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【「旅のはなし」の水先案内】

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 当ブログは、各地の旅行記を掲載しています。行った順番と投稿する順番が前後することもありますので、以下の各「INDEXページ」もご参照ください。
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【PC推奨】同行者別INDEX (同行者様別に並べてあります/リアルでの知人限定公開)

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大洗にあんこう鍋を食べに行く週末(+牛久シャトーと水戸市立博物館)

旅行日:令和2年2月16日

 今回の企画は茨城県の大洗に冬の味覚、あんこう鍋を食べに行く会。
 学生時代の先輩方との大体四半期ごとの小旅行で、昨年は秩父宝登山、筑波山、東京スカイツリー、渋谷スクランブルスクエアを核にのんびり散策しました。「大洗であんこう」のきっかけは、筑波山での誰かの発言がきっかけだったと思いますが、もう定かではありません。今回は景さん、司さんとの三人。やまとさんも来るはずでしたが、所用のため直前でキャンセルになってしまいました。

 2月16日、日曜日の朝。どんよりと曇っていて、きょうは雨の予報です。
 7時過ぎに出発し、羽沢ICから第三京浜を北上。オフシーズンの天候不良日の日曜日の朝とあって、道路はガラガラ。上野毛まで23分、荻窪駅まで45分は速すぎました。
 30分ほど待って司さんをピックアップし、お家の近くのコンビニで景さんとも合流。首都高から常磐道に入ります。

 あんこう鍋は13時半で予約しており、それまではノープラン。降り出した雨も強くなってきたので、屋外よりも屋内の方が良さそう。圏央道のつくば牛久ICを流出し、向かったのは…。
 牛久シャトーです。(激しい雨)
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 牛久シャトーは、シャトーカミヤとして明治期に創設されたワインの醸造所です。
 上写真の建物は旧事務室の「本館」。明治36年(1903)竣工で、時計塔や白壁にあしらわれたブドウの画が瀟洒です。

 本館は外観を眺めながら通路をくぐるだけですが、奥にある旧醗酵室の「神谷傳兵衛記念館」は見学ができます。醗酵室は本館に較べると質実剛健そうな印象を受けますが、ドーマーや壁面の丸窓に手間を感じます。
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1階部分には巨大なワイン樽がずらり
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 2階部分がメインの展示室。天井がないので、屋根を叩く雨音が響きます。
 神谷傳兵衛は幕末に三河国で生まれ、開港したばかりの横浜の醸造所に勤めました。その後、明治13年(1890)に浅草で「みかはや銘酒店」を開きました。電気ブランで有名な「神谷バー」の前身です。
 さらに日本人向けの洋酒として「蜂印香竄葡萄酒」を発売します。
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 「蜂印香竄葡萄酒」は輸入ワインを再製したものだったので、神谷はブドウ栽培から国産ワインの生産を志し、婿養子の傳蔵をフランスに三年間留学させました。明治31年、当時の茨城県稲敷郡の女化原に土地を取得し、まずは神谷葡萄園を開園。さらに醸造設備が整え、明治36年に牛久醸造所を開設しました。
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 この建物には地下室もあり、見学可能。が、かなり暗く、不気味なくらいでした。写真は肉眼よりも明るく見えるように写しています。振り返れば近代的な研究室があって、アヤしいラボに見えてしまいます。
 そういえば、敷地に入ってからまだ誰とも出会っていません。
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 ブドウ園は住宅地に飲み込まれてほとんど失われていますが、敷地内でわずかに栽培されています。牛久シャトーは宏大で、庭園やほかにも施設があります。
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ウメの咲く日本庭園
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 私はこの場所は6年ほど前にも訪れたことがありますが、その時はレンガ造りの建物が震災復旧工事中でした。建物の工事は済みましたが、昨年には敷地内にあったレストランやスーベニアショップが廃止になり、だいぶ規模が縮小されてしまいました。磨けば光りそうなスポットなだけに、勿体ない…。

関連記事
 (154-1)シャトーカミヤと石岡の看板建築群

 ほかの見学施設としては「オエノン ミュージアム」があります。オエノンホールディングスは神谷酒造などが統合した合同酒精の後継企業で、牛久シャトーの現在のオーナー。
 製品展示がメインで、「鍛高譚」の巨大ボトルも置いてありました(試飲はナシ)。
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 1時間ほど見ていましたが、ほかのお客さんとは出会わずじまいで牛久シャトーを後にします。

 少し走って、次なる目的地の牛久大仏へ。高さ120メートルという巨大さで知られます。「デカいから遠くからでも見えるでしょ」と案内看板に従って走って行きましたが、アシモトに来てからようやく見える始末。ご尊顔を拝することもできません。
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 牛久大仏は胸の高さまで上がって、霞ケ浦などを望むことができるそうですが、この天気では無理。入るのは諦め、焼き芋でおやつにしました。ちなみに、牛久シャトーと違って参拝者は多く、若い人も見かけました。

