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【「旅のはなし」の水先案内】

 「旅のはなし」をご覧いただきましてありがとうございます。
 当ブログは、各地への旅行記を掲載しています。その数は約400編、トータル1,300本を超えています!記事数が膨大で、行った順番と投稿する順番が前後することもありますので、以下の各「INDEXページ」もご参照ください。

□地域別旅行記INDEX:北海道 | 東北 | 関東 | 東京神奈川 | 北陸 | 甲信 | 東海 | 関西 | 中国四国 | 九州沖縄

□年次別INDEX令和3年 | 令和2年 | 平成31年/令和元年 | 平成30年 | 平成29年 | 平成28年平成27年平成26年平成25年平成24年|平成23年(準備中)|平成22年平成21年平成20年
※「年次別INDEX」では、各年の旅行記のほか、訪問都道府県の統計、JRの新規乗車路線などもまとめています

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更別湿原と旭浜のトーチカ群 (初秋の北海道旅行2023・1)

旅行日:令和5年9月8~11日①

 羽田空港6:55発のANA4761便(エアドゥ運航便)、とかち帯広空港ゆきで発つ。大雨で京急線が10分ほど遅れており、慌ただしいスタートとなった。
 南から接近する台風の影響で雨の降り方が激しく、機体の前に横付けされたバスから乗り移る数歩でだいぶ濡れてしまった。飛び立ったのは7:25と遅くなったが、飛んでくれて一安心だ。

 ―今回は4年前の北海道旅行のリベンジ企画となっている。あの時は出発日に台風が関東地方を直撃し、私は予定を早めて逃れられたが、でーひらさんは欠航と振り替えで何かと大変であった。
 前回辛酸をなめたでーひらさんも6:30発のJAL便で無事に新千歳空港に向かったようだ。

関連記事
 (323-1)渡道顛末記~台風編


 とかち帯広空港には定刻8:25より20分ほど遅れて到着。晴れているが、雲の多い天気だ。
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 レンタカー屋の送迎車で事務所に向かったが、歩いて行けるほどの近さに小ぢんまりとした“レンタカー屋村”があった。日産ノートe-powerが配車された。

 とかち帯広空港は帯広市街から20キロほど離れた平原の中に位置し、周囲は畑だらけだ。
 一直線に延びる東十四線を南下し、更別村に入って道の駅「さらべつ」に立ち寄る。更別市街は5キロほどの距離を置いて並行する国道沿いなので、道の駅は村はずれに位置している。朝食が軽かったので、フライドポテトに手が出る。
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道の駅「さらべつ」
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施設の前も宏大な農地が広がる
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 道の駅の交差点を南に折れ、道道210号を少し南に進むと更別湿原がある。畑と畑の間の荒蕪地といった場所で、知らなければ湿原とは分からない。
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 地図で確認すると、更別村は十勝川水系と歴舟川水系の分水嶺に近い一方、日高山脈から流れ下る諸河川が扇状地を形成している。この場所は扇端にあたるので、伏流水が湧き出していると考えられる。
 なお、更別の語源となったアイヌ語は「サラ・ペッ」で、「ヨシ(アシ)原にある川」の意なので、湿原を表している。道北のサロベツと同じ語源だ。

更別村附近の地形
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地理院地図「自分で作る色別標高図」で作成。

