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【「旅のはなし」の水先案内】

 「旅のはなし」をご覧いただきましてありがとうございます。
 当ブログはその名の通り,各地の旅行記を掲載しています。まったくもって行った順番には並んでおりませんので,以下の各「INDEXページ」をご参照ください。
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 また,以下の記事にはこのブログと筆者について記しています。
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松平家発展の城下町―岡崎(前) (名鉄でめぐる冬の三河5)

旅行日:平成31年1月(21~)22・23日⑤

最初の記事 自動車産業の街の中心―豊田市挙母
前の記事 宿場町は鳥居前町―池鯉鮒・知立

 知立から乗った名鉄の急行電車は9:52に東岡崎に着いた。帰路の関係で13:52発の電車に乗れねばならないので、岡崎滞在の持ち時間は丁度4時間だ。
 駅は「岡ビル百貨店」という昭和レトロな駅ビルに入っている。バス乗り場は珍しい斜め頭端式で、バックして発車してゆく。新しい橋上駅舎が一部供用されているので、早晩姿を消しそうだ。
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バスが突っ込んで停車する乗り場
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 東岡崎駅は岡崎市街の最寄り駅だが、こことて市街地とは乙川を隔てている。
 JRの岡崎駅は市街地から4キロ近くも南にあり、別の市街地を作っている。東海道線は勾配を避けて南の蒲郡を迂回し、さらに矢作川への架橋、既設の鉄道(現在の武豊線)との接続の都合から、東海道とは離れて敷設された。一方、鳴海、池鯉鮒(知立)、(東)岡崎、藤川、(名電)赤坂、御油といった東海道の宿場町をカバーしたのが愛知電気鉄道豊橋線、現在の名鉄名古屋本線だ。

 乙川は水量も少なく、水際近くに歩行者用の橋が架かっていた。エサをやる人がいて、ユリカモメとカラスが乱舞している。

轟音を立ててパノラマスーパーが橋梁を通過
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 乙川のすぐ北には岡崎城が聳える。

 ―岡崎は旧額田郡に属していた。額田郡では室町時代中期になると国人の西郷氏が伸長し、西郷稠頼が岡崎城を築いた。この城は今日見られる岡崎城とは別のもので、乙川の対岸(東岡崎駅側)にあった。

 室町時代後期には、山間の加茂郡松平郷(豊田市)を本拠とする松平氏が力をつけた。言わずと知れた徳川家康の家系である。
 松平氏は親氏を始祖とし、2代泰親は平野に進出して矢作川舟運を扼する岩津を押さえた。文明3年(1471)には3代信光が安祥(安城)城、岡崎城を攻め、西郷氏を降した。家康の祖父にあたる7代清康は安祥から岡崎に移り、現在の場所である竜頭山に本格的な城を築いた。

乙川の堤防の松並木と復元天守
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 松平清康は領土を大きく拡大し、三河国東部の牧野氏、戸田氏を討って三河国を統一した。さらに尾張国に進出するも、守山城の織田信光(信長の叔父)を攻めるさなかに家臣に討たれた(守山崩れ)。
 清康の死後、松平氏は分裂した。8代広忠は刈屋(刈谷)城の水野忠政の娘於大との間に家康を儲けるが、家臣に暗殺された。
 桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、家康は岡崎に戻る。そして三河国の一向一揆と戦って勝利し、三河国での地位を確かなものにした。その後は遠江国へと進出し、元亀元年(1570)に本拠を岡崎城から浜松城に移した。岡崎城には嫡男信康が入ったが、彼が自害に追い込まれると、岡崎城代が置かれた。

 家康の関東移封後は、田中吉政が5万石で岡崎に配された。吉政は総延長4.7キロに及ぶ濠を切り、その内側に土塁を築いた。あわせて城下町の整備や矢作川への架橋などが行われている。竜頭山は北側からの丘陵の先端に位置していたが、吉政の時代に切り崩され、連続していない。
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本丸と二ノ丸の間の深い空堀
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古そうな石橋が架かっていた (通行は不可)
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 吉政は関ケ原の戦いののち、石田三成を捕縛する功を挙げ、筑後国柳河に移封となった。
 代わって、慶長6年(1601)には上野国白井(群馬県渋川市)から本多康重が入封し、岡崎藩5万石が成立した。藩主は譜代が歴任し、正保2年(1645)から水野氏、宝暦12年(1762)から松平(松井)氏と変わり、明和6年(1769)に本多氏(忠勝の系統)が入封した。