 12時近くになったので、大洗に向けて移動します。
 霞ケ浦を避けて土浦に到り、国道354号を東へ。霞ケ浦大橋から鉾田に抜けましたが、意外と時間がかかり、お店に着いたのは13時半ぴったりでした。
 今回予約したのは大洗駅近くの「味よし」というお店です。
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 すぐに座敷席に案内していただきました。週末は予約した方が良いと聞いていましたが、若干の空席がありました。昼食には遅い時間なのか、悪天候のため?
 さっそくあんこう鍋の登場!
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 鍋に火を入れている間、お刺身とあん肝が運ばれてきました。私が予約したところ、問答無用で(?)「あんこう鍋定食」というメニューになりました。「定食」の部分はお刺身、あん肝、それに雑炊のご飯のことのようですが、鍋を待っている間は手持ち無沙汰なので、これはありがたいです。
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 お刺身がなくなる頃には鍋も煮え、よい具合になりました。
 アンコウはプルプルで旨い!部位によってはやや骨が多く、身を剥がすのが大変…。カニを食べるように三人がそれぞれ黙々と取り組みます。
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 鍋の具材を食べ尽くすと、雑炊用のご飯を投入。…かと思いきや、一旦引き上げられる鍋。しばらく経つと、雑炊が出来上がった状態で戻ってきました。給仕の方は素手で鍋を運んでいますが、熱くないのでしょうか…。
 完成状態の雑炊は、焦げつかない絶妙な状態。具材の出汁が出ているので、むろん絶品でした。トータル3,300円(税込)也。
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 食後はもう14時半なので、水戸市へ移動。大洗ではマリンタワーと磯前神社には行こうという計画だったのですが、マリンタワーは悪天候で断念。磯前神社は帰りの高速で、景さんが「そういえば磯前神社に行ってない!」と言うまですっかり忘れていました。
 暖冬で偕楽園のウメも早めに咲いているようですが、このお天気。外を歩くのは大変なので、水戸市立博物館へ。
 市立博物館では、我々地理学科(卒)にはうってつけの特別展「水戸の大地の成り立ち―水戸140億年史―」が開催中なのです。おあつらえ向き過ぎる!

 博物館の規模は小さめですが、さすがはつくばを擁する茨城県で、後援にはJAXAと産総研地質調査総合センターのビックネームが名を連ねています。
 私たちは展示を年代順に追い、赤色立体地図のところで立ち往生。「那珂川の旧河道がよくわかりますね」とか「大洗の海岸段丘がすごい」などと言い、大変楽しめました。
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 少々くたびれたので、水戸芸術館内にある茨城県のコーヒーチェーン「Saza Coffee」で小休止。
 私は「アイス徳川将軍カフェラテ」を註文。奇抜なネーミングですが、ちゃんとゆかりがあります。
 最後の将軍である徳川慶喜が飲んだコーヒーを、4代目の故・慶朝氏が再現したものなのだそうです。慶喜は水戸藩主・徳川斉昭の子なので、水戸ともつながりがあるのです。
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 店舗は静かな環境で、席は広々としてゆったり。東京にはない良さです。

 店を出ると18時近く。もう暗闇です。
 ドライブインで干し芋を買い、水戸ICから常磐道を快走。懸念していた渋滞は一切なく、あっという間に東京へ。二人を順番に降ろして帰途に就きました。
 走行距離は380.6キロ、平均燃費は21.03キロ/リットル(満タン法)でした。

豊前の真ん中、中津城下町を散策 (あったか冬の東九州紀行8)

旅行日:令和2年1月7~9日⑧

最初の記事 九州のまんなか・日田へ
前の記事 レンタサイクルで宇佐神宮に参詣する

 宇佐から乗った普通列車は11:51に中津に着いた。高架の駅を出ると、福澤諭吉の立像がお出迎えするように立っている。中津ゆかりの人物は多いが、彼がこの街で一番の有名人だろう。
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 ちょうど昼時なので、まずは昼食にする。中津市といえば鶏の唐揚げが有名だ。しかし、市内の店は肉屋が総菜として売っているタイプが多く、定食で食べられるところはあまりない。きょうも暖かいし、弁当を買って公園で食べてもいいなと思っていたのだが、「からいち総本店」に入ると、都合よくひとテーブルだけのイートインスペースがあった。ありがたく利用させていただく。