 また、更別湿原はヤチカンバの群生地として道の天然記念物に登録されている。ヤチカンバはツンドラ地帯に生えるような灌木性のカバで、氷期に十勝地方に進出したものが取り残され、更別湿原の自然条件下で新種となったと考えられている。
 ただ、あまりに樹木が密生しすぎていて、肝腎のヤチカンバがどの樹木なのかはっきりしなかった。
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周辺はほぼすべて畑だが、ここまで樹を切り払うだけで骨が折れそう
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 十勝平野を南北に縦断する国道236号に出て、分水嶺を越えて坂を下り、幕別町に入る。地形景色の良さそうな丸山展望台まで林道を登ってみた。
 マイナーそうな場所だが、忠類市街を一望できた。道が一直線に延び、ゆったりと建物が配置された様はいかにも北海道らしい。晴れていれば背後に日高山脈の山並みが屏風のように連なるそうだ。
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南には丘陵地の先に太平洋が鈍く輝く
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 忠類市街を貫くと大樹町に入る。忠類村は平成の大合併で幕別町になったが、手近な距離で水系的にも同じ大樹町を選ばなかったのはなぜだろう。忠類市街から大樹市街までは8キロ程度だが、幕別市街までは30キロは離れている。
 歴舟川を渡り、この川の河口近くにある旭浜を目指す。農地にタンチョウがいるのを見つけた。収穫を終えた畑で虫などを探しているのだろう。
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頭のテッペンが赤いのがタンチョウの特徴
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 旭浜は歴舟川と紋別川の河口に挟まれた小さな漁港集落だ。砂浜海岸が続いている一帯であるので、港はコンクリートでしっかり固めてある。十勝は海岸線の出入りが少なく、港湾に恵まれない地だ。
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 旭浜には太平洋戦争中のトーチカ群が残されている。
 漁港からは少し離れているようだったので、海岸から防砂だか防霧林を隔てたダートの道を走り、分かりづらい案内板を頼りにクルマを駐めた。
 密な林がそこだけ刈り取られ、ぽっかりと開けた空間にコンクリートの塊が露出していた。
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 このトーチカは太平洋戦争末期の昭和19年に建造された。本土決戦にそなえて米軍を迎え撃つべく、陸軍第7師団は札幌から帯広に移り、十勝、釧路、根室の沿岸部に防御陣地の構築を進めた。
 結局戦闘に使われることなく終戦を迎え、平成20年に土砂の中から発見されたという。

太平洋を向いた銃眼の部分
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 クルマに戻ろうとすると、道の向かいの牧場のウシたちが集まってきている。さっきは林の向こうでのんびりしていたのに。大人しいヤツらだが、ここまで視線を集めると怖い。
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 さらに細い道を海の方へと走らせると、パッと景色が開けた。低い崖の下が砂浜になっている。打ち寄せる波はやや高く、人を拒むような太平洋だが、やけにクルマが停まっている。サケを釣っているらしい。
 そんな砂浜海岸に点々とコンクリートの塊が転がっているのは異様な光景だ。
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トーチカとサケ釣り。旭浜漁港の防波堤の後ろに日高山脈が襟裳岬へと落ちる
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 手近にある一つに近づいてみた。コンクリートは一部が剥がれ、川砂利を混ぜて築造したことが窺える。入り口は塞がれていないが、すぐに直角に折れる構造になっている。爆撃の衝撃を中に入れないための構造だ。
 奥が見えず、ナニか潜んでいて鉢合わせしてもイヤなので、入るのは止めておこう。
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奥に向かって小さくなる銃眼
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今回のルート
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次の記事 

しなの鉄道で北国街道つまみ食い(3) 海野宿と坂木宿を歩く

旅行日:令和5年8月23日③・終

最初の記事 しなの鉄道で北国街道つまみ食い(1) 浅間山の麓の追分宿
前の記事 しなの鉄道で北国街道つまみ食い(2) 雷鳴の滋野から田中を経て白鳥神社へ

 白鳥神社を過ぎると海野宿に入る。かつては枡形が設けられていたというが、現在では鈎型が判りづらくなっている。
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 海野宿は古い街並みが残る北国街道の宿場町として知られる。海野宿は隣りの田中宿と合宿(あいしゅく)で、二宿で一つの宿場町という位置づけであった。近代の鉄道は田中宿の海野宿寄りのところに田中駅を設けたので、海野は鉄道が素通りし、古い街並みが残ったのだろう。長野県に7つある国の重伝建の一つだ。

信越線の田中駅、大屋駅と北国街道田中宿、海野宿
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今昔マップon the web」より。大正4年発行5万分1地形図「上田」

 「海野」の地名はきわめて古く、正倉院に収められた奈良時代初期の御物の墨書に「小県郡海野郷」とみえるそうだ。ここから起こった海野氏は平安末期から戦国時代まで当地を領有したが、村上氏や武田氏といった勢力に囲まれ、最後は上野国に逃れた。

