旅行日:令和5年3月1~4日①
初春の旅は「青春18きっぷ」のシーズンを待って、西日本を目指した。結構な気まぐれ旅で、出発した時点では宿を取っていないどころか「18きっぷ」自体を購入していなかった。
藤沢駅で「青春18きっぷ」を購入して、そのまま13:17発の熱海ゆきに乗り込む。熱海、浜松、蒲郡、岡崎、米原と乗り継ぎを重ね、この日は彦根で一泊した。
翌日は彦根7:34発の新快速姫路ゆきでスタート。朝のラッシュ時でも彦根からなら充分座れそうだ。大津、京都、大阪、神戸を過ぎ、姫路には定刻の10:08よりも少し遅れて到着。わずか1分接続の播州赤穂ゆきの発車時刻を過ぎていたが、待っていてくれた。
列車は相生から赤穂線に入り、10:40に播州赤穂着。
「播
州赤穂」という駅名は珍しい。飯田線に赤穂(現・駒ケ根)駅があったため国名を冠して区別したのだが、地元・赤穂市の働きかけでこの駅名になったそうだ。国鉄が呈示したのは「播磨赤穂」。
海の方からの風がやや強く、寒い。神戸の辺りは俄か雨だったが、晴れている。

駅前通りを南下して赤穂城址を目指すと、10分ほどで城門が見えてくる。江戸時代の街区はところどころに鈎型の曲がり角が設けられていたが、今では直線化されている。
ここが赤穂城の大手で、石垣が連なり、隅櫓が再建されている。

大手門は枡形門形式で、石垣に沿ってぐるりと迂回する。
海に近い赤穂城では井戸水を得ることができないため、熊見川(千種川)から上水を引いていた。赤穂水道は城下町にも給水を行う規模の大きなものであった。城内に入る部分はサイフォンの原理で濠の下をくぐらせていたそうだ。

巨岩を積み上げた枡形の石垣

隅のカーブが芸術的

大手門を抜けると三之丸に入る。
大石義雄邸の長屋門が保存されている。大石家は赤穂藩の筆頭家老で、義雄は官名である内蔵助としてよく知られている。元禄赤穂事件の指導者となり切腹したが、長屋門だけは長らく使用されてきた。

三之丸には赤穂大石神社が鎮座する。
言うまでもなく、「忠臣蔵」の大石内蔵助義雄を祀る神社だ。明治天皇が東京・泉岳寺に金幣を下賜したのを機に神社奉斎の儀がおこり、大正元年(1912)に創建された。祭神は多く、義雄をはじめとする47士、藩主浅野家3代と幕末の藩主森家の武将が祀られている。
私はこの手の話が食わず嫌いなので、よく知らなかったのだが、社殿を取り巻くように設置されたパネルで物語を辿ることができた。好むと好まざると赤穂と忠臣蔵は切り離せない。
門は神戸市にある楠木正成の湊川神社の神門を昭和17年に移築したものだ。

赤穂大石神社の社殿

「義士宝物殿」の重厚な建物

南に歩くと二之丸門に通じる。明治25年に千種川の洪水があり、堤防を修復するための骨材として石垣を撤去したのだという。城門部分は撤去されたままで、左右の石垣の一部が復元されている。

復元された櫓と塀の石垣と濠

そして本丸門に到る。こちらも枡形門で、一の門が櫓門、二の門が高麗門であった。門とその左右の部分の漆喰壁が復元されている。石垣が線状に色が変わっているのは潮汐によって水位が変動するためだろうか。