 天守は田中吉政が築き、元和3年(1617)に本多康重が櫓を連ねた複合式に改築した。城郭の建築物は明治5、6年に取り壊されるが、昭和34年に天守が復元された。内部は鉄筋コンクリートがむき出しで、味気ない。見学者は他にいなかった。3層5階の最上階からは街を見下ろす。

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1階部分には旧天守の巨大な礎石が残る
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復元天守最上層から岡崎市街を望む
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矢作川の方向
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 北の方角には大樹寺が望まれる。大樹寺は松平家の菩提寺で、3代将軍の家光が岡崎城天守と伽藍が直線状になるように配置させた。
 約3キロを隔てているが、現在も総門と天守が互いに見渡せるよう、間には高い建物を建てないようにしているそうだ。

分かりづらいが、矢印の下が大樹寺山門
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 私は裏側から入ってしまったが、岡崎城の大手門は北側にあった。大手門は復元されており、国道1号に面した岡崎公園のシンボルになっている。
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 大樹寺まで往復6.5キロを歩くのは難しいので、1キロほどの距離にある松応(應)寺まで行ってみることにした。
 松応寺は岡崎城内で殺害された父・広忠の霊を弔うため、永禄4年(1561)に家康の発願で創建された。戦災に遭ったため、往時の外観は失われているそうだ。
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梵鐘は寛永12年(1635)、家康の九男で名古屋藩主徳川義直の寄進
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 境内の奥には広忠の廟がある。慶長5年の57回忌を機に造営されたものだが、築地塀は崩れ、侘しい雰囲気がした。
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 松応寺の門前は家々が寄り集まり、参道には屋根がかけられている。戦前は境内だったのだろうが、戦災で避難民が流入し、住宅地に蚕食されたのではないかと推測する。
 空き家が増加したのを逆手に取って、ちょっとしたカフェや雑貨店が入居している。これはこれで悪くない。

横丁の奥には太子堂
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 松応寺で折り返して南へ。伊賀川べりを歩く。人工的な感じがする直線的な流路なので、岡崎城の外濠として整備されたものかもしれない。水量は少なく、ところどころに小魚が群れている。クルマの往来がないので、歩くにはもってこいの路だ。
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 春を思わせる暖かな陽射しで、厚着してきたので暑い。

次の記事 

宿場町は鳥居前町―池鯉鮒・知立 (名鉄でめぐる冬の三河4)

旅行日:平成31年1月(21~)22・23日④

最初の記事 自動車産業の街の中心―豊田市挙母
前の記事 醸造業と寺町の港町―碧南市大浜
 
 第二日目は名古屋から。
 6時半スタートの朝食に合わせて起床するも、10分ほど出遅れてしまう。バイキング形式の朝食会場は大混雑で、少し遅めの方が良かったようだ。大都市は宿泊客も朝が早いらしい。

テレビ塔のある久屋大通を横切る
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 早起きしたので、名古屋駅まで歩いていく。桜通りを真っ直ぐ進むだけなので経路は難しくない。
 駅が近づくと堀川を渡る。名古屋築城にあたって人工的に開削された河川で、明治時代は大体この川が名古屋の街の西の限りだった。川を辿るように、カリが上空を連なって飛んで行った。
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名鉄・近鉄名古屋駅に到着
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 ホテルから30分ほどで名鉄名古屋駅に到達。昨日に引き続いて「名鉄電車2DAYフリーきっぷ」を利用する。
 まずは昨日行き損ねた知立を訪れるので、8:12発の特急豊橋ゆきに乗り込む。ラッシュのピーク時間帯なので、ホームも車内も混雑していた。
 電車は神宮前を出ると一気に速度を上げ、郊外へ。堀田で名古屋を2分前に出た急行を追い越し、鳴海で普通、前後では準急電車を抜かした。知立8:34着。
 知立駅は高架化工事中で、旧上りホームが撤去されつつあった。
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近々様子が大きく変わりそうな知立駅
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 知立は東海道39番目の宿場である池鯉鮒宿の置かれた地だ。「池鯉鮒」で「ちりふ」すなわち「ちりゅう」と読む。東海道は駅から300メートルほど北側を通っていた。
 駅周辺には空き地が目立つ。鉄道高架化事業に合わせて再開発が行われるのだろう。バイパスの旧国道1号(現在はさらに外側にバイパスができて419号が間借りしている)と交差すると、街の雰囲気が変わった。右手から東海道が合流してくる。