 中央部に水路が切られているのは各地の古写真で見かけるものだが、その大半は大正時代以降の道路化で埋められてしまった。よくぞ残ったものだと思う。
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水路沿いに生長したヤナギの樹
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 土塀の黄土色の建物は旅籠屋だった建物を用いた海野宿歴史民俗資料館。建築は寛政年間(1789-1801)と200年以上前の建物だ。
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卯建をそなえ装飾の役瓦を載せた豪壮な福嶋屋
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平入が多い中で妻入りが目立つ「丸屋」
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 海野宿は寛永2年(1625)の設置で、月の前半は田中宿、後半は海野宿と、半月交代で宿役を勤めた。寛保2年(1742)の千曲川の出水で田中宿と海野宿の半分が流出しため、田中宿の分の勤めも負った。大河たる千曲川を治めるのは大変で、令和元年(2019)の東日本台風の際にもしなの鉄道に架かる跨線橋が損傷し、数日間にわたって鉄道が不通になった。
 海野宿の建物は近世のものだけではなく、近代の養蚕を行う建物も混じっていることに特徴がある。大きな屋根やその上に載った煙出し用の「小屋根」は養蚕農家の特徴だ。
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 家並みを抜けたところに西側の枡形があり、こちらは街路の形状に面影を見せていた。
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 ここまで来ると、田中駅に戻るよりも一つ長野寄りの大屋駅まで歩き抜けてしまった方が近い。次の列車は14:18発なので、足を速めて歩いた。
 辿り着いた大屋駅は建て替え工事中であった。この駅は明治29年に開業した新駅であるが、諏訪郡の養蚕業者が費用を負担した。現代の感覚からすると、諏訪地域の人々が小県地域に駅を造るという話は奇異に映るが、当時は中央線が八王子までしか通じておらず、信越線の田中駅が諏訪地域に最も近い駅であった。
 新駅・大屋駅は千曲川に依田川が合流する地点に位置し、依田川を遡れば中仙道の長久保宿に到り、さらに和田峠を越えて諏訪地域に入ることができた。

 そんなことを考える余裕もないくらい、列車の発車間際だったのに、肝腎の列車がやって来ない。
 しばらく待っても動きがないので、しなの鉄道のホームページを開いてみると、信濃追分・御代田間で信号確認のため、下りの軽井沢・小諸間運転を見合わせているという。
 大屋は無人駅でロクに情報も入ってこないので、定刻でやって来た軽井沢ゆきで田中まで逆行する。田中駅は有人駅で情報が得られると思ったからだが、ここの駅員は悠長すぎた。小諸以西は動いているはずだが、小諸から列車が出るのか否かを把握しておらず、次の下りがいつ来るのかが分からない。駅には帰宅の高校生をはじめ数十人の客がいるものの、こちらもさして関心を示さない。

 結局、15時すぎに復旧となり、現場近くに足止めされていた長野ゆきが1時間以上の遅れでやって来た。
 列車は上田を過ぎ、坂城で下車。
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 坂城駅の駅員さんは仕事熱心で、私が軽井沢18:05発の最終バスに乗るというと、司令室に確認を取ってくれた。所定なら16:54発の小諸ゆきからの乗り継ぎで軽井沢17:56着だが、おそらく間に合わないだろうとのこと。しかし、1本前の小諸ゆきが軽井沢ゆきに近い時刻となり、小諸で軽井沢ゆきに接続するそうだ。「司令の〇〇という者が申しておりました」とお墨付きも得た。

 街の片隅に村上義清の墓所がある。
 義清は信濃国北東部を治めた戦国大名で、坂城の西にある葛尾城を本拠とした。武田信玄を二度撃退した実績を持ち、その内の一度は信玄の人生最大の敗北とされる砥石崩れだ。しかし、時勢は武田氏に傾いて家臣の離反も相次いだため、葛尾城を捨てて上杉氏の元に逃れていった。元亀4年(1573)に越後国根知城(新潟県糸魚川市)で歿したため、この墓は江戸時代に分骨されたとされる。
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 江戸時代の坂木は幕府直轄領や藩領を転々とし、陣屋が置かれた時期もある。駅前の石垣がその遺構らしく、宿場に近いところに駅を設けたことがわかる。
 北国街道坂木宿は宿場町全体が大きな鈎型の街路となっており、東西の通が横町(追分宿方)と新町(善光寺方)、南北の通りが大門町と3つのまちから成り立っていた。

