築は国登録有形文化財に指定されている。

末永家の主屋
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庭の側から眺める
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 港に近い国道沿いに建つのは大洲市役所長浜支所。市町村合併前の長浜町庁舎である。正面に2本の円柱を配した擬洋風建築で、昭和11年に建てられた。

役場ではなくなれど、現役の庁舎として使用中
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 港に出るころには雨も小康状態になってきた。水たまりを避けながら進む。
 現代の港は肱川と離れた外海側に位置している。地形からすると、肱川が運んできた土砂が伊予灘の沿岸流によって砂洲となり、その砂洲を元に防波堤を築いたのだろう。
 長浜の河口は江戸時代末期になると、肱川の洪水の度に河口の形が変わり、喫水の深い廻船の入港が難しくなってきた。そこで安政6年(1859)、木蝋商の奥野源左衛門が長浜新湊の計画が立てられた。この工事は完成までに5年を要して完成に到るが、結局大正時代には肱川の土砂に埋められて船舶の入港が困難になった。

長浜新港
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古そうな石積みの岸壁
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 今度は列車時刻よりも早めに駅に戻り、伊予長浜16:04発の松山ゆきに乗り込んだ。
 伊予長浜から北の区間は伊予灘を望む眺めの良い区間と聞いているので、期待が高まる。
 地図で見るとやけに海岸線が直線的に延びているが、これは断層崖だからだ。松山平野南部から佐田岬半島にかけて中央構造線が通っている。

 少し走ると高台に上がり、左手に伊予灘を望むようになった。が、カメラのレンズキャップを外すとたちまちレンズが曇ってしまった。たぶん車内の暖気のせいだろう。

串駅附近にて
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 串の次の下灘は伊予灘を望む高台に位置し、海に近い駅として有名だ。この駅に着くと観光客が10人くらいいたので驚いた。
 ただ、「写真映え」はしそうだが、駅と海の間には国道が通っているし、もっと海に近い駅はいくつもあるだろう。

下灘駅を出発
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 きょうの日没は17時半頃。晴れていれば伊予灘に沈む夕陽を見るために伊予上灘で下車しようと思っていたのだが、この天気では難しいだろう。
 伊予灘の向こうに陸地が見えている。国東半島あたりかと思い地図で確認すると、周防大島であった。
 その伊予上灘では交換列車待ち合わせで10分停車。もう菜の花が咲いている。

伊予上灘・高野川間にて
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 伊予灘から離れて山を一つ越えると松山自動車道の高々とした高架橋が現れ、予讃新線(内山線)と合流。岡山以来の乗車券はここで打ち止めとなる。
 再び列車の乗り心地が良くなり、16:51着の伊予市で下車。「向井原→伊予市」の乗車券は伊予大洲で購入しておいたので、2枚のきっぷが手許に残った。伊予市より北は電化もされているので、もう松山の都市圏に入ったという感じだ。

新線との合流点
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伊予市駅
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 旧国名を名乗る“伊予市”とはいかにも安直なネーミングにも思える。が、市制前は伊予郡に属していたので、伊予の地であるといえるだろう。現在の伊予郡は旧下浮穴郡が大半となっているが,旧伊予郡は伊予市や松前町のエリアからなる小さな郡であった。

街角の堅牢そうな商家
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 江戸時代のはじめ、伊予郡は松山藩の領地であったが,寛永12年(1635)の松山藩主交代の際に大洲藩領に取り入れられた。
 当時の大洲藩領は大洲周辺の喜多郡・宇和郡と飛び地の風早郡(旧北条市など)・桑村郡(東予市)からなっていた。大洲藩主加藤泰興は領主不在の松山城番を務めたのを機に飛び地の解消をもくろみ、松山藩との領地の交換を幕府に願い出た。幕府は沿岸部の伊予郡と山間部の下浮穴郡を提示し、泰興は伊予郡を選択した。
 大洲藩の新領地は「御替地」と称された。

 「御替地」の名は藩の布達により「郡中」に変わった。この呼び方は元々の領地の「郡内」と対応する。その中心は灘町・湊町・三島町で,あわせて「郡中三町」と呼ばれた。この地は牛飼原という荒蕪地であったが,寛永13年(1636)に上灘村の宮内九右衛門兄弟が開発を行った。
 郡中三町は寛政8年(1796)には藩によって在町から本町(城下町相当)に格上げされて取扱商品の制限も撤廃され,物資の集散地として栄えた。天保6年(1835)には万安港が完成し,瀬戸内海沿岸との船舶の行き来も盛んになった。

郡中の開発を行った宮内小三郎家 (江戸時代後期の建築)
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 表通りから少し入ったところに「栄養寺」という寺がある。この寺は郡中を開発した宮内家の菩提寺なのだが、「栄養」という言葉とも深い関わりを持っている。
 “栄養学の父”といわれる佐伯矩は郡中の育ちで、松山中学校に進み、東京で世界初の栄養研究所を開いた。当時「営養」の表記が一般的であったが、「栄養」の用字を提唱し、現在のようにこちらが一般的になった。

江戸時代建立の栄養寺山門
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境内に建つ佐伯矩博士の顕彰碑
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夕暮れの港町
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 漁港に出ると、間もなく陽が沈むという気配があった。水平線と雲の隙間から太陽が見えるかもしれないので、見通しの利く場所へ急いだが、再び雲に隠れてしまった。

伊予港
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水たまりに夕陽が映える
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 伊予港(旧万安港)に建つ石造りの常夜灯は明治2年に造られ、大正元年に現在地に移された。燃料も菜種油から石油、電灯へと変遷した。

常夜灯
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 さて、松山に戻るが、乗るのはJRではなく伊予鉄道の方だ。伊予鉄道には松山から3方向に延びる郊外線があり、その一つである郡中線が郡中港に通じている。
 郡中港駅はJR伊予市駅前にあるのだが、頑なに古い駅名を守っている。いち早く「南郡中」から「伊予市」に改称した国鉄の後塵を拝するのを良しとしなかったのかなどと邪推する。

 きっぷは昨日のうちに買い求めておいた「ALL IYOTETU 2Day pass」(2,000円)を利用する。「1Day Pass」との差額が500円なので、夕方からの使用でもモトが取れると判断した。
 郡中港から乗り込んだ電車は京王線の中古で、闇の深くなる中をこまめに設けられた駅に停まりながら進んだ。並行する道路は渋滞しているので、モータリゼーションが進んでも活路を見出すことができたのだろう。伊予鉄の踏切も渋滞の一因のように思えるが…。

 終点の松山市で下車。駅は伊予鉄高島屋の1階に入っており、大都市の大手私鉄のようだ。
 昼食が適当だったので、夕食はそれなりのものが食べたい。以前松山に来た時に昼食を摂った地下街の「黒潮亭」を思い出し、そこに入ることにした。愛媛県最南の愛南町の店であるので、今回の旅との関連はあまりないが、もう歩き回るのは大儀だ。
 夜の限定メニューを註文し、おでんでビールを飲んでから、御荘カキ(御荘は愛南町の中心集落)のカキフライ定食を食した。
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 松山市駅から高浜線電車で大手町駅に行き、ホテルで荷物を回収。そして、松山駅前電停から市内電車に乗り、今夜のホテルに入った。連泊にすれば良かったのだが、2泊目を先に取ってから1泊目は松山駅に近い方がいいことに気づき、別の宿にしたのだった。

次の記事 松山近郊伊予鉄乗り歩き(1) 石手寺と浄土寺

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相州生まれの相州育ちです。
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