 知立古城公園というのがあった。知立城は永見氏の居館だったが、桶狭間の戦いの折に信長に火をかけられたという。東海道に面しているので、江戸時代は御殿としてその敷地が利用された。
 現在は公園になっていて、立派に枝を広げたクスノキの大樹が生い茂っていた。
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旧東海道。了運寺の前で左に折れ曲がる
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了運寺の本堂
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 了運寺の角は知立神社の参道の入り口になっている。知立神社には東海道から2つの参道が延びていて、ちょうど神社を頂点にした三角形を形作っている。
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辻には文化4年の銘の入った常夜灯に、知立名物のあんまき屋
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 参道は緩やかなカーブを描きながら下り、国道155号の低い跨道橋をくぐる。旧宿場町なので、主要街道の流れを汲む道路が錯綜している。
 国道をくぐると知立神社の鳥居が現れた。
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 知立神社は景行天皇の時代の創建とされ、三河国の二宮であった。江戸時代には三嶋大社、熱田神宮と並んで東海道三社に数えられた名社だったという。
 太祖・小野定連は天武天皇2年(673)に知立神社の神主職を拝命した。
 永禄4年(1561)に織田信長と徳川家康の和解が成立すると、知立神社の神主・永見貞親は周辺の土地を知行地として与えられた。神職・永見貞長の娘は、徳川家康の側室となり、結城秀康を産んでいる。

拝殿は天保2年の建立
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太鼓橋は花崗岩からなり、享保17年(1732)の造営
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 境内には神仏習合時代を伝える多宝塔が建つ。
 嘉祥3年(850)には僧の円仁が神宮寺を創建し、知立神社の別当寺とした。境内にある多宝塔は何度か再建されており、現存するものは永正6年(1509)に再建された。この塔には愛染明王像が祀られていたが、神仏分離の際に屋根の形状を改変されて像も撤去し、神社の文庫とされた。その後、大正時代にもとの構造に復元されている。
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 境内に隣接して近代建築が建つ。明治18年に明治用水土功会事務所として建てられたもので、昭和10年に当地に移築されたという。
 補強用の鉄骨が痛々しいが、現在は知立神社養正館として利用されている。
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こちらは西参道の入り口。燈篭が建つ
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 旧東海道を東へ辿り、知立の中心部へ。
 池鯉鮒宿は往年の交通の要衝で、西尾街道、刈谷街道、挙母街道などが分岐し、海山の物資が集散した。逢妻男川の対岸には駒場があり(現在の豊田市駒場町に名を遺す)、馬市も有名であった。また、三河国は木綿の生産地であったので、早い時期から東海道や海運を通じて江戸や上方に輸送された。

多くの街道が集まる知立の新旧比較
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※「今昔マップon the web」より。左は大正13年発行「知立」、同12年発行「安城」の2.5万分1地形図(筆者加筆)、右は地理院地図 ※クリックで拡大

西尾街道に入ったところ
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 西尾街道を東へ進むと、名鉄三河線の踏切がある。すぐ北側では名古屋本線の橋をくぐっており、急なカーブで知立駅に達している。知立駅高架化工事のため、名古屋本線の橋梁が切り替えられ、古い橋の橋台だけが残っている状態だった。
 この地点、もともとは三河鉄道と愛知電気鉄道が単純に交差するだけの地点であった。
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 前の記事でも触れたが、三河鉄道は東海道線の刈谷駅を中心に南は高浜、大浜港(碧南)、三河吉田(吉良吉田)へ、北は知立、拳母、猿投、西中金へと路線を延ばした。
 一方、愛知電気鉄道(愛電)は神宮前を起点に旧東海道に沿って、新知立、東岡崎、本宿を経て吉田(豊橋)に到る。知立には三河鉄道の知立駅と愛電の新知立駅が少し離れて設置されていた。

 愛電は名岐鉄道との合併によって名鉄となり、愛知県・岐阜県の鉄道会社を次々に合併し、現在に通じる路線ネットワークを構成した。三河鉄道も昭和16年に名鉄に合併される。
 戦後は貨物用の連絡線を介した直通運転が開始されたが、碧南・猿投方面ともスイッチバックが必要な構造だった。これでは不便なので抜本的な改良が行われ、昭和34年に両線が乗り入れる新しい(現在の)知立駅が設置された。この際、名古屋本線の駅は東知立に(昭和43年廃止)、三河線の駅は三河知立に改称された。