横町の間口の広い商家建築
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年季の入った白漆喰の米店
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 駅から真っすぐ延びてきた道に折れると、これが大門通。だらっとした坂道で、坂の上には坂木神社が鎮座している。
 壁に「さかた」と記した瓦屋根の建物は名主であった坂田家だ。
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 同じく大門町の「坂木宿ふるさと歴史館」は昭和4年に春日邸として建てられた豪華な建物だ。大部分は和風建築だが、一部が石貼りの擬洋風となっている。内側は洋間なのだろうか。
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全体に調和した石貼り洋風な部分
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「森永ミルクキャラメル」の広告が消えかけた旧菓子舗
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 坂城駅の脇には古い車輛が保存されている。「169系」という形式の電車で、急勾配の碓氷峠で電気機関車と強調運転を行う装備をそなえていた。軽井沢方の2輛は昭和43年、篠ノ井方の1輛は同44年製造で、JRからしなの鉄道に引き継がれたのち、平成25年に廃車となった。信越線、そしてしなの鉄道ゆかりの車輛だといえるだろう。
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軽井沢方はライトが大きく、印象が異なる
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 本当はもう少しゆっくり歩いて、最後は戸倉温泉で汗を流して〆るプランを思い描いていたのだが、先述の信号確認のトラブルで時間がなくなってしまった。
 16:52頃に小諸ゆきに乗り込む。久しぶりの上り列車だったようで、車内は大変な混雑であった。

 駅ごとに客が降りて、徐々に空いていった。小諸では約束通り軽井沢ゆきの列車が待っていた。しかし、すぐには発車せず、もう一本小諸止まりを待った。私が乗ろうとしていた本来は軽井沢ゆきの列車だ。続行運転のため、こちらはガラガラだった。
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 無事に18時前に軽井沢駅に着いた。北口に古い駅舎が保存されている。やはりここは涼しい。気温は21度とのことで、この気温の外気に接するのはいつ以来だろうか。
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 横川駅ゆきの最終バスの客は10人ほど。紅葉シーズンに立席となったこともあるので、空いているのはありがたい。
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 バスが碓氷バイパスを下る途中で暗くなってきた。陽が短くなってきたことを感じる。横川駅着は18:39。
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夕闇迫る横川駅と釜飯のおぎのや
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 18:50発の信越線で高崎に出て、駅ビルで何かと買い込んでから19:46発の国府津ゆきのグリーン車に乗り込んだ。

しなの鉄道で北国街道つまみ食い(2) 雷鳴の滋野から田中を経て白鳥神社へ

旅行日:令和5年8月23日②

前の記事 しなの鉄道で北国街道つまみ食い(1) 浅間山の麓の追分宿

 しなの鉄道で中仙道から北国街道が分岐する追分宿を訪れたあと、一旦中軽井沢駅まで戻ってきている。
 10:54発の長野ゆきが離山を背景に入線してきた。
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 2輛連結の新型車は座席指定車にも使用されるタイプで、ロングシート状態ながらも豪華な座席が並ぶ。ただ、背もたれが高いので、向かいの窓からの車窓が見えづらいのは欠点だ。
 信濃追分を発車すると本格的な下り坂にかかる。浅間山は雲に隠れていて見えない。次の御代田では乗降ともに多く、立ち客も出た。

ロングシート状態の車内 (小諸駅で撮影)
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 11:13に小諸に着くと、ほとんどの客が下車した。小諸市は長野県東部の主要都市の一つだが、北陸新幹線のルートからは外れた。
 私もここで途中下車。