唐揚げ弁当ご飯大盛り
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 中津は城下町であるので、城を訪れたいところであるが、まずは県道を西へと山国川まで歩く。山国川は英彦山の東に発して耶馬渓を刻んで周防灘に流れ込む河川で、下流域では福岡県と大分県の県境をなしている。左岸(福岡県側)の上毛郡も右岸(大分県側)の下毛郡も豊前国であるが、明治時代に別々の県に属することになって、この川が県境になった。
 山国川に架かる山国橋は変哲もない道路橋に見えたが、橋桁はレンガ造りであった。親柱の銘板によると昭和9年竣工だ。
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 橋の上から下流を見渡せば、周防灘は間近だ。山国川は二手に分かれ、三角洲を作っている。左が本流で、右が中津川だ。16世紀の末までは現在の中津川が山国川だったが、洪水によって新しい流路(現在の山国川)ができたという。
 その名残で三角洲の小祝島は明治期までは福岡県に属していたが、明治29年に大分県下毛郡に移管された。
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 中津川の堤防を下流に向かって歩けば、中津城の模擬天守が見えてきた。この城は周防灘と中津川で二方向の濠代わりにしている。潮が引いて葦原が干上がっている。
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 南北朝時代から室町時代の末にかけて、豊前国の守護は西日本の覇者・大内氏であった。天文20年(1551)に大内義隆が守護代の陶晴賢に討ち取られ(大寧寺の変)、弘治元年(1555)に厳島の戦いで晴賢が毛利元就に敗れると、大内氏は九州の支配は崩壊した。かわって、豊後国の大友義鎮(のちの宗麟)が北部九州に伸張し、その領国は豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後の6ケ国に達した。
 しかし、天正6年(1578)に日向国臼杵郡で薩摩国の島津義久に大敗する(耳川の戦い)と、大友氏の勢力に翳りが出てくる。天正14年、大友義鎮は豊臣秀吉に出兵を乞う。豊臣方の黒田孝高(官兵衛、如水)や毛利勢が北部九州の島津方を降したが、肝腎の義鎮は大分郡鶴賀城の戦いで大敗した。論功行賞によって義鎮に残ったのは豊後一国だけで、孝高が豊前国8郡中6郡(京都、築城、上毛、下毛、仲津、宇佐郡)を与えられた。

 堤防を下り、大手門を目指す。途中で渡る溝は濠の遺構らしい。城郭の西側には小倉口があった。
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 道がクランクしているところに石垣が残っているのは、枡形門の遺構だ。ここにあったのは中津城の搦手にあたる西門で、手前で中濠を渡る構造の櫓門だったようだ。櫓門の部分は明治2年に焼失している。
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 中濠と内濠のあいだは三ノ丸。三ノ丁とも呼ばれ、上級武士の屋敷地があった。古い道にしては幅が広く、一直線なのが特徴だ。現在でも閑静な高級住宅地の趣がある。
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 三ノ丁では柔道場の錬心館と中津カトリック教会が並んでいる。教会堂は昭和13年に建てられたものだ。
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中津カトリック教会
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 三ノ丁の東側には大手門があった。枡形門だったというが、行き止まり側の石垣が失われているので、往時を偲ぶのは難しい。石垣の上に載っていた門は、黒田孝高が滅ぼした犬丸城から移築されたものだったという。
 現在は北側が幼稚園、南側が小学校になっている。
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 大手門の先は黒門、椎木門と続き、二ノ丸に通じていた。濠とセットになっていた椎木門も左右の石垣が残るだけで、門の代わりに中津大神宮の鳥居が建っている。二ノ丸は駐車場だ。
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中津大神宮は明治の初めに伊勢神宮を勧請、創建されたもの
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 豊前国に入った黒田孝高は当初、京都郡の馬ケ岳城(福岡県行橋市)を居城としたが、下毛郡の山国川下流に築城した。これが中津城だ。新領主に対し、土豪の城井(宇都宮)鎮房などが叛乱を起こしたが、黒田孝高・長政父子は2年かけて平定した。
 長政は関ケ原の戦いで東軍の重鎮として戦い、孝高は西軍についた豊後国の大友吉統を石垣原の戦いで破った。中央から遠く離れた九州の地であるが、孝高は瀬戸内海に早船を配置しておき、大坂の情報は3日で中津に届いたという。海べりの城の利点を生かしている。
 父子の戦功により所領は50万石に加増され、筑前国名島(のちに福岡)に移っている。