3駅時代の知立
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※「今昔マップon the web」より。昭和36年発行「知立」、「安城」の2.5万分1地形図(筆者加筆) ※クリックで拡大

 ぐるりと回り込んで三河知立駅へ。使われていないホームや貨物用だったと思われる側線が残る。

猿投方の踏切から三河知立駅
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振り返って猿投方を望む。右に分岐していた名古屋本線への連絡線の跡が見える
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駅前には使われていなそうな古くて大きな倉庫
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 三河知立駅9:38発の三河線で知立駅に戻った。着くと同時に豊橋ゆきの特急が出て行ってしまったが、9:41発の急行豊橋ゆきがすぐに入ってきた。
 運転席のすぐ後ろの座席に座れたので、東知立駅の跡を観察。が、高架化工事の影響もあってか、遺構らしいものは見られなかった。築堤上の島式ホームだったらしいが…。
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 知立附近のカーブを過ぎると、あとはひたすら直線区間が続く。急行は新安城に停まるが、安城市街は遠く、駅と市街地はJRよりも離れている。電車はにわかに広がりだした冬枯れの田園地帯を突っ走り、矢作川を渡る。
 大きな音を立てて乙川を渡り、東岡崎に到着。次はここで降りる。

次の記事 松平家発展の城下町―岡崎(前)

YADORIKI―松田町の寄地区にロウバイを見に行く

旅行日:平成31年2月4日

 この日は松田町寄地区で開かれている「第8回 松田町寄ロウバイまつり」に行ってきた。寄地区は酒匂川支流の川音川の、そのまた支流の中津川の上流に位置する。丹沢の山々に囲まれたどん詰まりのようなところなので、秘境感がある。
 ロウバイの魅力もあるが、寄がいかなるところなのか見てみたい気持ちも大きかった。


 海老名から小田急線の急行電車に乗り、9時半前に新松田着。昨夜は雨だったので、丹沢の山々には雲が纏わりついている。本厚木までは立ち客も多かった車内は、すっかりガラガラになっている。

新松田駅の跨線橋から。富士山にもまだらの雲が…
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 新松田駅から寄へは、富士急湘南バスが路線を延ばしている。1日17.5往復(土休日は12.5往復)の運転なので、ローカルバスとしては本数が多い方だろう。
 駅前の狭いロータリーには箱根登山と富士急のバスが停まっていて、神奈中が幅を利かせている渋沢までの各駅とはだいぶ様相が異なる。
 窓口で往復乗車券を購入。往復1,040円の運賃が100円引きになる。寄ゆきの乗り場には既に長い列ができている。

 1台のバスに乗りきれるか心配になる人出であったが、9:40発の定期便を前に増便が特発された。寄までノンストップで向かうそうで、小型車は満員になった。
 私は後の定期便に乗車。列には並んですらいなかったのだが、立ち客はなく、二人分の席を占められた。

新松田駅前にて。左が定期便、右が増便
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 バスは神山経由の便なので、国道246号の旧道にあたる県道710号を走行。川音川と小田急線が並行している。
 わずかに秦野市をかすめ、「寄入り口」交差点を折れる。湯の沢団地という小規模な新興住宅地がある。もっと人口があれば、渋沢と新松田の間に駅が造られただろう。駅名は「湯の沢寄口」とかで。

 住宅地の中から急勾配が続き、家並みが途切れると深い谷を見下ろすようになる。木々の間から谷底の中津川が垣間見える。なかなかの迫力だ。道幅は2車線が確保されているが、バスは急なカーブでは対向車と擦れ違えない。自然美が展開するばかりではなく、砕石場があったり、新東名の工事をしていたりする。

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(地理院地図「自分で作る色別標高図」で作成。一部加筆)

 谷深かった中津川が急激に高度を上げてくると、山が開けた。盆地というほどではないが、両側の谷がなだらかに広がっている。
 田代向というバス停でおばちゃんたちが大勢下車。どうやらここから歩いてロウバイ園に向かうらしい。
 乗客数名になったバスは寄地区の中心をなす弥勒寺集落を抜け、終点の寄バス停に到着。新松田駅から30分であった。