 懐古園の脇にある「草笛」で早めの昼食。12時前なのに結構混んでいた。もりそばとかき揚げで1,100円也。
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かなりボリュームのあるかき揚げ
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 懐古園は以前に訪れたので、12:03発の列車で次の滋野まで進む。今度は旧態な国鉄型の電車にあたった。
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近い将来見られなくなりそうなボックス席の車内
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下車した滋野駅
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駅前の擬洋風建築
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 駅前から坂を登る。パラパラと雨が降ってきた。遠くで雷鳴も聴こえる。
 しばらくすると北国街道に行き当たる。信号機のついている国道18号との交差点のすぐ手前だ。
 辻には雷電関の碑が二つ建っている。雷電関は江戸時代に活躍した力士で、35場所で黒星が10個だけという驚異的な強さを誇った。生まれは小県郡大石村で、この坂の先に生家(正確には雷電が建てた家)が残るという。
 古い碑は佐久間象山の撰文だが、文字は全然見えない。この碑は勝負事に利益があるとされて行き交う人々に度々削り取られてしまったのだ。明治28年に新碑が建立された。
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 北国街道に折れ、西の長野方面に進む。沿道の家々の更新は行われているが、道幅も狭くて街道の面影が感じられる。クルマの通りが少ないので歩きやすい。雨は止んだが、蒸し暑い。
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千曲川に向かう斜面に段々に田んぼが続く
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街道に面した白壁の長屋門
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 湯ノ丸山から流れ下ってくる所沢川を渡ると、随分と古びた郵便局があった。簡易郵便局だから直営ではなく、業務委託を受けているのだろうが、土壁の郵便局舎とは珍しい。
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煙出しのある大きな家とサルスベリ
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 沿道には立派な社叢におおわれた縣諏訪神社が鎮座している。
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社叢の中の拝殿
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 道が途切れて一段下に広い街並みが現れた田中宿だ。道幅が広く、電柱の地中化も行われてすっきりしている。
 宿場町の先に田中駅がある。

 列車には乗らずに線路沿いを進み、海野宿を目指す。実は当初から海野宿を目的地にしていたのだが、最寄り駅を一つ勘違いしていたのだ。海野宿は「滋野駅と田中駅の間」ではなく、「田中駅と大屋駅の間」だ。
 4キロほど余計に歩いてしまったが、決して実りのないものではなかった。

 しなの鉄道と並行する遊歩道は緩やかなカーブが続く。小川に架かる橋の橋台は分不相応にも重厚な石積みで、鉄道の旧線であることが判る。田中・大屋間は昭和45年に複線化されているから、その時に放棄されたのだろう。
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 旧線が現在線に重なると、北国街道に合流して踏切を渡る。踏切のすぐそばに白鳥神社が鎮座する。社地が広く、ただものではない社だと思わせられる。
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 白鳥神社は海野宿の産土神で、主祭神は日本武尊であるが、海野氏の祖とされる貞元親王(清和天皇の第三皇子)、善淵王、海野広道も祭神としている。海野氏が衰微したあともその名跡を継いだ真田氏の氏神でもあった。
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 神社の目の前を千曲川が流れている。
 治承4年(1180)、依田城で挙兵した木曾義仲のもとに信濃・上野2国の勢力が馳せ参じ、その数は2,000騎に達した。その場所である「白鳥河原」はこの附近とされる。
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 鳥居前を過ぎるといよいよ海野宿に入る。

次の記事 しなの鉄道で北国街道つまみ食い(3) 海野宿と坂木宿を歩く

しなの鉄道で北国街道つまみ食い(1) 浅間山の麓の追分宿

旅行日:令和5年8月23日①

 今年の夏は猛暑が続いていて、7月に東北地方に行く際に購入した「青春18きっぷ」がまだ残っている。歩くなら少しでも気温の低いところをと、信州方面を目指した。

 「青春18きっぷ」に4つ目の入鋏印が入り、横浜5:53発の上野東京ライン高崎ゆきで出発。東京で席が空いて座れた。
 高崎に8:15に着き、急いで新幹線ホームに上がる。乗車するのは8:21発の「あさま603号」。切符は横浜駅で買っておいた。
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 自由席は空いており、いくつもトンネルを抜けて軽井沢に着く。霧が出ていて空気がひんやりしている。
 しなの鉄道の乗り場に赴き、「軽井沢・長野フリーきっぷ」(2,390円)を購入。しなの鉄道線とJR信越線の軽井沢・長野間が乗り降り自由の切符だ。きょうはこの切符でしなの鉄道を乗り歩きながら、北国街道を辿ってみようと思う。