 二ノ丸を奥へと進むと模擬天守が近づいてくる。中津城の天守は江戸時代の絵図にもなく、存在したのかはっきりしないのだが、昭和39年に建てられた。
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5層の模擬天守は西日本に多い黒壁
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 模擬天守の内部は資料館になっている。刀剣や武具の展示がメインのようだが、私は国絵図や朱印状の方が興味がある。撮影禁止なので、資料の写真はなし。
 最上層まで昇りきると、眺望が待っている。北側は中津川と周防灘で、中津城が二方向を水部による守りにしたことがよく判る。
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東側は周防灘沿岸の平野。遠くに国東半島の山並み
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西に見える裾の長い山は国見山
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 天守を出ると、内濠に沿って北側を見に行く。櫓と天守が並ぶ東からの見映えが良いが、「黒田官兵衛歴史館」の背面が無粋でもったいない。せっかく建てるのなら、櫓や塀ふうにすればよかったのに…。
 中津城の濠は中津川に繋がっており、潮の満ち引きによって水位が変化する。今は干潮時間帯なので、一部が干上がってしまうほど浅い。
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 黒田氏に代わって中津の地に封ぜられたのは、丹後国田辺(京都府舞鶴市)の細川忠興であった。所領は豊前一国と豊後国速見郡、国東郡の39万石に及んだ。忠興は大家川を塞ぎ、これを中津城の外堀とするなど、城下町の整備を行った。
 慶長7年(1602)、忠興は居城中津城からを企救郡小倉城に移す。中津城には忠興の次男である忠秋(のちに弟の忠利)が配置されたが、忠興が隠居した際に当主となった忠利と居城を入れ替えている。

 本丸の北側には二つの石垣が重なり合っている。右側が黒田氏、左側が細川氏の時代のものだという。右側の方が石の形状が整っていて、新しい時代のもののように見える。が、これは古代の唐原山城から運んできたためだそうだ。
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 細川氏による豊前国支配は寛永9年(1632)まで続き、肥後国熊本への移封によって小笠原氏が入る。小笠原秀政は大坂夏の陣で戦死していたため、その子らで豊前国を分割した。次男忠真が小倉(15万石)、三男忠知が豊後国杵築(4万石)、末子重直が龍王3万石、そして長男忠脩の子長次が中津(8万石)であった。
 中津の小笠原氏は徐々に所領を減らし、享保12年(1727)に丹後国宮津から奥平昌成が10万石で入封した。奥平氏は長篠城の籠城で功を挙げた徳川家譜代で、幕末まで奥平氏による支配が続くこととなった。

 城から東へと歩き、福澤諭吉旧宅を訪れる。200年以上の屋敷が現存している。手前側ワンブロック分が広場になっているので、写真は撮りやすい。往時の道はクスノキと石垣の間だったから、狭かったのだ。
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 旧宅と同じ敷地には福澤記念館があり、展示は充実していた。
 館内には現行と一つ前の一万円札の紙幣番号1番が展示されていた。福澤諭吉ゆかりの地ということで、政府から贈られたものだそうだ。4年後の令和6年には渋沢栄一に変更される予定なので、中津の人たちは残念だろう。
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 城の東側は寺が多い。外濠と並行するように帯状に寺が配置されている。
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 西連寺は天正16年(1588)、光心師による創建。光心師は黒田孝高の末弟で、父・職隆の死に際して出家した。本堂は天保14年(1844)の建立。
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 直線的だった道がカーブすると、赤壁で有名な合元寺がある。播磨国姫路から阿弥陀如来像を移して建立されたという。
 黒田氏に叛旗を翻した城井鎮房は、中津城で黒田長政に謀殺された。この際、鎮房の家臣はこの寺に留め置かれており、黒田氏の軍勢が押し寄せ、激しい戦闘によって寺の壁が赤く染まるほどだったという。この壁は何度塗りなおしても赤くなるため、ついに赤く塗ったとされる。中津城内に城井氏を祀る神社が建立されるなど、怨嗟や伝承は長く続いたらしい。
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 街の中にはレンガ造りの倉庫があった。ガス会社の施設だったもののようだ。
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 予定していた列車の時刻までにはまだ間があるので、もう少しブラブラしていこう。
 駅の西の諸町通りへ。「諸町」というのは様々な業種の職人の街という意味合いだろう。この通りは、旧国道の県道108号や日豊線と並行している。
 漆喰塗りの建物は村上医家史料館。初代の宗伯は大坂の古林見宣に学び、寛永17年(1640)に中津で開業した。現在残る建物は7代目の玄水のときに建てられた。
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奥行きのある商家建築
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現在も醸造を行うむろや醤油
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米穀商の宇野家住宅は文化12年(1815)の建築
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 また、県道沿いには新中津市学校がある。
 中津市学校は中津の慶應義塾ともいうべき学校で、福澤諭吉の提言で明治4年に設立された。資金は元藩主で自身も慶應義塾で学んだ奥平昌邁や藩士が支出し、慶應義塾に準ずるカリキュラムで授業が行われたそうだ。
 公立学校の普及によって明治16年に閉学したが、昨令和元年に市民学校として蘇った。
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 中津駅から山国川橋梁に到る日豊線の高架線路沿いには、土の高まりが続いている。
 これは「おかこい山」と呼ばれる土塁で、現在線路が通っているところは中津城の外濠だったという。直線的に続く土の高まりであるので、そう知らされていなければ、単線時代の築堤だと思ったかもしれない。
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 線路沿いに駅に戻ると発車5分前で、あわただしく飲み物を買ってから改札をくぐった。