中津川の河原に下りてみた
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 ロウバイ園は宇津茂、土佐原集落の高台に位置する。バス停から無料送迎車がピストン輸送を行っているが、ワゴン車では輸送力が小さすぎて追いついていない。だから、細い道を歩く人が多かった。
 寄地区は足柄茶の産地なので、茶畑が目立つ。
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 寄ロウバイ園は入園料300円。ちょっとした飲食店も出ていた。
 昨夜の雨に洗われた空が青く澄み渡り、ロウバイの黄色い花が映える。芳香が漂う。
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 ひとまず一番の高台にある寄展望台へ。寄地区の北部の集落群が見渡せる。
 この地域が平地に乏しいことがわかる。寄地区は江戸時代は小田原藩領に属し、畑作と炭焼きで生業をなしていたという。現在は水田も少しはあり、川魚の養殖も行われている。前述の茶畑は、山の中腹の急斜面にまで広がっているのが見える。

「寄展望台」から望むロウバイ園と宇津茂・大寺集落
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谷間の土佐原集落
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急斜面には白いウメの花も
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 斜面を下りながらロウバイ園を散策。いちいちキャプションをつけるのも野暮だし(面倒だとも云う)、写真だけを掲出しておく。今回は単焦点レンズ大活躍であった。F値1.8のピント合わせの繰り返しはなかなか根気がいる。
 気温は15度を超え、春のような陽気だ。暖かいのに、周りの山々のスギの木はまだ大人しいのは不思議な感じがする。

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 そもそも寄ロウバイ園は、寄中学校の卒業生記念植樹に始まる。
 平成16年に荒廃農地を整備し、17年度の卒業生が250株のロウバイを植樹したという。今年は3,000株20,000本(株立ち?)に達し、敷地も1.3万平方メートルに広がっている。
 急な坂の上にあるなど観光地として立地条件があまりよくないのは、荒廃農地を利用したからだったのだ。当初はここまで人が訪れる地になるとは思っていなかったのだろう。

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 2時間近くを過ごし、蝋細工のような黄色い花を堪能した。晴天と暖かな陽気に誘われたのか、訪れる人は増す一方だ。眼下の運動場の駐車場は無料ということもあり、かなりの部分がクルマで埋め尽くされた。
 寄12:45発のバスまではまだ30分ほどあるので、少し散策。県道を歩いて弥勒寺集落へ。先にも書いた通り、寄の中心ともいえる集落で、小中学校や役場の支所、診療所なんかが集まっている。
 小中学校の隣りには寄神社が鎮座する。鳥居や電線を遥かに凌ぐスギの大木がシンボリックだ。
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 そもそも「寄」とは昭和30年に松田町と合併する前の村の名前だ。
 寄村は近世には東山家(やまが)と呼ばれ、7つの村からなっていた。明治9年に弥勒寺、中山、土佐原、宇津茂、大寺、虫沢、萱沼の7ケ村が合併し、寄村となる。
 明治22年に町村制が施行したときの町村合併であれば、従前の村名が大字となり、「足柄上郡寄村大字弥勒寺」という住所になる。だが、寄村は合併時期が一足早かったので大字を編成せず、「寄村(大字なし)」になってしまった。このことが尾を引き、現在は弥勒寺だろうと土佐原だろうと、住所は「松田町寄」だ。江戸時代の村の名前がイマイチ生きていない。

寄神社の社殿
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寄地区の主部。「○」のあたりがロウバイ園
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(地理院地図「自分で作る色別標高図」で作成。一部加筆)

 支所前停留所12:47発のバスで新松田駅へ。定刻に来たので何も疑わずに乗り込んだのだが、「上茶屋まわりですよ」と言われた。この時間帯はすべて神山経由なので、各駅停車タイプの増便だったらしい。始発ではないので座れず、運転席の近くに立って景色を眺めていた。上茶屋経由は国道246号を通ってショートカット。
 川音川はそれなりに水流があるのだが、松田の街の近くでは川切れ寸前だった。扇状地で伏流してしまうのだろう。

 街を歩けば、酒蔵を発見。文政8年(1825)創業の中沢酒造だ。蔵の後ろに聳える富士山は雲を纏う。
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新松田駅の裏手には昭和2年の開通当初からある変電所
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【おまけ】
 始発の急行で本厚木に出て、街をブラブラ。そのまま相模大橋を渡り、厚木駅前を通ったので、相鉄の操車場を覗いてみた。
 休車中の6両(7000系4両、新7000系2両)が留置されている。年末の新横浜線の開通に向けて新型車両の導入ペースが加速するようだし、いつまで持つだろうか。
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 結構歩いたような感じがしたが、それでも15,574歩。換算12.21キロ也。
 「松田町 寄ロウバイまつり」は2月11日まで。9日からは市街地に近い西平畑公園で「まつだ桜まつり」が行われる。早咲きサクラと富士山、足柄平野が眺められるので早い春が感じられる。