 8:55発の長野ゆきに乗り込む。高崎から横川に出てバスに乗るルートの場合は10:50発にしか乗れないので、明るい時間に約2時間の節約になっている。
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 列車は軽井沢の街並みを抜けて中軽井沢を過ぎると、次の駅が信濃追分。ここで降りる。標高は約960メートルで、軽井沢駅よりも少し高い。
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古風な駅舎の信濃追分駅
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 信濃追分駅は追分宿の最寄り駅だが、宿場町は駅から北に2キロほど離れている。
 木立が密生している別荘地をとぼとぼ歩く。少し蒸し暑い。国道18号の下をくぐると宿場町に行き当たった。

駅からの道との辻には古くからありそうな雑貨店
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 追分宿は中仙道で江戸から20番目の宿場町だ。宿駅が定められたのは慶長年間(1596-1615)のことであるが、戦国時代の文書には「追分」の地名が登場し、既に道の分岐点であったことが知れる。
 国道がバイパスを通ったので、クルマの交通量は少なく、古い家並みも残っている。旅籠屋の多くは飯盛女(遊女)を抱えており、歓楽街的な地であったという。今ではそんな雰囲気は感じられない。
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 天保14年(1843)の記録では追分宿に旅籠屋が35軒あり、大きな宿場であった。本陣の規模も大きく、その建坪は塩尻宿、上尾宿に次ぐものであったという。
 明治維新を迎えて宿駅の機能が失われると、本陣の門は明治26年(1893)に小沼村大字塩野(御代田町)の内堀家に移築された。内堀家では覆屋をかけて大切に使用されてきたが、平成17年に軽井沢町に寄贈され、現在は堀辰雄文学記念館の門となってる。
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 宿泊施設である「御宿油屋」は江戸時代に脇本陣をつとめた由緒のある旅籠を継承している。昭和期には多くの文人が滞在したという歴史は軽井沢らしい。
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高札場が復元されている
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 通りから少し入った泉洞寺は面白いお地蔵様の宝庫で、「歯痛地蔵」や「卓球地蔵」、「カーリング地蔵」というのもいる。「卓球地蔵」は「卓球慈光地蔵尊」だが、「カーリング地蔵」は「氷環慈石地蔵尊」となっている。
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見た目も可愛らしい「卓球地蔵」と「カーリング地蔵」
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 長野方面に進むと、旧道がバイパスに併呑される。が、数十メートル先に追分があり、北国街道が分岐している。鉄道の信越線は高崎から信濃追分にかけては中仙道沿いに敷設されたが、その先は北国街道を上田、長野、高田、直江津と辿った。中仙道に対応する追分、岩村田、長久保、和田峠、下諏訪というルートの鉄道が敷かれることはなかった。
 岐かれ道には森羅亭万象の狂歌「さらしなは右、みよしのハ左にて、月と花とを追分宿」の碑もある。
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追分に建つ常夜灯や様々な石碑
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 引き返して宿場町を東側に通り抜けると道沿いに浅間神社がある。浅間山を神体とする山岳信仰の里宮で、覆いに収められている本殿は室町時代のものだという。今でこそ樹林が境内を覆っているが、浅間山の焼け砂により長らく木々の生えない地であった。
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浅間神社の社殿
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 中仙道は神社の先で国道18号に合流。追分宿のところだけバイパスになっていることが判る。
 クルマの往来が激しくて愉快ではない道だが、道の両側に一里塚が残っている。
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 南に延びる県道を緩やかに下り、信濃追分駅に戻った。次の下り列車は30分以上後なので、10:28発の軽井沢ゆきで中軽井沢まで逆行する。小さな駅だが、信濃追分から10人くらいは乗った。列車は国鉄型電車の3輛連結で、多くの席が埋まる混雑であった。

 中軽井沢は中仙道沓掛宿の地で、駅名も当初は沓掛であったが、昭和31年に改称された。沓掛宿は昭和26年に大火に遭い、宿場町の面影を一新して観光地の玄関口に変わっている。
 駅舎は真新しく、地域交流施設の「くつかけテラス」を併設している。新しい施設に旧称を持ってきたのは佳い。
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中の人は相州生まれの相州育ち。アラサー。
地理・地図好きの筆者が、街を歩いたり、ドライブしたり、列車に乗ったり、山に登ったりしたことを書いていきます。大体3日おきに更新中。

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