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京急で行く!横須賀ミニトリップ(後) 走水から観音埼灯台へ&横須賀グルメの昼と夜

旅行日:令和2年2月9日②

前の記事 京急で行く!横須賀ミニトリップ(前) 浦賀・観音崎の澄んだ海沿いを散策

 浦賀駅から海沿いに観音崎近くまで歩いたのち、バスと電車で汐入駅まで戻ってきた。
 「横須賀満喫きっぷ」には「食べる券」と「遊ぶ券」がついている。「食べる券」はドブ板通りを中心にした飲食店で使うことができ、海軍カレー、ネイビーバーガー、横須賀市の地産地消グルメのメニューが味わえる。
 ドブ板通りは人通りも増し、朝とは大違いだ。ちょうど沖縄のイベントもやっていて、沖縄そばやオリオンビールにも魅かれてしまう。

 「TSUNAMI」や「HONEY BEE」といった人気店は外までの大行列。私たちはあまり並びたくないので、すぐに座れるという「ハングリーズ」という店を選んだ。店はビルの2階だが、1階の系列店(?)「ALEX'S SALOON」から入り、席も1階だった。カウンターとテーブル席があり、ほぼ満席。ビリヤード台などもあり、装飾はアメリカンな感じ(BGMはビートルズだったけど…)。
 「食べる券」メニューはカレーとバーガーのハーフサイズプレートとなっていたが、プラス500円でサイズアップ、プラス800円でアルコールが追加できるとのこと。商売上手で、そう言われたらつけてしまう。

横須賀満喫中
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(私はバドワイザー。ハイネケンはオランダのビールと、かつて米軍基地で学んだ)

 サイズアップしたこともあり、ボリューム抜群。プレートの上が海戦状態だが、どちらも美味しかった。デザートには最近売り出し中のヨコスカチェリーチーズケーキもついた。
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 午後は、午前中とは反対側から観音崎まで歩くことにした。閉店したショッパーズプラザ前の汐留バス停から観音崎ゆきのバスに乗る。横須賀駅から来たバスはほぼ無人だったが、市街地で客を拾い、立ち客も出た。
 国道16・134号、県道208号と海からはやや離れたところを走るが、このルートは埋め立て前の海岸線に近い。馬堀海岸駅の先で再び16号に折れて海沿いに出て、伊勢町という停留所で下車。