赤穂市の中心市街地は「かりや」という。武家屋敷が「上仮屋」で、商人町が「加里屋」であった。近世までの「赤穂」という地名は現在の赤穂市や相生市、上郡町などを含む郡名で、明治期の町村制で加里屋周辺が赤穂町となった。
中世から近世までの加里屋は赤松氏、宇喜多氏、生駒氏、池田氏などの領内であった。正保2年(1645)に常陸国笠間(茨城県笠間市)から浅野長直が5.3万石で入封し、加里屋に城を築いた。平和な時代になってからの城なので、実戦よりも権威の象徴的な意味合いが強い。
長直の曽祖父は戦国武将として知られる浅野長政で、家督を継いだ長幸は紀伊国和歌山藩主となった。隠居した長政は常陸国に5万石を得、これを相続した三男の長重が赤穂家の祖となった。
本丸には天守台がある。しかし、天守は初めからなかった。
赤穂城は瀬戸内海に面した海平城で、本丸は瀬戸内海に面した南側に位置しており、海と干潟で守りを固めていた。海側にも石垣と櫓が続いていたので、当時の様子を海上から見たら壮観だっただろう。その後の千種川による河口附近の堆積と新田(塩田)開発、工業化による埋め立てによって海岸線は遠のいた。

宏大な本丸御殿の位置が示されている

埋め立て地の工場地帯を望む

元禄赤穂事件で浅野長矩が取り潰されると、永井氏を挟んで宝永3年(1706)に森長直が入封した。森氏は津山城を拠点に美作国を治める大名であったが、改易されてわずか2万石となっていた。
搦手にあたる厩口門

海側の刎橋門の遺構

海上に睨みをきかせていたであろう南横矢枡形の石垣

ぐるりと回って再び三之丸へ。三之丸の西側は武家屋敷群があった地だが、宏大な空き地となっている。
枯れ草の色をした三之丸を進み、塩屋門から出た。

門を出て西に歩く。
塩務局の建物が赤穂市民俗資料館として残っている。明治41年の建築で、旧塩務局の建物としては現存最古とのこと。
赤穂は千種川河口附近に位置し、沖合には干潟が広がっていた。浅野氏の時代には河口東側での塩田開発が進み、森氏の入封後は西側に宏大な塩田が開発された。赤穂塩は苦汁を除去した古浜塩(真塩)で、主に上方に流通した。
明治期には苦汁から薬品を作ったり、塩を使用する曹達工業の発達によって塩需要が高まった。また、明治38年には日露戦争の戦費確保を目的として塩の専売制が敷かれた。

塩田の広がる戦前の赤穂町周辺。赤穂線は未開通で、有年から赤穂鉄道が来ている

大正14年修正測図5万分1地形図「播州赤穂」より
上仮屋の城外は武家屋敷が広がっていた地で、現在はゆったりとした造りの住宅地に変わっている。
古い建物はあまり残っていないようだが、「武士道資料館」は濱尾家の武家屋敷を利用している。

上仮屋から加里屋の町人地に入る。白黒の漆喰壁の商家が並んでいる。

街の中心部に花岳寺がある。浅野家の菩提寺として、浅野家が入封した正保2年に建立された。その後の藩主家である永井家、森家も菩提寺とした。
山門は赤穂城の西惣門を移築したもので、明治6年に住職が購入したという。

大きな本堂

報恩堂

花岳寺の門前には鈎型街路が残っている。西国街道よりも海沿いを通る備前街道だ。周辺には古い建物がみられる。

角地の商家

古い商家を改装したカフェも

播州赤穂駅に戻り、12:38発の岡山ゆきに乗る。赤穂線は播州赤穂で運転系統が分かれており、東側は京阪神地区の新型車が、西側は岡山地区の旧型車が入るようだ。

姫路方面からの接続を受けると多くの席が埋まり、発車。車窓には時折海が見える。
2つ目に「備前福河」という駅があるが、ここはまだ兵庫県だ。ここはもともと岡山県日生町福浦であったが、昭和38年に兵庫県に編入された。兵庫県は摂津、播磨、淡路、丹波、但馬に加え、備前、美作の7つの令制国から構成されているのだ。
「福河」と「福浦」で1字違うのは、福河が
福浦と寒
河の合成地名で、駅ができた時は福河村であったことによる。
この駅を発車して福河トンネルをくぐると岡山県に入り、日生で下車。
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