醸造業と寺町の港町―碧南市大浜 (名鉄でめぐる冬の三河3)

旅行日:平成31年1月(21~)22・23日③

最初の記事 自動車産業の街の中心―豊田市挙母
前の記事 三州瓦のまち―三河高浜

 高浜の次は碧南市の大浜に向かう。碧南市は昭和23年に大浜町と新川町、ほか2村が合併した際に「海(へきかい)郡の部」ということで命名された。
 碧南ゆき電車は少しずつ乗客を減らしながら南へ。途中で渡る高浜川と新川は人工的な排水路だ。
 私は終点の碧南の一つ手前の碧南中央で下車。碧南市役所は旧大浜町と旧新川町の中間に設けられたので、こんな名称になっている。かつては神戸市の須磨にちなんだ「新須磨」という駅名だったが、衣浦湾の埋め立てが進んで見る影もない。
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 踏切を渡り、大浜街道を南に歩きだしたのだが、クルマの往来が多くて面白くない。
 なんとなく海に近い別の道を進むと、古そうな工場を見つけた。この時は分からなかったが、あとで調べてみると旧岡崎電灯大浜火力発電所だと分かった。
 岡崎電灯は矢作川での水力発電所を中心とした戦前の電力会社で、愛知県・静岡県西部・岐阜県東部に配電していた。大浜火発は大正13年(1924)に竣工した岡崎電灯最大の発電所で、三河鉄道(名鉄三河線)への配電によって大正15年に同線の電化がなった。
 昭和初期の電力会社の統廃合により、岡崎電灯は中部電力(旧)、日本発送電、中部電力(新)と変遷し、大浜火発は昭和26年まで稼働した。その後は石川鋳造に譲渡され、同社の工場になっている。
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 そのあとは特に発見もないまま、碧南駅が近づいた。ようやく大浜の街に入ったようだ。

 中世の大浜は東に入り江が入り込み、三方を海に囲まれた小半島をなしていた。地形の利を生かし、古くから海上交通の要衝として栄えた。
 慶長10年(1605)に徳川家康の命によって西尾藩本多康俊が矢作川の付け替え工事を行った。瀬替えによって河口が一色から大浜村の南に変わったのだが、これによって東側の入り江に土砂が堆積して陸化した。かつての入り江は油ケ淵という潟湖として残っているが、その周辺では水害が頻発し、散々な目に遭ったという。
OHM無題
※地理院地図「自分で作る色別標高図」にて作成。筆者加筆。クリックで拡大

 江戸時代は駿河国沼津藩、幕末には上総国菊間藩(菊間は千葉県市原市)の飛び地に属し、大浜村に陣屋が置かれた。
 海運で繁栄した街の中には寺院が多く、碧南市では「大浜てらまち」を謳っている。
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 西方寺は真宗の寺。もとは天台宗の寺院だったが、蓮如に帰依して改宗している。延徳3年(1491)に大浜村に移転してきた。
 鎌倉時代に三河国に浸透した真宗は、戦国時代には本願寺の蓮如の布教によって力をつけた。本證寺(安城市)、上宮寺、勝鬘寺(岡崎市)三河三ケ寺として本願寺教団が成立した。三ケ寺を中心とした一向一揆は家康を大いに苦しめることになる。