 海は近いが、県道は登り坂になる。ずっと海に張り付いて行くと思っていたので、意外な感じがした。ウメの花が咲いている。
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 走水小学校バス停の脇には破崎園地として展望台が整備されていた。ここからは横須賀港ごしに富士山を望める。
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少し雪のある丹沢・大山の山並み
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きょうは行かれなかった猿島。結構大きい
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漁港はやや沖にある
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 坂を下り、旗山崎を過ぎると走水湾が現れる。小さな漁港のあるこぢんまりとした集落だ。
 走水は日本武尊(ヤマトタケル)ゆかりの地だ。『古事記』や『日本書紀』で東征に向かった日本武尊(ヤマトタケル)は相模国から房総半島に渡ろうとするが、海が荒れ、妃の弟橘媛が入水して犠牲になることで渡海に成功するという記述がある。
 古代はまだ武蔵国と下総国の間が陸化しきっていなかったので、畿内から房総半島方面に到るのは、相模国から海を渡るのが常道であった。
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 集落の高台には走水神社があり、日本武尊と弟橘媛が祀られている。
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社殿からは東京湾を望む (なお露出…;)
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 走水湾の東は伊勢山崎。切り通しのところに「走水」という小さな交差点があり、ここから国道16号が始まる。環状道路である16号は、厳密には横浜市の高島町交差点が起点であり終点であるが、横須賀市走水と富津市富津の間は未開通の海上国道となっている。
 日本武尊の渡海地点は相模国のどことは記されていないそうだが、祭神の神社のすぐ近くに国道の渡海地点があるというのは一つの因果を感じる。
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 観音崎京急ホテルが見えてきた。「SPASSO」のある最終目的地であるが、観音崎到達が先だ。
 ホテルと海の間にはウッドデッキが整備されている。東京湾を間近に感じられるポイントだが、東風が強く、潮の飛沫が容赦なく降りかかる。
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観音崎の高まりが見えてきた
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打ちあげられた芥が多いが、きれいな磯も
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 昼前に訪れた観音崎バス停のところから、観音崎公園に入る。
 大正関東地震のときに盛り上がったであろう波蝕棚が露出し、絶好の磯遊びポイントになっている。次に地震が来たら大きく景観が変わるだろう。
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 東京湾に突き出した観音崎の先端部は芝生の広場になっていた。が、厳重な金網に塞がれ、市民は入ることができない。海上交通の要衝ということはわかるが、なんとも勿体ない。
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 地層の模様がついたトンネルを抜け、一旦県道へ。坂を上って灯台に向かう。
 濃密な森の中に石垣に囲まれた広い空間が開けた。砲台の跡地だという。レンガ造りのトンネルも見えるが、二門あった砲同士を繋いでいたものだという。
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縞模様の切り通し
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 切り通しを抜けると白亜の灯台が現れた。
 観音灯台は明治2年(1869)初点灯という、日本初の洋式灯台だという。当初のものは地震で失われ、現在のものは大正14年(1925)に建造された。
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 きょうは好天で眺めが良さそうなので、見学料を払って昇る。階段は狭く、廻廊の幅も極めて狭い。眺めは良く、浦賀水道から東京湾を一望にする。
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立ち入ることのできない観音崎の突端部
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浦賀水道を隔てて房総国境の鋸山を望む
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第二海堡を遠望。アクアラインの「風の塔」の左側には筑波山も
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横浜のビル群を望む
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超巨大な自動車運搬船が行き交う
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 長い階段を下って海べりに戻り、本日の最終目的地である「SPASSO」に入る。「横須賀満喫きっぷ」の「遊ぶ券」が入浴券になる。タオル付なのも嬉しい。ちなみに、通常だと土休日の入館料は1,900円。「満喫きっぷ」の約3分の2の金額に相当する。金額ベースでみると、「遊ぶ券」はココが一番お得そうだ。京急グループの施設だからだろうと、まりんさんが推理。

 館内はあまり広くないが、新しくて清潔。混雑を懸念していたが、日曜日の夕方とは思えない空き具合だった。ちょっと高価な上、馬堀海岸にある「湯楽の里」と競合するからだろう。
 内湯のほかに露天風呂もあり、海を望むことができる。船だけでなく、羽田空港に下りる飛行機もバンバン通過するので、結構楽しい。ただ、風が強く、湯に身体を浸していないと寒い。
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(写真は「SPASSO」のホームページより。ただし、女性の方)

 湯上りのビールは我慢して、ホテル前16:50過ぎのバスに乗り込む。破崎園地の走水小学校バス停からは、夕照の富士山と横須賀港を望んだ。
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 バスの乗客はどんどん増し、市街地へ。大滝町で下車し、ドブ板通りのはずれにある店に入る。
 クラフトビールの「横須賀ビール」(という店名)で、まりんさんが朝から目をつけていた。1階は醸造所で、2階がレストランとなっている。
 刺身は「どっさり盛り」を謳うだけあって、三浦半島産の魚が迫力あるほど載っている。クラフトビールも一般的なところよりも安い。
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釜利谷(金沢区)しいたけのアヒージョも美味!
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 時間を見計らって横須賀中央駅まで歩き、2100形の快特に乗車。19時を過ぎたので、車内はガラガラだった。風光明媚で天気にも食にも恵まれ、横須賀市の評価が爆上がりした一日だった。

レンタサイクルで宇佐神宮に参詣する (あったか冬の東九州紀行7)

旅行日:令和2年1月7~9日⑦

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 九州の旅、最終日。
 きょうは別府市からJR日豊線で小倉を回って博多に到り、福岡空港から帰ることになっている。「青春18きっぷ」の1回分が金券ショップで2,500円で手に入ったので、これを使う。
 早起きして朝風呂を浴び、7:40頃にはホテルを発つ。高架のホームに立つと、鶴見岳などの山々が聳え、頂上の辺りだけが朝日を浴びているのが見える。
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 最初に乗るのは8:00発の中津ゆき。短い2両連結で、通勤・通学の時間帯なので混雑していた。
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 2つ目の亀川での下車が多く、車内は一気にガラガラに空いた。豊後豊岡を過ぎると、緩やかに登りながら別府湾を見渡す。きょうも気持ちの良い晴れだ。
 難読城下町の日出(ひじ)を発車すると、単線になった。日豊線の小倉・大分間は全線複線化されていると思っていたので、面食らう。次の大神(おおが)も難読駅で、対向の特急列車を待つ。出発時に倒れかけた竹にぶつかって大きな音がしたが、そのまま加速した。次の杵築では貨物列車が出発を待っており、複雑なダイヤになっていることを窺わせる。杵築も城下町だが、海に面した街は駅から4キロほどの距離を隔てている。

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 複線になって内陸部に入り、国東半島の付け根の山越えにかかる。
 次の中山香では特急列車の通過待ち。ホームに下りて深呼吸。朝陽が眩しかった。
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 中山香から立石までの一駅はまた単線。立石駅の途中で上下線が大きく分かれ、立石峠を越える。分水嶺を越えて少し下ったところに豊後国と豊前国の国境がある。同じ大分県とはいえ、人の流れは少ないようで、客は2両に20人くらいしか乗っていない。
 本日最初の目的地は宇佐神宮だが、宇佐駅に8:55に着いても神宮への足がない。そのため、1つ先の豊前長洲で下車。古い木造駅舎が残っていた。明治44年開業時のものなのだろう。
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 反対方向の列車が来るまでには30分ほどある。地図を見るともう一つ先の柳ケ浦駅まで2キロくらいしかない。歩いて行ってみよう。
 長洲を含む宇佐郡・国東郡の一部は、江戸時代に島原藩の飛び地だった。代官所は高田(豊後高田市)に置かれたが、長洲には会所があった。その港町は駅は海から1キロ強離れている。海岸線と距離をおいて並行する県道の旧道を歩き出すと、古い町並みが残っていた。
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 旧道が県道に収束すると、小松橋で駅館(やっかん)川を渡る。川の名前は沿岸に古代の駅家(うまや)があったことに由来すると考えられており、宇佐神宮ともども宇佐郡の地が古代の中心地であったことを窺わせる。地図で見ると周防灘の河口付近には干潟が広がっているが、満潮時刻が近いようで、満々と水を湛えている。
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 無事に柳ケ浦駅に辿り着き、9:31発の大分ゆきで宇佐に戻った。
 JR九州では駅名標にアイコンを入れているが、宇佐駅のものは宇佐神宮を描きつつも遠目には星条旗に見えるデザインなのが面白い。これはもちろん、宇佐のローマ字表記が「USA」であることにちなんでいる。
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駅舎は朱塗りの神社の社殿風
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駅前ネコ
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 宇佐駅からはレンタサイクルで宇佐神宮を目指す。宇佐神宮までは約4キロの道のりで、9時台はバスの便もなく、レンタサイクルも10時からとなっている。電動自転車が300円で借りられるのは安い。
 神宮までの道の大半は国道10号であるが、2車線であまり広いとはいえない。歩道はあっても自転車走行可の区間は全体の3割くらいしかなく、トラックを気にしながら車道を走らねばならなかった。電動アシスト付き自転車とはいえ、緩やかなアップダウンが続き、あまりペースは上がらない。

 15分強で走り抜け、観光協会前に自転車を停めさせてもらう。歩いて境内に入る。西から延びてくる参道は一直線だ。現在は神橋から大鳥居をくぐる経路が表参道だが、昭和初期まではこちらの西参道が表参道だったそうだ。
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 宇佐神宮は豊前国の一ノ宮であり、全国の八幡神の総社である。その創始は詳らかではないが、仏教や渡来人との関わりの深さが特徴だ。これは古代に当地を支配した宇佐氏(宇佐国造)、大神氏(大和国の出?)、辛島氏(渡来人系)の氏族の信仰が融合したためとされる。

 鳥居をくぐると、藻寄川に朱塗りの橋が架かる。呉橋といって、元和8年(1632)に造営された。石造りの橋桁はコンクリートで補強され、河川改修のために手前部分が延伸されている。10年ごとに行われる勅使祭の時だけ使用されるそうだ。
 なお、藻寄川は少し下流の神橋までのあいだは月ノ瀬川とも呼ばれる。
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 藻寄川を渡ると、木立の中を参道が延びている。木が生い茂っているが、神宮寺である弥勒寺があった場所だ。
 弥勒寺の創建は神亀2年(725)と古く、宇佐神宮境内に移って神宮寺となったのは天平9年(737)とされる。発掘調査により、寺域は広く、金堂の南に東塔・西塔を配置する薬師寺式伽藍配置だったことが判っている。
 宇佐神宮は神仏習合要素の強い神社だったので、明治政府の宗教政策の影響は大きかったという。廃仏毀釈の波が押し寄せ、弥勒寺は廃寺となり、神宮でも八幡大菩薩の称号は禁じられ、八幡大神に改めた。また、仏像・仏具は取り払われ売却されたり毀されたりした。