 衣浦沿岸では西方寺と高浜市の恩任寺、専修坊「浜三ケ寺」として真宗の拠点となった。
 城のような櫓が特徴的だが、これは太鼓堂といって、新民序という菊間藩の学校(大浜小学校の前身にあたる)として使われた。
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大きな本堂は文化8年(1811)の建立
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 路地に入ると黒壁の大きな蔵を見ることができる。九重味淋の大蔵で、宝永3年(1706)に建てられたというから、築300年を超えている。現在地に移築され、改築されたのは天明7年(1787)。内部は味醂の貯造蔵だという。
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 九重味淋の創業者である石川信敦は廻船問屋を営んでいた。三河国の風土が味醂造りに適していると考え、醸造を始めたのは安永元年(1772)のことだという。
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 敷地内には「九重味淋時代館」があり、見学ができるようになっている。ただ、事前に予約が必要なので、何時にどこにいるかがはっきりしない私には難しい。
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 見学は難しい代わり、敷地内には「石川八郎治商店」があり、買い物はできる。なかなか重厚な建物で、こういうのを敷居が高いというのだろう。勇気を出して扉を開いた。
 しかし、味醂には馴染みがないので買うことはせず、味醂味のソフトクリームを賞味。上品な甘みがあり、コクのある後味だった。隣りにはレストランの「K庵」もあり、味醂を用いた料理やスイーツを味わうこともできるようになっている。
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九重味淋前の路地と太鼓堂
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熟成によって色を変える味醂を展示
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※一般名詞は「味」ですが、会社名は「九重味」なので書き分けています

 緩やかな坂道を下り、海辺へ。掘り込み式の大浜漁港があるので、ここではなんとか海を感じることができる。
 一向一揆を蹴散らして三河国を平定した徳川家康は天正4年(1576)に大浜に羽城を築き、長田氏を配置した。本能寺の変の際、家康は和泉国堺から伊賀越えをして命からがら逃げのびたが、伊勢国白子から渡海して本国に帰着した。その際の上陸地が当地だ。
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漁港に注ぎ込む堀川
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 大浜の街は堀川の南にも続いている。クルマが入れるか入れないかの細い路地が入り組んでいるところもあり、ブラブラしがいがある。

妻薬師の祀られた辻
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 本伝寺は弘仁年間(810-24)に澄円が建立した太子堂をはじまりとし、もともとは大浜村の隣村である棚尾村にあった。蓮如への帰依で真宗に改宗し、正徳年間(1711-16)に当地に移転した。
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 称名寺は徳川(松平)家との縁が深い。もともと天台宗の寺であったが、暦応2年(1339)に正阿(新田氏の一族)によって時宗に転じた。
 家康の曽祖父である松平信忠は若くして家督を清康に譲り、当寺に隠居した。また、家康の幼名である「竹千代」は称名寺十五世の一天和尚の命名とされる。
 家康の関東移封後は寺領を豊臣秀吉に没収され、文禄の役の際には田中吉政が本堂を造船所として利用したため、一時は荒廃したという。
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家康ゆかりの地なので、称名寺境内には東照宮が祀られている
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 大浜街道沿い、橋の袂には八角形の塔屋が特徴的な近代建築が見られる。大正13年に建てられた旧大浜警察署で、昭和23年の市制時に碧南警察署になったのち、昭和36年まで使用された。
 鉄筋コンクリート造りに瓦屋根というのが、この地域らしさを出した擬洋風建築だ。
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 内陸方面に向かうと、遊歩道に行き当たる。碧南から先、西尾線の吉良吉田まで通じていた三河線の廃線跡だ。この区間は大正15年に開通したが、猿投・西中金間と同じ平成16年に廃止になった。
 碧南の先では大きなカーブを描く線形に特徴があった。これは大浜と棚尾の市街を避けつつ、矢作川をできる限る上流で渡ろうとする配慮だろうか。
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街を取り巻くように走っていた三河線廃線区間
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※「今昔マップon the web」より。左は昭和36年発行2.5万分1地形図「半田」、「西尾」、右は地理院地図(クリックで拡大)

吉良吉田方面への線路が途切れた碧南駅構内
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 陽がだいぶ傾いた頃、碧南駅に辿り着いた。駅舎は古びていて、駅前からは鉄道代替である吉良吉田ゆきのバスが発着する。
 隣りに新駅舎を造る工事をしていたので、この姿が見られるのももう長くないのかもしれない。

改築間際の碧南駅と煙草屋
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 帰りは16:42発の知立ゆきに乗車。30分ほどで知立に着くころにはだいぶ暗くなっていた。
 すぐに出る特急名鉄岐阜ゆきは混んでいたので、17:23発の急行佐屋ゆきに乗る。名鉄のダイヤは複雑で、この電車は急行通過駅の豊明に特別停車し、神宮前からは準急、さらに須ケ口からは普通に変わる。

 私は金山で下車して地下鉄名城線に乗り換え、栄へ。少し街を歩いてから久屋大通に面したホテルに入った。
 きょうは非常によく歩いた。スマホの歩数計によれば、31,576歩、換算24.67キロ也。

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