 弥勒寺跡では何かを燃やしており、煙に木漏れ日が射し込んで幻想的だった。
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 宇佐神宮の祭神は八幡大神(誉田別命)、比売大神、息長足姫命(神功皇后)の三柱である。
 八幡大神の正史での初見は天平9年(737)に遡る。養老4年(720)に隼人の乱鎮圧のため、朝廷が八幡神に祈請したとされる。天平12年(740)には太宰府の藤原広嗣の反乱が起し、大野東人は当宮にて戦勝を祈念した。その鎮圧の神功に報いるため、金字の経典や三重塔が寄進されている。天平勝宝元年(749)には八幡神が上京する(当時の都は平城京)。この際に東大寺の手向山に八幡宮が建立された。貞観年間(859-77)には山城国に石清水八幡宮が創建され、地方神から全国的な神へとして信仰が広まるとことなる。

 表参道と合流すると、亀山のふもとに到る。社叢が濃くて薄暗い。左に登ると上宮、右に少し上ると下宮だ。また、祓所の池もある。
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池の中央にある祓所
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 西参道は閑散としていたが、表参道と合流するとぐっと参拝者が増えた。家族連れを追い抜いきながら石段を登っていくと、唐破風の鮮やかな西大門に到る。安土桃山時代の造営と伝わる。
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 宇佐神宮は奈良時代には「九州の領主」と呼ばれるくらい、既に宏大な荘園を所有していた。
 元慶4年(880)に30年ごとの式年遷宮が定められ、鎌倉時代にかけて33年ごとに社殿の造り替えが行われた。南北朝時代には戦乱によって式年遷宮は行われなくなり、社殿の造営もままならなくなる。応永25年(1418)から永享3年にかけて、周防・長門・筑前・豊前4国の守護である大内盛見が八幡宮、弥勒寺の大造営を行った。その後も大内氏の庇護を受けたが、戦国時代に擡頭した大友氏は大内氏と対立したため、大友軍によって天正9年(1581)に焼かれた。さらに豊臣秀吉の九州征伐の際には社領を没収される。

 江戸時代になって黒田氏が豊前国に入ると、在地の豪族による一揆が起こるが、宇佐神宮宮司の宮成氏と弥勒寺寺務の時枝氏は黒田氏に協力した。黒田氏は社殿を造営し、社領を寄進した。社領はのちの領主である細川氏からも寄進されたが、小笠原氏からは与えられなかった。神宮は幕府に訴え出て、正保3年(1646)に幕府から1,000石を与えられた。

西中門
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 社殿の正面に回り、参拝。宇佐神宮の参拝は二拝、四拍手、一拝となっている。
 正面は南中楼門で、皇族や勅使が通行する。外からはあまり窺い知ることができないが、廻廊の内側に一之御殿、二之御殿、三之御殿からなる八幡造の上宮本殿があり、三柱の祭神が祀られている。これら三棟は安政2年(1855)から文久元年(1861)にかけて造営されたもので、国宝に指定されている。
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 石段を下り、下宮へ。その途中には若宮神社が祀られている。大きな神社であるので、このような境内社や末社も多い。
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 下宮も祭神は上宮と同じ三柱で、奥に三棟の本殿がある。古くは御炊殿と呼ばれ、神に捧げる食事を調える場所でもあったそうだ。近くには御食(みけ)川が流れている。
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塀の上に少し見える下宮本殿
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表参道はツバキが花盛り
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 表参道から神橋を渡ると、仲見世がある。片側が店、もう片側が広場という構造は珍しい。
 仲見世の近くには一台の蒸気機関車が保存されている。神宮前の宇佐八幡駅から日豊線の宇佐駅を経て、豊後高田駅までを結んでいた大分交通宇佐参宮線の機関車だ。もとを辿れば、北部九州に鉄道網を張り巡らせた九州鉄道が明治24年(1901)にドイツから輸入したもので、相当な年代物だ。九州鉄道は国に買収されたため、国鉄を経て、戦後に大分交通に移っている。
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 帰りも国道10号を淡々と走り、レンタサイクルを返却。宇佐11:28発の中津ゆきに間に合った。
 列車は周防灘から少し距離を置いた平野部を快走する。天津、今津、東中津と韻を踏んだような駅名が続き、11:51に中津に着いた。18きっぷ利用らしい旅人は階段を駆け下りて乗り換えを急いだ(といっても発車は24分後)が、私は一旦ここで下車する。
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次の記事 豊前の真ん中、中津城下町を散策

Appendix

プロフィール

さがみぃ

Author:さがみぃ
中の人は相州生まれの相州育ち。アラサー。
地理・地図好きの筆者が、街を歩いたり、ドライブしたり、列車に乗ったり、山に登ったりしたことをダラダラと書いていきます。

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